↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
臨界の星穹  作者: Mr.佐藤焫焵
臨界の星穹:士官学校
315/358

98. 敗北からのスタートライン 2

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

「主ボイラー、負荷一〇八パーセント。左舷推進軸受け、温度上昇が続いています。このまま最大戦速を維持すれば――九十秒以内に冷却回路が崩壊します」


艦橋が半秒、静まり返った。


九十秒。 この数字は敵艦よりも厄介だ。 なぜなら敵艦は外にいる。 九十秒は船の中にいるからだ。


「今すぐ巡航速度へ落とすなら」機関室の声は一字一字を噛むように続けた。「主機を保てる可能性はあります。このまま粘れば、左ボイラーが先にやられます」


アッシュはすぐには答えなかった。 なぜ答えられないのかは、私にもわかった。 これは数学の問題ではないからだ。 減速すれば、主機は助かるかもしれない。敵艦に追いつかれるかもしれない。 減速しなければ、もう少し距離を稼げるかもしれない。だが主機が先に爆発するかもしれない。 本当に厄介なのは、いつも「できない」ことではない。 どちらも正しいのに、片方しか選べないことだ。


「敵護衛艦が加速して追尾してきた」エヴリンが言った。「ライプツィヒ本体は後方で安定した圧力をかけ続けているが、駆逐艦二隻が我々の尾後追撃ラインに入った」


「速度を奪いに来ている」ハーヴィーが補足する。


「しかも、こちらが損傷しているのを知っている」Dが今回は珍しく軽口を叩かなかった。


真紀はロイの横に立ち、前方の戦術マップを見つめながら、ようやく口を開いた。


「このまま全速で粘れば、自分たちで自分たちを殺すことになる」


アッシュは振り返らず、ただ問いかけた。


「どれくらい持つ?」


「損傷の悪化速度次第です」真紀は言った。「ただ、私たちが望む時間ではないでしょう」


アイダは艦内への命令を続けている。


「放熱板の修理に欲張るな。姿勢制御と給電を先に守れ! 外壁は応急パッチで押さえておけ。火勢を主幹線に食わせるな!」


「傷ついた乗員を二番連結口の前に積み上げたのは誰だ? どかせ! そこは補修班の通路だ!」


私は火器管制パネルを睨みつけながら、いくつかのメニューの上に指を浮かせ、そこで初めて、ある一つのことを本当に実感した。


撤退するとき、戦術長にとって最も恐ろしいことは、どう撃つかわからないことではない。 何を撃ってはいけないかを、わかっていなければならないことだ。


今ならば、振り向いて一回牽制を打てる。 どう組み合わせるかもわかっている。 実体弾。近接防御の分流。さらに対艦誘導弾を一回、後ろの駆逐艦二隻に向けて叩き込み、先に退かせる。 問題は、それには時間がかかるということだ。 エネルギーも消費する。 姿勢の安定も必要だ。 そして今の私たちに最も足りないのが、ちょうどその三つだ。


だが打たなければ―― 奴らはずっと食らいついてくる。


「戦術席」アッシュが唐突に呼んだ。


喉が引きつった。


「もし振り向いて牽制するなら、どれくらい稼げる?」


来た。 これが一番厄介なところだ。 彼が聞いているのは「打てるか」ではない。 「打つ価値があるか」だ。


私は接近してくる二隻の駆逐艦を見つめ、ボイラーの負荷、姿勢制御の損失、散布器の残量を確認した。


「……牽制だけを目的とし、撃沈を狙わないなら」自分の声が聞こえた。「二十秒から三十秒。前提は、主機がまだ持ち、姿勢修正がこれ以上崩れないこと」


「代償は?」真紀が問う。


「主砲の旋回、解算、発砲、そして離脱姿勢への復帰で、ボイラーと推進がさらに食われます」手のひらに汗が滲み始めた。「それに、後方ではエンペラー級がまだ見ています」


平たく言えば―― 咬み返せないわけではない。 ただし咬み返した後、自分の歯が先に折れる可能性が高い。


アッシュは二秒間、黙った。 たった二秒だ。 だが戦場で最も人を殺すのは、往々にしてこういう短い二秒だ。 主機を助けたい気持ちと、あと二十秒稼ぎたい気持ちが同時にある。手放すべきだとわかっていながら、もう一度振り向いて一刀浴びせたい衝動が抑えられない。


「ボイラー負荷、一一〇パーセント!」


機関室がほとんど怒鳴り声で押し込んできた。


「降速しなければ、左ボイラーが先にやられます!」


「左後舷、応急パッチ固定失敗!」アイダの声は冷静だったが、残酷なほどに。「火勢は抑えた。だが姿勢制御帯はまだ漏れている。時間が必要です!」


「敵艦の後続火力、ロックオン!」アカリの声が上がる。「ライプツィヒ、主砲級エネルギー反応、上昇!」


艦橋全体が、無数の糸に同時に引っ張られているようだった。 機関室が時間を要求する。 損管が時間を要求する。 火器管制が時間を要求する。 操舵手が時間を要求する。 だが敵が最も与えてくれないものが、よりによって時間だった。


「九割戦速へ落とせ――」アッシュがついに口を開いた。


遅かった。 演出上の遅さではない。 戦術マップ上で、本当に遅かったのだ。


ライプツィヒの後方に、眩いほど鮮烈な主砲級の蓄エネルギー軌跡が点灯した。私たちが一拍遅れるのをずっと待っていた刃が、今まさに振り下ろされようとしていた。


「高エネルギー束流、来る!」アカリが叫ぶ。


「反ビーム爆雷、再展開!」私はほとんど本能でボタンを叩き込んだ。


迎撃ポイントが点灯した。 だが今の雪風の姿勢は、もうあの頃とは違う。 左後舷損傷。姿勢制御ノズル二基が機能停止。主機は超過負荷の縁でのたうち回っている。迎撃シールドは展開されたが、その角度はもはや前のラウンドのような完璧さではなかった。


一部は受け止めた。 一部は漏れた。 残った部分が、極限まで薄く研ぎ澄まされた刃のように、損傷した尾後区画に沿って直接えぐり込んできた。


シミュレーションの艦橋全体が揺れた。 先ほどの掠り傷とは違う。 今回は深く。 実質的だった。 警報の音量が一気に最大値まで跳ね上がった。戦術マップ上、雪風自身の艦影の縁に、赤黒い警告区域が一口に広がった。


「主機、出力急落!」ハーヴィーが叫ぶ。


「左ボイラー、停止!」機関室がほとんど咆哮していた。


「姿勢制御、不安定!」ロイが舵輪を掴みながら叫ぶ。「右補助ノズルが追いつかない!」


「後部連結口、再出火!」アイダの声が初めて急迫した。「医療班、退避! 補修班はもう入るな。封鎖しろ、まず封鎖!」


私は目の前の火器管制画面を見つめた。 兵装はまだ点灯している。 システムはまだ動いている。 対艦誘導弾はまだ残っている。 近接防御マトリクスはまだ動いている。 主砲のエネルギーは大幅に落ちているが、完全にシャットダウンされてはいない。


だが私には、はっきりとわかっていた。


もう意味がない。 撃てないからではない。 この艦にはもう、「格好よく撃ち続ける」ための余裕が、一欠片も残っていないからだ。


「雪風、艦体完整度、臨界値を下回りました」


システムの合成音声が、冷たく響いた。 同情もない。 猶予もない。


「判定:戦闘能力を喪失」


次の瞬間、メインスクリーンの外側の戦術投影が、一瞬真っ白になった。 宇宙が誰かにミュートボタンを押されたかのようだった。 それから、すべてが消えた。


「判定、更新」


「雪風――撃沈」


艦橋全体が、一瞬で通常照明に戻った。 赤色の警報帯が消えた。 戦術マップが閉じた。 警報が止まった。 通信が沈黙した。


さっきまで肺ごと揺さぶられていた世界が、突然静かになった。 静かすぎた。 自分の呼吸が聞こえた。それから、誰かの指先がコンソールの縁で、ごく小さく震えている音が聞こえた。


誰も、すぐには口を開かなかった。 Dも。 ジェスも。 私も。


私は火器管制台の上に手を置いたまま、その姿勢を保っていた。手のひらは汗びっしょりで、肩はこわばって痛かった。それでも、まるで誰かに内側から一塊をごっそり抉り取られたような空洞感があった。


さっきまで走っていた。 さっきまで転舵していた。 さっきまで第一波を振り切った。 さっきまで――もう少しで生き延びられそうだった。


それでも、死んだ。


壮烈な死ではなかった。 熱血漢が最後まで正面から撃ち合う、そういう死ではない。 みっともない死だった。 火を抱え、漏れを抱え、ボイラーの悲鳴を聞きながら、損管が封鎖を叫びながら、全員がそれぞれ正しいことをしていたのに、合わさっても間に合わなかった、そういうみっともない死に方だ。


指先を火器管制台からゆっくりと離した。指先が、なぜか少し痺れていた。 手のひらは汗でぐっしょりのままで、それを拭う気力すらなかった。 残っているのは、通常照明だけだ。 腹立たしいほどに「普通」の照明。 その「普通」は、こう言っているように感じられた。 ほら、船はいつだって無傷だったろう。お前たちが、自分たちの手で殺しただけだと。


飛田艦長は、後ろの席に座ったままだった。 最初から最後まで、本当に一度も動かなかった。 艦橋全体が、Dすら大きく息を吐けないほど静まり返るまで待ってから、彼はゆっくりと目を開け、立ち上がった。


拍手はなかった。 溜め息もなかった。 「まあ若者はまだまだこれからだ」という類の、偽りの慰めもなかった。


彼は艦橋の中央へ歩み出ると、私たち一人一人に視線を走らせ、最後にたった一言だけ言った。


「よし、死んだな」


たったそれだけだ。 今日の昼食のメニューを読み上げるような平坦さだった。 だが、その平坦さゆえに、どんな罵倒よりも痛烈だった。


私は無意識に肩をすくめた。


飛田はすぐには言葉を続けなかった。戦術マップが消えた後の黒い反射パネルを見つめ、それから、まだ死の体験から這い上がれていない私たちの顔を見渡し、まるで待っているかのようだった。


何を待っているのか? 私たちが自ら、その失敗を飲み込むのを待っているのだ。


その数秒間は長かった。 私が先ほど口にした「牽制するなら、二十秒から三十秒」という言葉が、頭の中で何度もリフレインするのが聞こえるほどに。


やがて、飛田が口を開いた。


「結論から言おう」彼は言った。「お前たちは火力差で死んだのではない」


艦橋の誰も動かなかった。


「エンペラー級戦闘巡洋艦が強力であることは疑う余地がない。だが、先ほどのラウンドで雪風を沈めた本当の原因は、ライプツィヒの強さではない」彼は手を上げ、私たちが座っている配置を一列に指差した。「お前たち一人一人が、物事を完璧にやろうとしすぎたことだ」


胸の奥を、何かで軽く、正確に叩かれたような気がした。


飛田は声を荒らげなかった。 「だから言っただろう」というような、見下すような語気でもなかった。 彼はただ冷徹に、船を解体するように、先ほどの失敗を解体し始めた。


「アッシュ」


アッシュが即座に姿勢を正す。 飛田は彼を見た。


「最初の判断は間違っていない。エンペラー級を見て離脱を選んだのは正解だ」彼は一拍置いた。「問題はどこにあった?」


アッシュは二秒間沈黙した。 すぐには答えなかった。 それが、この問いの重さをさらに際立たせた。 最後に、彼は低い声で口を開いた。


「……速度を、もう少し残しておきたかった」


「『少し』ではない」飛田は言った。「お前は、可能性をもう一つ残しておきたかったのだ」


アッシュが顔を上げる。 飛田は続けた。


「『まだ引き離せるかもしれない』『もう一撃入れられるかもしれない』『撤退しながらも、ダメージを抑えきれるかもしれない』。そういう可能性を残しておきたかったのだろう」


「だが、撤退戦において艦長が最初に学ばなければならないのは、最も綺麗な解答を選ぶことではない」


「余計な解答を切り捨てることだ」


艦橋は静まり返っていた。 飛田は「間違っている」とは言わず、ただテーブルの上にカードを並べるように手を広げた。


「主機の超過負荷、艦尾の損傷、姿勢制御の不安定化、エンペラー級主砲の蓄エネルギー。この四枚のカードが出た時点で、お前の手札に『反撃の牽制』というカードを残しておくべきではなかった」


アッシュの喉仏が動き、最後に低い声で一言だけ返した。


「……はい」


声は大きくなかった。 だが、それで十分だった。 飛田が答えを押し付けたのではない。 彼自身が、その答えを理解したのだから。


飛田の視線が移る。


「真紀」


真紀はロイの横に立ち、姿勢を崩していなかった。


「副長席で君が最初に正しくやったのは、赤色警報と全艦戦闘配置の発令を十分に速くしたことだ」飛田は言った。「二つ目に正しかったのは、主機が先に死ぬことを艦長よりも早く見抜いたことだ」


真紀は言葉を挟まず、ただ静かに彼を見ていた。


「では、君の問題はどこにあった?」


今回も、真紀はすぐには答えなかった。 私は横目で彼女を見た。 表情に明確な変化はない。だが彼女が本当に考えているときは、視線がひどく静止する。まるで外側から自分の内側へと一段階引き込むような目になる。それを私はもう知っていた。


「……一度しか、注意しませんでした」彼女は最後に言った。


飛田は頷いた。


「そうだ。君は一度しか言わなかった」


そして彼は、ひどく平坦な、それでいて私の背筋を粟立たせるような一言を付け足した。


「副長は『言ったかどうか』に責任を持つのではない」


「副長は――全艦が揃って同じ間違いを犯し始めたとき、その間違いを強引に切り落とすことに責任を持つ」


真紀の睫毛が、ごくわずかに動いた。


飛田はさらに解剖を進める。


「主機が先に死ぬと見抜いたなら、ただ助言を与えるべきではなかった。議論の幅を狭めるべきだったのだ」


「『長くは持たないかもしれません』ではなく、『これより牽制の議論を打ち切ります。残された推進力でどう生き延びるかのみを協議してください』と」


「副長の実務は、自分が状況を理解していると艦長の隣で証明することではない」


「艦長の代わりに、猶予を切り捨てることだ」


真紀は今度は返事をしなかった。 だが、彼女がその言葉を呑み込んだことは私にもわかった。 表面的な頷きではない。 骨の髄まで染み込ませるような、そういう呑み込み方だ。

「とても面白い」★四つか五つを押してね!


「普通かなぁ?」★三つを押してね!


「あまりかな?」★一つか二つを押してね!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。