110. 限界 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
雪風はロイの操舵のもと猛然と加速した。人の腹から引き抜かれたばかりで、まだ血を拭う間もない刃のように、伸びた推進器の尾炎を引きながら、帝国軍の艦列脇を強引にこじ抜けていった。
綺麗に滑り出したわけじゃない。
みっともなく、しかし確実に効く抜け方だった。
前方には私たちが自ら噛み崩した混乱、後方にはようやく我に返り、元利まとめて噛み返そうとしている帝国巡洋艦群。戦術スクリーン上の敵味方の相対軌跡は、誰かが真っ赤に焼けた鉄釘を一盆、星図の中へぶちまけたように乱れていた。その一本一本が言っている——逃げろ、今すぐ、でなければ艦ごと道連れになる。
飛田艦長は、相変わらずあの顔だった。
連邦軍が軍用品として管理すべきではないかと思い始めている、あの顔——普段は冷たく、有事にはさらに冷たく、局面が十分に腐って面白くなってくると、かすかに発光し始めるあの顔だ。
彼は艦長席脇の内線電話を取った。動作は澱みなかった。機関長へかける電話というより、今夜の夕食を配達員に頼む電話のような手つきだった。
二秒も経たないうちに、スクリーンに首席機関長の、存在感たっぷりの顎髭の顔が映し出された。
「ヴィクトル」飛田艦長は極めて短く訊いた。「神風は損傷しているか。今すぐ使えるか」
スクリーンの向こうのヴィクトルは、無駄口を一言も挟まなかった。
「使える」
そして通話が切れた。
……上出来だ。
これが雪風の仕事文化だ。他の艦なら「現状は以下の通り、リスク評価は以下の通り、推奨事項は以下の通り」という手順を踏むかもしれない。雪風は違う。使えるか、と訊く。使える、と答える。そして全員まとめて命を賭けに行く。
飛田艦長は電話を置き、一秒の間も置かず、前方のロイへ直接命令を下した。
「ロイ少尉、現在の速度を二分間維持。短距離跳躍の準備をしろ」
その言葉を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは安堵ではなく、別の種類の胃痛だった。
超光速航行じゃない。
短距離跳躍だ。
つまり飛田は、ただ逃げようとしているんじゃない。場所を変えて、もう一度この盤面をひっくり返そうとしている。
「まだやる気なんですか」という言葉が実際に口を出る前に、飛田艦長は背中に感知器でも積んでいるのか、完全に振り向く前に笑った。
「また来た、中尉」
その笑いは薄く、短く、そして極めて腹立たしかった。
「今ここで逃げたら、腹を立てた帝国軍がパイク六号星に何をするか——言わなくても分かるだろう」
口を閉じた。
……そうだ。
腹立たしいことに、これは正しい。
今すぐ艦首を転じ、帝国艦隊の後列が噛み崩された隙に全速で遁走すれば、「こちらの生存」という観点からは筋が通る。
だが問題は、追い縋ってくる四隻の帝国巡洋艦が、糖を取り上げられて泣いて帰る幼稚園児ではないということだ。あれは、雪風に背後から一刀叩き込まれ、今まさに星域をひっくり返してでも下手人を見つけ出したい帝国軍だ。
そして、最も近く、最も柔らかく、最も不運な八つ当たりの標的が、パイク六号星だ。
心の中で舌を打った。
こういう時、長官の論理が分かってしまうというのは、本当に興が冷める。
「副長、跳躍警報を発令しろ」
「了解」
真紀はすぐさまハンドセットを取り、もう一方の手で警報スイッチを叩いた。短い電子警告音が艦内に響き渡る。さっきの全面戦闘警報ほど重くはないが、より鋭く、より近く、心臓に直接触れてくるような切迫感があった。
真紀が深く息を吸い、全艦放送へ声を送り出した。
「全艦、奇点跳躍への移行を準備」
その声は、やはり腹が立つほど安定していた。
温かく宥めるような安定じゃない。「今吐きたくても、跳躍が終わるまで待て」という種類の安定だ。こういう時に真紀が警報を出すのは、理不尽なほど効く。彼女がまだこの口調で話せている限り、誰もが思わず信じてしまうからだ——今から事故報告書に書かれるようなことをやろうとしているが、少なくとも一人は何をしているか分かっている、と。
飛田艦長が前方を見据えたまま、一言付け加えた。
「ロイ!! 今度は本当に気をつけろよ。六式は二十五パーセントの出力しか使えない」
その言葉を追いながら、切り出された副制御ウィンドウへ視線を移した。六式時空波動捻転機関・『神風』を管轄する操作台が映っている。
そして、二秒ほど沈黙した。
なぜなら、その操作台には、ボタンが三つしかなかったからだ。
大きく。
実にそっけなく。
どこかの現役を引退しようとしない工業機械から丸ごと外して、埃を払ってから軍艦に取り付けたような、そういう三つだ。
それぞれに書かれているのは——
全速
半速
止
……ロイのために、弔辞の一節を考え始めた。
ロイも明らかにその三つのボタンを凝視していた。顔全体に「連邦軍の技術ツリーはどうなっているのか」という衝撃と絶望が書かれている。操舵桿を握ったまま、無理やり半秒だけ絞り出した。
「艦長……二十五パーセントはどうやって使うんですか」
飛田艦長の答えは、驚くほど自然だった。
「まず半速を押す。それから、停止だ」
危うく自分の唾で詰まりかけた。
……これは何時代の操作方法だ???
戦艦の奇点跳躍エンジンじゃない。古い扇風機が壊れた時に、職人が「まず二段に入れて、すぐ切れ」と教えてくれる民間の裏技に聞こえる。
連邦軍はこれを戦場に持ち込んで、帝国軍の追撃砲火の下、若い舵手に二十五パーセントを精密に制御しろと言っている——これはもう部下への信頼ではない。部下を神様に預けて、今日の気分を伺っているだけだ。
「星野——」
アカリの声が、私の心の中の悪態から強引に引き戻した。
「後ろ、追ってきてる」
即座に後方追撃の画面をメインウィンドウへ切り替えた。
四隻の帝国軍高速巡洋艦が、激怒した猟犬のように、爆発の残光と機雷群の境界の間から噛みついてくる。陣形は完全には保っていない——さっきの一噛みは確かに痛かったのだろう。だが、痛かろうと速度は落ちていない。
先頭の一隻はすでに艦首主砲の予熱を始めていた。跳躍前に雪風を叩いて、奇点入口の手前で廃鉄にしてやろうという意図が、手に取るように分かった。
「了解」
ほとんど反射で、電子干渉糸と囮信号ポッドの射出インターフェースを全開にした。
発射。
艦体後方から、瞬時に一連の干渉点が吐き出された。宇宙に砕けた銀色の網を広げたように煌めく。別の囮信号ポッドは、航路から外れた角度へ投じられ、複数の混乱した熱源と偽の推進波形を模擬していく。
これで熟練者を完全に騙せるとは思っていない。だが、最も肝心な数秒間、敵の火制解算にくしゃみを二、三回させるくらいの効果はある。
「艦橋全員、シートベルトを締めろ」飛田艦長の声が低く落ちた。「跳躍を頼む——ハートマン君」
その、突然どこかの舞台挨拶のような呼びかけに突っ込む間もなく、前方のロイがすでに歯を食いしばってボタンを押すのが見えた。
まず半速。
続いて——
止。
神がかり的な、どう考えても正規の操作手順書に書かれるはずのない、その一瞬——後方から帝国軍の光束が艦橋目がけて直進してきた。
「——!」
誰も最後まで叫ぶ余裕がなかった。
朗報は、私が直前に投じた反光束機雷が、最後の瞬間に働いたことだ。数発の機雷が雪風後方の空域で炸裂し、瞬時に高密度の折射層と粒子擾乱場を展開した。本来なら正面から貫通してくるはずだった光束を、辛うじて大きく逸らした。
悪報は——
逸らされた、は、無事だった、ではないということだ。
光束が折射場を通り抜ける際に引き起こした乱流と高エネルギー干渉は、雪風が最も触れられてはならないタイミングへ、鉄棒を突き込んだも同然だった。
跳躍の前後、そして超光速航行の切入・切出の前後は、すべての艦艇が最も脆弱な瞬間だ。
これは文学的な比喩ではない。
現実的で、恐ろしく、間違ったその一秒に宇宙に塵として引き裂かれかねない、そういう種類の脆弱さだ。
次の瞬間、雪風が跳んだ。
比喩ではない。
本当に、何か巨大な見えないものに掴まれて、上下左右に激しく揺さぶられるような感覚だった。艦橋の光と影、スクリーン、警告灯、金属骨格の振動音、すべてが同じ瞬間に一塊になって歪んだ。
シートベルトが肩と腰に食い込み、私は座席に叩き戻された。内臓が全部、ドラム式洗濯機に放り込まれて最高回転にかけられ、それでも足りないと思った誰かが洗濯機ごと階段から蹴り落としたような感覚だった。
警告音が一斉に鳴り響いた。
視界は跳ね回る赤と白だらけだ。
誰かが数値を読み上げている。誰かが悪態をついている。誰かは吐くのを堪えているかもしれない。誰かはもう吐いたかもしれない。
判別がつかなかった。
なぜなら、その瞬間、私は本当に自分がもう死んだと思ったからだ。
尊厳のある、悲壮な、走馬灯が走るような死に方ではない。
「なるほど、私の最期はボタン三つの骨董エンジンと、一発の偏折光束か」という、極めて体裁の悪い死に方だ。
そして——
ぱん。
大きな音ではない。
爆発でもない。
何か奇妙な、軽い、しかし世界全体を誰かが指で弾いたような音がした。
次の瞬間、雪風は元いた宙域から、艦ごと消えた。
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