98. 敗北からのスタートライン 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「よし、悪くなかったぞ」
第一ラウンドが終わると、飛田艦長は艦橋の中央で腕を組んだまま、今日の食堂でゆで卵が一個おまけされると告げるような、平坦な口調で言った。
「次は少し難度を上げる。通過できたなら――今日からパイク六号まで、訓練は自由行動とする」
艦橋が一拍、静まり返った。 それから、人間らしい、どうにも抑えきれない浮き足立ちが、誰かが床に沿って小さな種火を滑らせたかのように、静かに燃え広がった。
自由訓練。 人間の言葉に翻訳すれば、つまり休暇だ。 昨晩、あの兵装資料の山に成仏させられかけたばかりの私でさえ、その四文字を聞いた瞬間、心臓がひどく情けなく一度跳ねた。
CIC側でDが即座に顔を上げる。
「艦長、その一言は危険ですよ」
「わかっている」飛田は言った。
「たいていご褒美っぽく見えるものほど、後の死に方が早いものよね」ジェスが補足する。
「お前もわかっているか」飛田は頷き、むしろ少し感心したような顔をした。「よろしい。少なくとも基本的な警戒心くらいは仕込めたということだ」
……それは誇るべき教育成果ではないと思うのだが。
飛田はそう言いながら端末を操作した。戦術マップが一時的に待機層へと引っ込み、周囲の照明もそれに合わせてわずかに落とされる。彼の指の動きは速くない。まるで、私たちに最も相応しい死に方を選んでいるかのようだった。
「戦い方を覚えたなら、次は逃げ方を覚えろ」
彼がその言葉を口にしたとき、語気はひどく真剣だった。 学生を弄ぶための真剣さではない。 本物の、軍人としての真剣さだ。
「技術を持った逃走を、戦術的転進、あるいは撤退と呼ぶ」 「帝国軍のように、皇帝陛下万歳と叫びながら死ぬ必要は、私たちにはない」
Dが不謹慎にも笑い声を上げた。 飛田は無視し、手を止めて私たちを見渡した。 その目に、笑みはなかった。
「覚えておけ」
艦橋が静まり返った。 設備の低い唸りは続いている。表示パネルも更新され続けている。それでも彼が口を開いた瞬間、空間全体が静かになった。
「生き残ることが、常に第一優先事項だ」
私は戦術席に座ったまま、手のひらが無意識にコンソールの縁を押さえた。 なぜかこの言葉は、彼の口から出ると、どんな教科書のスローガンよりも重く響いた。 格好いいからではない。 むしろ逆だ。 この言葉には格好良さが一切ない。 みっともなく、無様で、英雄的でもない。 だからこそ、嘘偽りなく本物だった。
飛田は最後のパラメーターを打ち込むと、驚くべきことに後方へ歩いて行き、どかりと腰を下ろし、背もたれに寄りかかって目を閉じた。
「戦うか退くか、どう対処するかは自分たちで判断しろ」 「私は死んだものと思え。あとは自分たちでやれ」
私は口角を引きつらせた。 縁起でもない言葉だ。
システムの合成音声が響いた。
「I-1558プラン、第二ノード起動」
艦橋全体が再び暗転した。 戦術マップが更新される。 今度は、偽のシグナルはない。 友軍を偽装したものもない。 誘い込むための囮もない。 画面が明転した最初の一秒から、ただ一種類の、重く、真っ直ぐで、理不尽なほど直接的なメッセージだけが、鉄の塊を顔面に叩きつけるように迫ってきた。
来たぞ。
「前方に複数の時空歪曲を探知」
アカリの声が最初に空気を切り裂いた。 彼女はいつも死んだ魚の相場を読み上げるような、起伏のない話し方をする。だが今回のその一言には、明らかに半寸ほど鋭さが増していた。
「CIC、情報処理が遅い」
「こっちだって今捕まえたばかりだ!」Dが下から即座に言い返す。「レーダーが先に食いついて、こっちはまだ統合中で――」
「黙れ、数字を出せ」エヴリンが冷たく制圧する。
ハーヴィーの声は誰よりも冷静だった。まだ死にきっていない遺体を検分しているかのような冷静さだ。
「六……いや、七つの歪曲点。質量の差が大きい。一つが特に大きい」
「艦影七」アカリが叫び、指でエリアマップを拡大する。「一つの質量が飛び抜けて大きい。小型艦艇ではない!」
蘭がほぼ同時に顔を上げた。
「艦長、相手から降伏勧告が届いています」
「切れ」アッシュは今度は一瞬も止まらなかった。「通信チャンネルは今から完全に黙らせろ」
彼は振り返って真紀を一瞥した。 真紀は一度だけ頷いた。 余計な言葉はない。 だが、そのリズムの繋ぎ方は実に綺麗だった。
「全艦、第一種戦闘配置」アッシュが言った。「全艦に赤色警報を発令」
真紀は手を上げ、壁に掛かった内線通話器を取った。その声は、甲板に打ち込まれた鋼の杭のように安定していた。
「艦橋シャッター閉鎖! 全艦、第一種戦闘配置!」
「了解」
彼女は通話ボタンを押し、全艦に向けて下令した。
「戦闘命令発布。全艦に赤色警報発令!」
次の瞬間、艦橋の照明が戦闘モードに切り替わった。赤色の警報帯が壁と床に沿って次々と点灯し、観測窓の縁を半透明のシャッターが覆う。表示インターフェースはすべて戦術マップに明け渡された。
「兵装システム、ロック解除」アッシュが私を見た。「艦長より火器管制権を委譲する」
この手順は、今回はもう水のように流れた。 自分が反応するより先に、手が動いていた。
「戦術長、引き継ぎます」
権限移譲、承認。 火器管制パネル、開放。 主砲、垂直発射モジュール、魚雷、近接防御マトリクス、妨害散布器――緑色のランプが一列に点灯した。 昨晩、私を血反吐が出るほど苦しめたあの兵装資料が、今日はようやく拷問道具ではなく、命綱として機能しようとしていた。
「IFF識別完了」
エヴリンの声がCICから上がってくる。 画面の中央に、新しい艦影がゆっくりと浮かび上がった。 大きいだけではない。 本能的に椅子を半寸後ろに引きたくなるような巨大さだ。 それは戦術マップの前方に鎮座し、周囲の護衛艦は、その隣に並ぶと大人の足元を走り回る子供のように見えた。
「銀河帝国軍」エヴリンは一拍置いてから、後半を吐き出した。「エンペラー級戦闘巡洋艦」
もう一拍。
「識別番号――ライプツィヒ」
艦橋で誰も口を開かなかった。 その名前が飾りではないことを、全員が知っているからだ。
ハーヴィーが試算結果を見下ろし、訃報を読み上げるような口調で言った。
「戦術コンピューター推算。我が方の勝率……二割」
背筋が一気に冷えた。 二割という数字の最も腹立たしい点は、それがゼロではないということだ。 愚か者はそれを見て、まだ見せ場があると勘違いする。 だが馬鹿でなければ誰でもわかる。こういう場面での二割は、翻訳すれば―― 少しはマシな死に方を試みることができる、という意味だ。
「敵艦、攻撃を開始!」アカリが叫ぶ。「対艦ミサイル――それと……これは……」
彼女が一拍止まった。 その一拍だけで、私の胃が先に縮んだ。
「重力異常」彼女はようやく答えを出した。「空間魚雷だ!」
頭皮が粟立った。 空間魚雷。 学校で習った。 極めて厄介な代物だ。 発射されると空間の亀裂に潜り込み、予測航路に沿って隠れたまま進み、距離が十分に縮まってから姿を現す。 飛んでくるのが見えない。 どこから出現するかを賭けるしかない。
アッシュの反応は、ほとんど隙間がなかった。
「取舵いっぱい!」
「はっ、取舵いっぱい!」ロイは舵輪を掴み、全体重をかけるように押し込んだ。
電子コンパス上の艦首方位が即座に偏転し、雪風の仮想艦影が左へと急激に振れる。予測航跡が丸ごと曲がった。
「取舵いっぱい、打ち込みました!」ロイが復唱する。
「舵戻せ!」アッシュが再び叫ぶ。
ロイは即座に舵輪を手前に引き戻した。手の甲に青筋が浮き上がっている。
私は画面を睨みつけたまま、指はすでに火器管制のサブメニューへと飛び込んでいた。 発砲のページではない。 生存のページだ。
メタルチャフ。 熱源デコイ。 電子妨害ポッド。 偽目標散布器。
相手が空間魚雷を使ってくるなら、単純に回避するだけでは足りない。 奴に別の標的を咬ませなければならない。 いや、正確には――「私たち」を咬ませないようにしなければならない。
「最大戦速」アッシュが歯を食いしばった。「戦場離脱。戦術長、妨害を展開しろ!」
ロイが機関テレグラフを全速位置へと叩き込む。 私はほとんど前のめりになってパネルに覆い被さった。
手は速くしたい。 だが頭の中で飛田の「速さより正確さ」という言葉が鉄の杭のように刺さり、私をその場に縫い止めた。
今は誰が早く押すかの勝負ではない。 誰が正しく押すかの勝負だ。
私は強引に自分を落ち着かせ、敵の来襲ベクトル、転舵後の新航路、艦尾の露出角、そして空間魚雷が最も出現しやすいポイントを順番に確認した。
奴が元の離脱ラインを咬もうとしているなら、今やるべきことは綺麗な妨害煙を張ることではない。 宇宙空間に煙などない。 やるべきことは、相手の目に「私たち」を複数に見せることだ。
「了解」
自分の声が思ったより安定していた。
「メタルチャフ散布。熱源デコイ展開。電子妨害ポッド散布」
ボタンを叩き込む。 艦尾の散布器が開いた。 細かく砕かれたメタルチャフが、銀灰色の霧の帯のように撒き散らされる。 高熱デコイが両舷から射出され、予測航路の近辺に複数の短時間高熱偽目標を引いた。 電子妨害ポッドは、故意に放り出した悪意のかたまりのように後方へと流れ、乱雑なシグナルの雲を引き伸ばした。
戦術マップ全体が、一瞬で混乱した。 混乱していい。 混乱すればするほど、大人しく魚雷を待っている標的には見えなくなる。
「第一波、出現!」アカリはほとんどヘッドセットに顔を押しつけるようにして叫んだ。
画面上、元の航路よりやや後方の位置に、二つの歪曲点が突然出現した。 一発は熱源デコイに食いついた。 もう一発はチャフと妨害雲の中で半角度ずれ、新航跡の外側を掠めるように流れていった。
「第一波、離脱!」アカリの声に、初めてはっきりとした感情が滲んだ。「振り切った!」
DがCIC側で机を叩いた。
「見事!」
私がその息を吐き出す前に、ハーヴィーが冷たく口を開いた。
「気を抜くな。エンペラー級が一回で終わらせるはずがない」
彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、エヴリンが第二の刃を差し込んできた。
「ライプツィヒ、艦首姿勢を変更。護衛艦が分散している。我々の離脱ラインを先読みしている」
心が沈んだ。 そうだ。 奴は私たちが第一波を躱すことを知っていた。 だから第一波は、奴が望む場所へ私たちを追い込むためのものだったのだ。
「第二波接触!」アカリの声が上がる。「時空歪曲、再出現――位置がより前方だ! 奴は新航路を咬んでいる!」
「くそ」ロイが低く呟いた。
「右に三度修正」アッシュが命じた。
「右三度修正!」
ロイはすぐに舵を戻したが、その動きはさっきほど綺麗ではなかった。今の雪風は、教室で演技をするだけの、完全で安定した艦ではない。全速で逃走しながら、自分が撒いた妨害雲の尾を引きずっている。
私の手はすでに散布ページへと戻っていた。 熱源デコイの残量。 チャフの在庫。 近接防御マトリクス、待機中。 対ミサイルプログラム、起動済み。
もう一回撒くか? いや、今撒いても時間が足りないかもしれない。 先に近接防御で迎撃ミサイルを処理する。 空間魚雷は再出現後の極めて短い修正時間しかない――
「再出現点、確認!」アカリの声がほとんど叫びに変わった。「近すぎる!」
戦術マップ上で、新たな赤い点が画面から直接生えてきたかのように、雪風の左後方へと突然跳び出した。
罵倒する時間すらなかった。
「『火牛』、後方優先迎撃へ切り替え!」私は近接防御マトリクスの割り当てキーを叩き込んだ。
画面上の自動迎撃ラインが点灯した、その次の瞬間――
掠った。 直撃ではない。 だがその方がずっと始末が悪かった。
艦橋の床がシミュレーションのフィードバックで激しく揺れた。誰かが巨大なハンマーで左後舷を斜めから叩きつけたような衝撃だ。警報が瞬時に爆発し、赤い表示が戦術マップの縁に一気に広がった。
私はシートからほとんど弾き飛ばされ、肩が護手に激突し、耳元には歯が鉄を引っ掻くような鋭い警告音が響き続けた。
「艦尾左舷、損傷!」アカリが叫ぶ。「外部放熱板区画に穿孔! 姿勢制御帯――一部消失!」
「熱源上昇!」ハーヴィーがほぼ同時に報告する。「左舷推進軸、温度異常!」
「医療・損管チャンネルを開けてください」
アイダの声が、技術長席から突然割り込んできた。 それまで彼女はひどく静かだった。 まるで問題が来るのをただ待って座っているだけのように。 だが問題が本当に来た瞬間、彼女は深い水の底から立ち上がるように、完全に変わった。
私は首を向けた。 アイダはもはや単なる主任機関長ではなかった。 その瞬間、彼女は艦内のもう一つの戦場の指揮官になっていた。
「五番副放熱室、出火。まず外壁を封鎖!」彼女は損害図を見ながら艦内チャンネルへ命じ続けた。「火勢を抑えに行くな。まず主給電ケーブルを守れ! B-12区画、減圧。補修班は直接入るな。遠隔でドアを閉めろ! 医療班は後部連結口へ先行。歩ける者は担架を占領するな!」
彼女の言葉は一言一言が短く、硬く、鋼板に直接叩きつけるように出てきた。
「左後舷姿勢制御ノズル、二基機能停止。予備姿勢プログラムに切り替え!」
「副医療ステーションで軽傷者を受け入れろ。重傷者を主通路に積み上げるな!」
「副冷却ラインがまだ生きているか確認しろ――今すぐ!」
艦橋にはもともと一つの戦場しかなかった。 今は二つになった。 前方には敵がいる。 後方には雪風自身がいる。 そしてさらに悪いのは、どちらも待ってくれないということだ。
「機関室より報告」
男の声が艦内通信から押し込まれてきた。背景にひどく耳障りな金属の反響音を伴っている。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




