116. 修理代金 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ドック滞在フェーズが始まり、私はてっきり、「代理艦長」という高負荷ポジションからようやく解放され、もう少し普通の不運な士官の生活に戻れるものだと思っていた。
間違いだった。 大間違いだった。
私は解放されたのではない。 「艦の生死を決める仕事」から、「誰もやりたがらない雑務が最終的に全部落ちてくる排水口」へと降格しただけだった。
この船のどこが軍艦なのか。 どちらかと言えば、「組織構造が因果応報で維持されているブラック企業」に近い。
朝は泊位の外周で、ステーション側の作業員リストと突き合わせをし、中段以下に余計な人間が入り込んでいないかチェック。 昼は医務室に行って、医療補給の受け渡しにサイン。 午後は機関区へ降りてヴィクトルに会い、ハーヴィーをネジになるまで酷使していないか確認。 夜はジェスと一緒に氷晶の在庫を洗い出し、あと何ラウンド分の取引に耐えられるか、どこまでは後に回せて、どのラインだけは絶対に譲れないかを算盤を叩く。
時々本気で疑いたくなる。アッシュが私を代理艦長の席から降ろしたのは、良心の呵責ゆえではなく、「椅子に縫い付けておくより、動く雑役として使った方が効率がいい」と見抜いていたからではないかと。
この男は恐ろしい。 しかも、その恐ろしさが極めて合理的だ。 それが一番タチが悪い。
泊位の連絡ブリッジでアッシュと鉢合わせた時、私は両腕に医療用パーツの箱を抱え、肩には通信端末をぶら下げ、行政と物流の二系統に同時に追い回された人間の姿をしていた。
反対側から歩いてくるアッシュの後ろには、ステーションの帳場の人間が二人と、雪風の記録兵が一人。服装は乱れず、足取りは落ち着き、表情は平静そのもの。「高級な交渉のテーブルから優雅に引き上げてきました」とでも言いたげだ。
一方の私は、「補給ラインと素手で殴り合ってきました」という顔をしていた。
彼は私を一瞥し、 ずり落ちかけていた端末を、自然な手つきで支え直してくれた。
「今の君は、荷役長だな」
「今の私は、この二箱をあなたのよくできた交渉顔面に投げつけたい気分だけど?」
「そうすると、医務室が真っ先に物資不足になる」
「本当に、人が一番言い返しにくい角度から嫌味を言うのが上手よね」
アッシュの口角がわずかに動いた。 「ありがとう」
「褒めてない」
「だが、好意的に受け取っておく」
可惡。 アイダまで見習ってきたのか、この「悪意をそのまま受け取りつつ、勝手に都合よく変換する」技術。
この艦の連中は、本当に悪い癖ばかり伝染させ合っている。
真紀の方は―― 復帰してからの彼女との距離は、代理期間中よりも、むしろ一段と「正確」になった。
離れたわけではない。 もっと危うく、成熟した均衡に戻ったというべきだ。
今の彼女は副長として、全艦の事務、修理スケジュール、人員シフト、医療優先度、ステーションとの接触記録を担っている。「規律」という二文字をそのまま肩に乗せて歩いているような忙しさだ。それでも、不思議と、私が一番みっともない格好をしている時に限って、正面からばったり出くわす。
たとえば、帳簿烏と材料の代替リストでひと勝負した帰り道、修正版を三度も差し戻された水循環パーツの一覧を腕に抱えたまま、雪風の中段メイン通路の入口でスケジュールを見ている真紀と目が合った。 彼女は顔を上げ、一度私の顔を見てから、腕に抱えた、私の尊厳よりも厚そうな書類板に視線を落とした。
「また仕事を足された?」
「今は、代理艦長の方が休暇に見える」と私は言った。
真紀の目の奥に、ごく淡い笑意がかすめた。
「ようやく、副長が普段何をしているか、少しは分かってきたみたいね」
「もし先に知ってたら、前に心の中で悪口を言う回数を、二回くらいは減らしてあげたのに」
「二回だけ?」
「……今、その言葉尻を拾わなくてもよくない?」
彼女は答えず、私の胸元から今にも滑り落ちそうな一番上の板をすっと抜き取り、ざっと目を通した。
「帳簿烏が急ぎのパーツと代替品を一緒くたに書いてる」彼女は言った。「これは差し戻して。元の型番と互換型番を分けて書かせて。そうしないと、機関区と医務室が同じラインのコネクタを取り合いになる」
私は一瞬、ぽかんとした。
「どうりで妙に読みづらいと思ったけど、どこが変なのかまでは掴めなかった」
「疲れてるからよ」と彼女は言い、板を返しながら、あくまで仕事の延長のような平坦な声で付け加えた。「出し直してきて。こっちでその分のスケジュールを三十分押す」
……副長は、時々本当に危険だ。
余計な一言などなく、ただ当然のように、今にも崩れそうな角を押さえてくれるだけで、こちらは命ごと足元に差し出したくなってしまう。
この状態は、健康的ではない。 分かっている。 だが、自覚があるからといって、沈み込む速度が落ちるわけでもない。
笑いの種について言えば―― 雪風は決して枯渇しない。
ハーヴィーが医務室を出て三日目、機関区で彼を見かけた時、私は一瞬誰だか分からなかった。 怪我で姿が変わったせいではない。 魂の方が、ヴィクトルにバラされ、洗われ、組み直され、最後にスパナで叩き込まれたように見えたからだ。
彼は機関室外側の通路にしゃがみ込み、全身を機油と冷却液と正体不明の粉塵にまみれ、手には防弾板代わりに使えそうな厚さの旧式整備マニュアルのコピーを抱えていた。表情は、哲学科を中退した直後の学生みたいに虚ろだ。
私は足を止めた。 「……まだ生きてる?」
ハーヴィーがゆっくり顔を上げる。 「肉体的には、はい」
「精神的には?」
「ヴィクトル曰く、精神は一番どうでもいい消耗品だそうです」
私は吹き出した。 「本当にそう言ったの?」
「原文はもっと長くて、もっと人を馬鹿にしてました」ハーヴィーは言った。「今日は、三つの年代が違う冷却回路の中から互換性のあるコネクタを探せって言われて、間違えるたびにマニュアルの百二十ページから百五十ページまでを手書きで写さされました。電子入力は禁止で」
「それは修理じゃなくて禁固刑では?」
「最初は弟子入りだと思ってたんですけどね」ハーヴィーの目は空虚だった。「今は、どちらかと言えば買われた奴隷に近い気がします」
私は彼の肩を軽く叩いた。 「おめでとう。もう機関科の匂いがしてる」
「その匂いが、慢性的トラウマのことを指すなら、全面的に同意します」
一方のDも、ハーヴィーと大差なかった。 保安部に放り込まれた彼は、最初こそ「ドアの前に立ち、封鎖区画を巡回する」程度だと思っていたらしい。だが、ローレンス修理廠という場所における保安の本質は、「最少人数で、最大数の『手癖の悪い手』を制御する」ことだ。 泊位の警戒ライン近くでDに会った時、彼は壁にもたれかかり、ステーションの運搬工三人が、密閉コンテナを雪風の泊位のすぐ脇を通していくのを睨みつけていた。顔は、三時間続けて安っぽい啓発動画を見せられた後のように酷かった。
「どうした」と私。
Dはこちらをちらりと見た。 「保安部長に、『本当にただ通り過ぎているだけの奴』と『通り過ぎるふりをして門番の間合いを測っている奴』の見分け方を叩き込まれている」
「習得した?」
「しました」Dは言った。「結論としては、このステーションの九割は殴る価値があります」
「……実に建設的な判断ね」
「それから」と、彼は付け加えた。「ここのガキは警告板を盗む」
私は二秒黙った。 「何?」
「昨日、どこかの区画から抜け出してきたチビが、うちの封鎖区画の『立入禁止』標識を外して、スケボー代わりに持っていきました」Dは無表情で言った。「保安部長曰く、週に二回はあるから、いちいち驚くなとのことです」
三秒ほどかけてその光景を想像し、私は壁に手をついて笑い転げた。
「悪いけど、これは本当にローレンス修理廠らしい話ね」
「今では、この場所が生き残っているのは規律があるからじゃないと確信しました」Dは言った。「混乱そのものを流れの一部として組み込んでいるからです」
……あまりにも的確で、少し泣けてくる総括だった。
*
そんな混乱と闇市と工数と補給と雑用まみれの日々の合間に、雪風の新しい艦橋チームも、ようやく本物のチームらしく機能し始めていた。
夢のように息が合って、目配せだけで意思疎通できるようになった、という話ではない。 そんなことはない。 相変わらず互いを疎ましく思い、相手の言葉が癪に障り、報告書の言い回し一つでタブレットを叩きつけたくなる場面も多い。
だが少なくとも、分業は根付いてきた。
対外交渉はアッシュ。 これに疑いの余地はない。親方、マザー・アイアン、帳簿烏、レジャー相手の応酬を見れば明らかだ。冷たく精密で、相手の曖昧な条款を一つ残らず引き摺り出して日光に晒すような仕事は、天性として彼に向いている。
艦内行政と修理スケジュールは真紀。 今の雪風で最も「まともな軍艦」に見える部分は、おそらく彼女の机の上のスケジュール板だろう。人員シフト、工区の開放時間、医療材料の優先順位、補給の配分、ステーションへの登艦許可、雪風乗員の外出時間帯、すべてが冷酷に、明瞭に、容赦なく並んでいる。多くの乗員は、最初の三日は彼女に睨まれて頭皮が痺れていたが、三日後には全員が認め始めた――彼女がいる限り、この艦は自分の忙しさで自壊することはない、と。
蘭とアイダが安全警戒を担当する。 蘭はもともと通信と外部識別のエキスパートだったが、今はステーション内の出入り監視と泊位センサーの照合も加わり、表情は乏しいが、実によく根に持つ監視システムのようになっている。アイダは内部プロセスと接続セキュリティを担当し、雪風の内部権限、防護扉、対外工区活動を最小リスクで接続する役目を担う。二人が並ぶと、静かだが、迂闊に触れれば即座に感電させられるような気配を放っていた。
ジェスは氷晶の残量と取引の下限を管理する。 これは彼女らしくないと思われるかもしれないが、意外なほどうまくやっている。理由は簡単だ。ジェスは口が軽く、噂好きで、頭の中に常に劇場を抱えているが、「相手がいつこちらの手の内を探ろうとしているか」を嗅ぎ分ける感覚は非常に鋭い。加えて今はアイダと一緒にサンプルと支払済み額を管理するうちに、単純だが非常に使い勝手のいい分類法を編み出した。
「払えるもの、今は払えないもの、死んでも人に触らせちゃいけないもの」
彼女はそう要約した。 私はその場で水を噴きそうになった。 だが考えてみれば、これはひどく正確だ。
そして私は―― 今の自分の役目は、ステーション内を歩き回り、穴を埋め、現場の細部を監視し、ジェスよりは八卦にならずに済む人形観察器くらいのものだと思っていた。
だが、それがあまりに甘い認識だったと、すぐに気づかされることになった。ローレンス修理廠が抱えているものは、私たちが最初に想定していたよりも、ずっと根が深かった。
きっかけは、拍子抜けするほど普通のことだった。 偶然と言ってもいいくらいに。
その日、私は真紀に代わって外層の物資確認に走り、帰り道でメイン通路が一時封鎖されていたため、ステーションの誘導員に古い保守連絡通路を通るよう指示された。 その通路は人が普段歩く場所より狭く、静かだった。岩壁が剥き出しで、補強梁は古代の遺物のように古びており、照明も青白い冷光がまばらに点いているだけだ。
道の半ばで、まず音が聞こえた。 溶接音ではない。 金属を叩く音でもない。
重量級のスライドレールが動く時の低い摩擦音と、油圧ロック機構が咬合する鈍い金属音だった。
その音には、聞き覚えがあり過ぎた。 一般的な泊位修理区画から出る音ではない。
私は歩調を落とし、角に身を寄せて先を覗き込んだ。 そして、見た。
そこは普通の作業場ではなかった。 旧式の保守区画の奥に偽装された、深層改装ドックだった。
空間はさほど広くないが、天井高は十分にある。内部には吊架、固定アーム、重荷重スライドレール、外部接続ケーブル束、熱排出井が一式揃っていた。壁際には、明らかに民生規格ではない砲塔基座、旧式艦載兵装インターフェース、増厚装甲骨格板が並んでいる。さらに油布を掛けられた長尺モジュールが二列。どう見ても、普通の貨物コンテナには見えない。
一目で分かった。 ここで直すのは、普通の船ではない。 ここでできるのは、軍用レベルの改装だ。
「外板を何枚か貼り直して、配線を何本か交換する」程度の話ではない。 艦の牙と骨と爪を新たに生やし直し、本来あるべきでない形に育て直すことができる場所だ。
私は影の中に立ち、背筋がゆっくりと冷えていくのを感じた。 恐怖からではない。 ようやくはっきりと理解したからだ。
ローレンス修理廠が、この宙域でこれだけ長く生き延びてきた理由は、修理ができること、商売ができること、闇市を回せることだけではない。 存在してはならない武装を、再び存在させることができる。 しかも、その手口に熟練している。
その瞬間、頭に最初に浮かんだのは帳簿烏でも、マザー・アイアンでもなかった。 レジャーだ。 氷晶を見た時の目が、あまりにも平坦すぎたあの男。 そして、彼のあの一言――「出所は、安定しているかね」。
私は疑い始めていた。 ここでの氷晶の意味は、補給代と工数代と外板代の代わりになる、というだけではないのかもしれない。 もっと前から、この站に何かの線が埋まっていたのではないか。 そして私たちは、ただ偶然にその上を踏んだだけなのではないか。
私はそれ以上長居しなかった。 こういう場所では、二秒余計に見ているだけで、「覚えられた側」に回ってしまう。
踵を返して歩き出した時、頭の中にはただ一つ、はっきりとした考えだけがあった。
雪風が今停泊しているのは、命を繋ぐことができる修理ドックだけではない。 もっと多くの厄介事を磨き上げて、ゆっくりとこちらに差し出してくる、兵器のブラックホールでもある。
そして私たちは、もうその中にいる。
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