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臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:ロスト
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115.整備工場 1

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

氷晶サンプルの件は、ひとまず私が押さえておいた。


水が戻ってきた。艦内の配給カップに注がれるものは、ようやく「人生への侮辱」以外の何かになった。食堂のスープもスープらしい味になってきて、悲しみを煮詰めた汁のようではなくなった。機関部にいたっては、補給班と喧嘩する元気まで戻ってきている――雪風でこれが起きるのは、実質的に春の訪れと同義だ。


だが、人は喉の渇きが癒えると、今度は口が暇になる。 口が暇になれば、問題が生まれる。 しかも大抵は、重要人物のところからは始まらない。 一番かまいたくないくせに、放っておくわけにもいかない場所から始まるのだ。


その日、艦内第一次補給修正が公示された直後、私はいつも通り下層甲板へ降り、損害管制の封鎖区画の進捗を確認し、ついでにCIC周辺の隔離状況も見ておくつもりだった。あの一帯は今、死刑執行が猶予になった臓器のようなもので、まだ雪風の身体に埋まってはいるが、当面誰も触れないと決まっている。 封板、警告灯、外部接続ケーブル、臨時で迂回接続されたデータ回線。すべてが「直した」のではなく「とりあえず死なせないようにした」という、貧乏くさい工業的機能美を漂わせていた。


区画を折れて公共補給通路に出た途端、前方から少し不穏な声が聞こえた。 殴り合いではない。 まだそこまで賑やかじゃない。 どちらかといえば、何人かが怒りを押し殺しながら、声だけ確実に大きくなっていく前奏だ。


迂回するつもりだった。本当に。代理艦長を数日務めて学んだ一番大事なことは、「すべてのクソ案件に自分の足で踏み込む必要はない」ということだ。だが横へ半歩ずれたところで、自分の名前がひどく無遠慮に放り出されるのを聞いた。


「――中尉一人が、今は艦長席で勝手に決裁してるってわけか」


私は足を止めた。 上等だ。 もう避けられない。


前方に十人ほどが固まっていた。大規模ではないが、雪風名物の「これは騒乱じゃない、ただ非常に公然と不満を表明しているだけだ」という場面を成立させるには十分な人数だ。


声を張っていたのは補給班の軍曹だった。顔は知っている。付き合いにくい男ではないし、仕事も早い。平時なら模範下士官になれるが、物資が逼迫すると全艦で一番煙たがられる配給の門番に変わるタイプだ。今は端末を握り、誰かに朝食券で靴を磨かれた直後のような顔をしている。


その正面に立っているのはアカリだ。 よし。 これはますます賑やかになった。


アカリは腕を組み、壁にもたれていた。「あと一言でも余計なことを言えば、専門用語だけで人生を疑わせるレベルまで論破する」というくらい冷え冷えとした表情だ。 周りには機関部と損管の人間が数人。蘭もいる。ジェスがこの手の場を見逃すはずもなく、外周にはロイまで立っていて、「巻き込まれたくないのに、もう立ってしまっている」と顔に書いてあった。 アイダは一番後ろで、事故分析会の傍聴に来た冷血な裁判官のように静まり返っていた。


その陣容を見て、最初に来たのは頭痛ではなかった。 笑いそうになった。 雪風というのは本当にたいした艦だ。他の船なら危機の淵で、乗員が身を寄せ合い団結して生き延びようとするのかもしれない。雪風は違う。雪風はまず、全員が「喧嘩できる程度の基本的な尊厳」を保っているかどうかを確認する。


「じゃあ聞くけど、今は誰が決めるの?」アカリの声は高くない。だが一語一語が乾いて冷たい。「艦長は重傷でコールドスリープ、副長と三等上尉はまだ医務室、CICは使えない。あなたが座る?」


軍曹は引く気がなかった。 「席を奪いたいわけじゃない。言ってるのは、この配給のやり方、水採取の外出、素性の分からない地表サンプルに人を連れていったこと――誰が責任を取るのかって話だ」 「代理艦長が取ります」ジェスが口を挟んだ。火薬樽の横でハーモニカを吹くような軽さで。「完璧な体制ですよ。どうぞご体験を」 「茶化すな」軍曹が眉をひそめる。「同じ班だから、庇うのは当然だろ」


ジェスは即座に胸に手を当て、傷ついた顔を作った。 「ひどい言い方ね。私が庇うのは、同じ班だからってだけじゃないのに」 「もともと野次馬根性で面白がってるだけでしょ」蘭が言った。 「蘭、こういう時に梯子を外さないで」 「事実の訂正です」


外周でそれを聞いていた私は、ふと踵を返して立ち去りたくなった。 あいにく、もう見つかっていた。 最初に気づいたのはロイで、授業中に手紙を回していたのを見つかったような顔になり、さっと姿勢を正した。次にジェスが目を輝かせ、「本命の登場ね、これでさらに面白くなる」という表情を隠しもしなかった。


人だかりが、見えない何かに軽く撥ね退けられるように、自然と道を開けた。 すべての視線が一斉に私に落ちてきた。 ああ。 実に結構だ。 上に立つ人間の顔がどんどん険しくなる理由が、今なら少し分かる。全員が言葉を待っている状況では、ただ呆れて白目を剥きたいだけでも、周囲はそれを政治的なシグナルとして受け取ってしまう。


私は前に出て、軍曹の二歩手前で止まった。


「続けて」


彼が一瞬固まった。 「……は?」 「さっき、意見があったんでしょう」私は彼を見た。「公の場で口にした以上、公の場で最後まで言い切って。私が来た途端に雑談だったふりをするのは受け付けない」


通路が静まり返った。軍曹の顔色が何度か変わり、最後には歯を食いしばって口を開いた。


「……はい。意見があります」 「よろしい」私は頷いた。「じゃあ今、全部言って」


こういう時に一番厄介なのは、反対されることそのものじゃない。 一番まずいのは、相手が反論の途中で自分から縮み上がり、事態全体が粘つく暗流に変わることだ。そういうものは後になって、三つ違う場所から同時に噴き出してくる。その場で一度ちゃんと喧嘩するより、ずっと胸糞が悪い。


軍曹は息を吸った。


「あなたが必死にやってきたことや、この数日ちゃんと引き受けてきたことを疑ってるわけじゃない」彼は言った。「疑ってるのは資格だ。あなたは中尉で、しかも候補生上がりだ。それが、正式な指揮系統も戻っておらず、正式な引き継ぎもない状態で、ずっと命のかかった決定を下し続けている。水を持ち帰ったのはいい。でも、あの日誰かが死んでいたら? 次はクレバスに落ちかけるだけじゃなく、部隊丸ごと帰ってこなかったら?」


その言葉が落ちた瞬間、通路の空気が一段沈んだ。 彼の言っていることが、全く的外れではないからだ。 最も厄介な追及というのは、理不尽な難癖ではない。 七割の事実と、二割の恐怖、残り一割の「ちょうど人を眠れなくさせる何か」でできている類のものだ。


私はすぐには答えなかった。 横で誰かが動いた。視界の端で見なくても分かる、ロイだ。反射的に口を開きかけて、無理に堪えている。ジェスも珍しく茶化さない。アカリは腕を組んだまま、視線だけを私に向けていた。システムの限界試験を見るような目だ。 アイダはやはり静かだった。 その静けさは部外者のものじゃない。彼女は見ている――私がこれをどう処理するかを。


ふいに笑いたくなった。 この艦は本当にすごい。 内輪の衝突ですら、抜き打ち試験の形でやってくる。


私はゆっくり口を開いた。


「あなたは半分正しい」


通路にいた全員が、明らかに固まった。軍曹自身も一瞬言葉を失った。最初に認められるとは思っていなかったのだろう。


「資格の話なら、私が完璧じゃないことは最初から分かってる」私は彼を見据え、平坦な声で言った。「飛田艦長が今立てる状態なら、あるいは九島真紀上尉、アッシュ・ヴァンダー三等上尉が完全に職務に戻っているなら、この席は私には回ってこない。それは、あなたより私のほうがよく分かってる」


何人かの視線が動いた。 私はそのまま続けた。


「でも今、問題は誰に順番が回ってくるかじゃない。問題は、あの数日間、この艦には決断を下す人間が一人必要だったってこと。水は足りない、CICは壊れた、神風機関は半死半生、航路は残り五日、医務室には人が並んでいた。あの時私に選べたのは『完璧な指揮』か『不完全な指揮』かじゃない。『誰かが決める』か、『全員で死ぬのを待つ』かだった」


最後の四文字を口にした後、場はさらに静まり返った。 あまりにも直接的すぎたからだ。 だが今の私には、誰かのために見栄えのいい包装紙を用意する気力がない。


「リスクの話も」私は軍曹を見た。「あなたは正しい。採水は高リスクだ。地表の異常サンプルに触れるのも高リスクだ。でも、全艦の水を確保しながらリスクをゼロにできる案があるなら、今すぐここで出して。聞くから」


軍曹の唇が動いたが、言葉は出なかった。 ないからだ。 この艦には今、「安全に生き延びる」という選択肢が存在しない。 あるのは「すぐには死ににくいほうを選んで持ち堪える」ことだけだ。


私は一歩前に出た。 ほんの少し。 でも、これが議論ではないと悟らせるには十分な距離だった。


「私に異議を唱えていい」私は言った。「むしろ唱えるべきだ。こんな声すら上がらなくなったら、雪風には頷くだけの死体しか残らない。でも唱えた後は、その先を引き受ける覚悟も持って。言葉だけ投げて、結果は他人に丸投げするな」


私は周囲を見渡した。軍曹だけじゃない。 全員を見た。


「今日から、意見があるなら艦橋へ直接、公の場で、正式に持ってきて。陰でこそこそ言うのは受け付けない。配給や損管、実行段階でわざと遅延させておいて、あとで『上の決定が間違っていた』に丸投げするのはもっと受け付けない。反対したいなら前に出て言え。前に出た人とは、私が正面から話す。でも、新しい指揮系統が正式に回復するまで、雪風の命令系統は一つだけだ」


私は一拍置いた。 そして最後の一文を叩きつけた。


「そして今のところ、その系統は私だ」


通路は、誰かが空調の音まで消してしまったように静まり返った。 少し重すぎたのは分かっている。 元々言おうとしていたより、ずっと重くなった。 でも、全員に居心地のいい人間でいようとすれば、結局は艦全体をクレバスに滑り込ませる人間にしかなれない。 これは私が望んだ立場じゃない。 だが、降りる前に、まずここをしっかり座り切らなければならない。


軍曹はしばらく顔を強張らせていたが、最後には姿勢を正し、頭を下げた。


「……了解しました、代理艦長」


私は追い打ちをかけなかった。


「よし。じゃあ補給班の第二次配給修正表を作り直して。見たいのは実際の消耗データと五日航程モデル。前のあの、窮状を訴えるための抒情散文はいらない」


後ろで誰かが堪えきれず噴き出した。軍曹の顔は一段黒くなったが、それでも「はっ」と応じた。


場が散り始める前に、アカリが一度だけ私を見た。 「まあ悪くない」 この女の褒め言葉の吝嗇さには、感心するしかない。


ジェスがすぐ寄ってきて、小声で言った。「最後の一言、すごく格好よかった。拍手しそうになった」 「拍手したら、明日の温食を栄養ゼリーに替えるから」 「ほら、これが権力の腐敗ってやつよ」 蘭が横から刺す。 「でも効く」


ロイが少し近づいてきた。表情がやや複雑だった。 「霜、さっきのは……」 「真紀の真似みたいだった?」 「……少し」


私は半秒黙った。 「それを聞いて、余計に機嫌が悪くなった」


今度はアイダまでが、笑いを堪えるように少し顔を背けた。 見えていたが、拾う気にもなれなかった。 正直なところ、あの一連を言い終えた時点で、自分でも分からなくなっていた。あれは権威を保つためだったのか、それとも本当は一秒も長居したくない席に、意地で座り続けているだけなのか。 そして恐らく、後者の比率のほうが、みっともないほど高い。

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