86. 誰にだって踏まれたくない地雷がある 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
保安部の小会議室に呼ばれた時、手の血はすでに拭き取られ、傷も応急処置は済んでいた。それでも拳の甲はまだ腫れていて、握るたびに痛んだ。
それでよかった。少なくともこの痛みが、さっきの出来事が悪夢ではなく、私が本当に雪風の訓練室で、中等部のガキ大将から歯を叩き折ったのだという事実を思い出させてくれる。
会議室は狭い。
机は灰色。
壁も灰色。
空気すら灰色に感じられる。
竹中曹長は正面に座っていた。険しい顔というほどではないが、気楽に冗談を言えるような穏やかさでもない。引率の教員は反対側に座り、現場にいた時よりは抑えていたが、眉間の火はまだ消えていない。傍らには保安部の記録士官、医療班からの簡単な報告、そしてあのガキ大将の処置記録が並んでいる。
私はテーブルの端に座り、右に真紀、左にD。
ジェスは後方の壁に寄りかかったまま、座らずに立っていた。腕を組み、「今日は無駄口は叩かない、だからといって機嫌がいいわけでもない」という顔をしていた。
竹中曹長が口を開いた。
「まず結果から言う」彼は言った。「中等部の生徒一名、前歯破損、口唇裂傷、顔面挫傷。頭蓋内に異常なし、生命に別状なし。医療処置は完了した。これが良い知らせだ」
翻訳すると――
悪い知らせは、これからだ。
引率の教員が深く息を吸い、声を硬く押し込んだ。
「最初の挑発から、コントロールを失うまでの経緯を、完全に説明してほしい」
私が口を開こうとした瞬間、Dが一歩早く手を挙げた。
「俺から話します」
竹中曹長が一瞥し、頷く。
Dは少し姿勢を正した。ふざけるのをやめると、こいつには珍しく頼りになる空気が出る。
「教員が退室した後、中等部の生徒から探るような発言がありました。内容は主に我々の対人訓練についてです」Dは言った。「最初は制御可能な範囲でした。俺も応じて、装備の説明と場のルールへ注意を戻そうとしました」
「それから?」引率の教員が問う。
Dが一拍置いた。
「それから、発言が人身攻撃に転じました」彼は続ける。「まず対人戦の内容を茶化す方向。そのあと、負傷したあの生徒が――星野の身体的特徴に対して、明確な侮辱の意図を持った発言をしました」
引率の教員の眉が寄る。
「具体的には?」
会議室が半秒、静まり返った。
自分で言うつもりだった。
だがDが先に口を開いた。しかも一切言葉を柔らかくせず、そのまま繰り返した。
引率の教員の顔色が、その場で沈んだ。
竹中曹長は指で机を一度軽く叩いただけで、口を挟まない。
Dは続けた。
「その発言の直後、星野が先に動きました。これは事実です。俺と九島は即座に介入しましたが、展開が早すぎたことと、相手が後退の動作を取っていなかったこともあって、最初の制止が間に合いませんでした」
いかにもDらしいまとめ方だった。
私が先に殴った事実は庇わない。でも、事態を単純な「星野の暴走」には落とさない。
引率の教員が私に向いた。
「他に付け足すことは?」
私は机を見たまま、二秒ほど置いて答えた。
「ありません。先に殴ったのは私です」
眉間の皺がさらに深くなる。
「それがどんな結果を招くか、分かっていたのか?」
「分かってました」
「それでも動いたのか?」
刺さる問いだった。だが、正当な問いでもあった。
答えようとした瞬間、またDが口を挟んだ。
「先生」彼は言った。「一つ、聞き苦しいことを言わせてください。結果が分かっていることと、あそこまで踏み込まれた時に一番模範的な方法で反応できるかどうかは、別の問題です」
引率の教員がDを見た。
Dはその視線を、退かずに受け止めた。
「星野がコントロールを失ったこと、それは否定しません」彼は言う。「ただ、事の発端は普通の口喧嘩じゃない。明確な人身攻撃です。中等部のあの生徒は、自分が何を言っているか分からなかったわけじゃない。分かった上で、わざとやりました」
竹中曹長がそこで初めて口を開いた。
「その点は」彼は言う。「中等部の他の生徒の証言も一致している」
引率の教員の顔色が、さらに悪くなった。
当然だ。この一言で、事態が固定された。誤解でも、悪ふざけの延長でもない。あのガキは、自分が何を踏んでいるか分かっていて、踏んだのだ。
ジェスがそこで初めて、冷ややかに口を開いた。
「追及するなら」彼女は言った。「最後まできちんとやってください」
全員の視線が、そちらへ向かう。
ジェスは壁に寄りかかったまま、平坦すぎるほど平坦な声で続けた。
「まず挑発し、次に嘲笑し、最後に身体をネタにする」彼女は言った。「これは口の滑りじゃない。手順です」
容赦のない一言だった。感情を一切込めず、実験記録のように事態を切り分けてみせたのだ。
「星野が殴ったことを処分するのは構いません」ジェスは続けた。「でも、その前の三段階を『思春期の子供の軽口』でまとめないでください。それは、故意です」
引率の教員はジェスを見つめ、二秒ほど経って、ゆっくりと息を吐いた。
たぶん彼自身も分かっていた。「生徒の未熟さ」だけでは、この件は蓋が閉まらない。
竹中曹長が視線を私に戻した。
「星野」
「はい」
「今日お前が犯した過ちで、どうしても擁護できないのは、一箇所だけだ」竹中は言った。「止まるのが遅すぎた」
私は奥歯を噛んで、頷いた。
「はい」
「だが、今日お前が踏まれたラインも、『冗談で済ませろ』というものじゃない」竹中は続けた。「だから、処置は分けて行う」
私は顔を上げた。
引率の教員も、一瞬きょとんとした様子だった。
竹中曹長の口調は硬かったが、一切の曖昧さもなかった。
「中等部側は、人身攻撃、挑発のエスカレーション、授業秩序の破壊について、正式な記過処分と行動反省を命じる」彼は言った。「星野については、先に手を出したこと、過剰な攻撃、同僚の制止後も即座に停止しなかったことをもって、課程違反一件を記録。保安部訓練観察下に一週間置き、事件の書面報告書の提出を命じる」
……この処分は、私が想定していたより軽かった。
いや、軽いんじゃない。
公正だ。
私を無罪放免にしていない。あのガキも無罪放免にしていない。ただ冷静に、両方に非がある、しかし非の種類が違う、と告げているだけだ。
Dが聞き終えて、肩からほんの少し力が抜けたのが分かった。
はは。
さっきまで涼しい顔をしていたくせに、内心ではそれなりに気を揉んでいたわけだ。
引率の教員はしばらく沈黙し、最後にゆっくりと頷いた。
「その処分に同意します」
ジェスはそれ以上何も言わず、腕を組んだまま、机の隅を冷たい目で見ていた。「言うべきことは全部言った」とでも言いたげな顔だった。
私はその時、初めて「冷処理」という言葉の意味が腑に落ちた気がした。
気にしていないんじゃない。気にしすぎていて、言葉すら惜しいのだ。
会議の最後に、私たちはそれぞれ事件報告書の提出を命じられた。
Dが立ち上がる時、ごく自然に私の椅子の背を一度叩いた。「ほら、生きてるだろ」とでも言うように。
私は彼を睨み返す。
彼は声を落として返してきた。
「そんな目で見るなよ。俺、今日はちゃんと人間やったんだから」
……この言葉が妙に説得力を持っているのが、腹立たしいくらい腹立たしかった。
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会議が散会した後、私は誰もいない場所を見つけて、今日一日の出来事を頭から引き剥がして、真空へ放り投げてしまいたかった。
でも雪風という船は厄介だ。大きいくせに、本当に隠れられるほど広くはない。
結局、後部の保守用ラダー近くの細い通路に入り込んだ。普段は人が少なく、照明も落とし気味で、隔壁には日中の稼働で残ったわずかな熱がこもっている。遠くから船体の低い振動音が聞こえて、巨大な獣が眠りながら、まだ完全には息を落ち着かせていないみたいだった。
隔壁にもたれて、しばらく立ち尽くしていた。
手はまだ痛い。頭もまだ乱れている。
会議で踏ん張れたからといって、事が終わったわけじゃない。むしろ冷静になった分だけ、あの言葉を何度も反芻し、自分がどう飛びかかったかを繰り返し思い出し、床に転がったあの歯を思い出して、そのうえで正直に認めることになる――私が殴ったのは、怒りだけじゃない。あの一言が、私が一番触れたくない場所を、確実に撃ち抜いたからだと。
この認め方は、醜い。そして、ひどく疲れる。
貼った薬布を見下ろしていると、通路の反対側から足音が近づいてきた。
顔を上げなくても、誰か分かった。
この船で、これほど安定していて、静かで、それでいて存在感を消せない足音を出す人間は、そう多くない。
真紀が私の前で足を止めた。
「やっぱりここかと思った」
「発信機でも仕込んだ?」
「仕込んでない」真紀は私を一瞥した。「お前が一人で隠れたい時に選ぶ場所は、だいたいパターンが決まってる」
……これはまずい。
つまり――彼女は知っている。しかも、一度や二度じゃない。
言い返そうとして、口から出たのは薄っぺらい一言だけだった。
「何しに来たの」
真紀はすぐに答えなかった。私の隣の隔壁に体を預ける。肩半分ほどの距離を空けて。近すぎはしない。でも、どちらかが少し傾けば、すぐ触れる距離だ。
「一人でここで窒息してないか、確認しに来た」
「なら安心して」私は言う。「私はしぶとい」
「見てれば分かる」真紀の視線が私の薬布に落ちた。「他人の歯の方が、よほど脆かったな」
本来なら、笑うべきところだった。真紀らしい、冷たくて、慰めでも非難でもない言い方だ。
でも今日はさすがに疲れすぎていて、ただ自分の手を見下ろした。
「真紀」私は唐突に口を開いた。「今日の私、そんなに見苦しかった?」
彼女がこちらを見る。
「どの見苦しさだ?」
「……全部」
彼女は二秒ほど私を見て、計器の数値を読み上げるような平坦さで言った。
「殴っているお前は、見苦しかった」彼女は言う。「あの言葉に傷ついているお前は、見苦しくない」
私は一瞬、固まった。
奇妙な言葉だった。怒るべきか、息を吐くべきか、身体が決めかねた。
真紀は続けた。
「お前がコントロールを失ったのは、もともと気にしていたところを踏まれたからだ。それは普通のことだ」彼女は言った。「私が嫌なのは、お前が止まるのが遅かったことだ。怒ったこと自体じゃない」
隔壁にもたれたまま、また目の奥が熱くなった。
真紀はそれに気づいたのだろう。容赦なく、追撃の一言を落とした。
「ここで泣くのは禁止。面倒になる」
危うく、本当に笑いそうになった。
「あんた、人を慰める気なんてあるの?」
「ない」即答だった。「でも、本当のことは言える」
「その本当のことが、大抵は人の機嫌を悪くするんだけど」
「それでも、聞くだろ」
……くそ。
その通りだから、反論できない。
通路にしばらく沈黙が落ちた。
遠くで金属が小さく鳴った。どこかの区画で夜間整備をしているのだろう。船体の低い振動が足の裏から伝わってきて、通路全体が深く、ゆっくり呼吸しているみたいだった。
真紀が不意に言った。
「私も今日、殴りたかった」
私は勢いよく彼女を振り向いた。
「……何て?」
「そのまんまだ」真紀は前を向いたまま、相変わらず平坦に言う。「Dが動く前に、あのガキの口を縫い合わせてやろうかと考えた」
私は彼女を見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
台詞だけ聞けば冗談だ。でも、真紀の口から出た言葉だと知っているから、冗談じゃないと分かる。
「それ、普段のあんたのキャラ設定にすごく反してる」
「そんなもの、持ってない」
「持ってる」私は即座に言い返した。「あんたのいつものキャラは、冷静で、理屈っぽくて、ムカつくくらいブレなくて、世界が自分のペースで回るべきだと思ってる感じだ」
真紀はそれを否定しなかった。
ただ、淡々と付け足した。
「大抵の場合、それが一番、事故が起きにくいからだ」
……ああ、いかにも真紀らしい。反論の余地がない。
彼女がようやく私の方を向いた。
「だが、今日のあの言葉は、お前が一人で飲み込むべきものじゃなかった」
喉の奥が、また締まった。
「つまり?」
「つまり」彼女は私を見て、一語一語をはっきりと切って言った。「次にまた、あんな馬鹿に踏まれたら。一人で限界まで抱え込むな」
私の呼吸が、一秒止まった。
真紀の声は相変わらず平坦だった。だからこそ、これが思いつきの言葉じゃないと分かった。
「先に、私を呼べ」
彼女は言った。
この一言は、それまでのどの言葉よりも厄介だった。
「お前のせいじゃない」よりも。
「傷ついているお前は見苦しくない」よりも。
「私も殴りたかった」よりも、ずっと。
なぜなら、これは分析じゃない。反省でもない。傍観でもない。
これは極めて直接的な――立ち位置の宣言だ。
私は彼女を見つめ、何を返せばいいのか分からなくなった。
結局、間抜けな質問を一つ絞り出した。
「……そんなこと言って、私が今後好き放題リソースを乱用したらどうするの」
真紀は私を一瞥した。
「あんたは普段から十分に騒ぎの種を作ってる」彼女は言う。「一個増えたところで、大差ない」
二秒ほど言葉に詰まり、それから私はついに笑った。
今度は、本当に笑えた。少し疲れていて、少し情けない笑いだったけど、少なくとも先程の、切れかけたワイヤーみたいな笑いよりはずっとましだった。
真紀は私を見て、私がもうあの切れかけた糸の状態じゃないと確認したのか、ゆっくり立ち上がった。
「戻ろう」彼女は言った。「これ以上遅くなると、ジェスが『私があんたをどこかに始末したんじゃないか』と疑い始める」
「あいつなら、死体の遺棄場所まで先に考えてくれてるかもね」
「だから早く戻る必要がある」
私も壁から身体を離し、立ち上がった。
体勢を整えたところで、真紀の視線がもう一度、薬布を貼った私の手に落ちた。一秒だけ止まって――
それから、彼女はごく自然に手を伸ばし、装甲服の袖口の、さっきから捲れたままだった端を、そっと直した。
一度だけ。
短い動作だった。
でも、その静けさが、妙に刺さった。
「その手で、もう変なものを殴るな」彼女は言った。
「それ、心配してるの?それとも警告?」
「両方だ」
「……真紀」
「何だ」
私は彼女を見上げて、結局、あまり自分らしくない言葉を口にした。
「今日は……ありがとう」
真紀は特別優しい表情を見せることもなく、余計な綺麗事も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ頷いた。
「分かってる」
……もう。本当に、この人間は。
でも、不思議なことに、事件が始まってからずっと胸の底に沈んでいた重しが、ほんのわずか、軽くなっていた。
船はまだ航行している。
振動もまだ続いている。
今日のこの見苦しい一件が、誰かの一言で無かったことになるわけじゃない。
でも、少なくとも、こっち側に立ってくれる人間が一人、はっきり増えた。
しかも、その一人が、よりによって真紀だった。
いいね。
これで、今後はもっと面倒になる。
そして最悪なことに――ほんの少しだけ、嬉しい。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




