78. 二人きりの夜間当直 4
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
ここに立つだけで、空間のほうが彼女に噛み合ってくる。どのディスプレイをどう見て、どの報告をどう受けて、どの間をどれくらい空ければ、周りに「焦っている」と思われないか。彼女は、それを知っていた。艦橋を見学しに来たのではなく、この夜間当直の系統に、自分を組み込みに来た人間の動きだった。
最初は便利に、「九島家のお嬢様だから、家で見慣れてるんでしょ」と、自分の中で片づけようとした。
でもしばらく見ていて、それでは足りないと思った。
これは「見慣れている」だけで出せる動きではない。
そこには、繰り返しの癖と訓練と、それから――私がこれまで正面から見ないでいた何かが、確かにあった。
彼女の「仕事」としての力だ。
そして、一番タチが悪いのは、こんな静かで、人もいなくて、艦が半分眠っている艦橋で、初めてそれをこんなにはっきり見る羽目になったことだ。
「星野」
「ん?」
即座に現実に引き戻された。
真紀は振り向かず、私の手元の当直ボードを指先で叩いた。
「相対距離の小数、一桁多い」
下を見る。
確かに、一桁余計に書いていた。
「……今、後ろにも目ついてる?」
「ついてない。書くとき手が一瞬止まった」
「それでわかるの?」
「わかるくらいには、あなたがぼうっとしてた」
咳払いをして、数字を修正した。
「ごめん」
「私に謝る必要はないわ」淡々と言った。「船に謝ったほうが、まだ意味がある」
「重いこと言うね」
「艦橋は、もともと軽くない」
あまりに平坦に言うものだから、その一言がかえって胸に刺さった。
そうだ。
艦橋は元々、軽くない。
だからさっきの手際は、ただ格好いいとか、見ていて心拍がおかしくなるとか、そういう次元の話じゃなかった。ちゃんと、重さを受け止める側の力だ。
数秒黙ったあと、つい訊いてしまった。
「昔から、やってたの?」
真紀はようやく、こちらを見た。
今の問いが、「さっきマニュアルを速読したの?」なんていう浅い話じゃないのは、たぶんわかっていたのだと思う。
「少しだけ」彼女は言った。
「少しって、どのくらい」
「あなた基準なら、十分」
「……その言い方、本当に話す気を削いでくるよね」
「なら、訊かなければいい」
二秒ほど考えて、口喧嘩はやめておくことにした。
「じゃあ、質問を変える」声を落とし、ボードを横に置いた。「どこで覚えたの?」
今度は、すぐには答えなかった。
艦橋は静かだった。
前方の主幕上の航路光点が安定して前へ進み、外は完全に静止しているように見えて、実際は毎秒相対位置を変えている星海があった。システムは時折、小さな音で息をしていた。ここが静かでも、止まってはいないことを、思い出させるように。
数秒して、彼女が口を開いた。
「家に模擬橋楼がある」
一瞬、言葉を失った。
……ああ、九島家。
でも、その次に出てきた一言こそが、私をもう一度彼女の顔に向かせたものだった。
「小さい頃、あんまり外に出られなかった」彼女は前を見たまま、声はいつもより低かった。「あちこち連れ回すより、家の人間は私を見える場所、管理できる場所に置きたがった」
ペンを持つ手が、一瞬止まった。
その言葉は、あまりにも乾いていた。乾きすぎていて、感傷を挟む余地がないほどだった。
だからこそ、逆に引っかかった。
ふと、亜紀先輩の「とっくに籠の鳥よ」という一言が頭をよぎった。
あの家の何かは、本当に、ただの比喩で終わるものではなかったのだと思い知らされた。
本当はもっと聞きたかった。けれど真紀の横顔を見て、ここで踏み込むのは違うと、直感でわかった。
艦橋は、誰かの過去を問い詰める場所じゃない。
だから、代わりに言った。
「やっぱり、すごいよ、あんた」
真紀の睫毛が、わずかに震えた。
「これは、凄いってほどのものじゃない」
「少なくとも、私にとっては十分すごい」私は正直に言った。「少なくとも今、あんたが八人部屋で私に毒吐いてくる人間じゃないって、ちゃんとわかるから」
彼女はようやく、正面からこちらを見た。
「普段だって、毒だけ吐いてるわけじゃないけど」
「自分のセリフ、一回聞き直してみ?」
答えの代わりに、小さく鼻を鳴らした。
その「ふん」は、いつもほど棘がなかった。
むしろ、「今日はこのくらいなら許す」という、妙な妥協が混じっているように聞こえた。
艦橋当直が本当に安定したリズムに入ってみると、その仕事内容は思っていたよりずっと細かく、煩雑で、忍耐を要求するものだった。
十五分ごとに基礎当直記録をつける。三十分ごとに自動航路と船団相対位置の確認。観測窓の外に見える前方航路灯と、ディスプレイ上の隊形マーカーの照合。主通信は静黙を保つが、内部の当直報告とシステム同期信号は聞き逃せない。もしどれかの表示項目が一瞬黄色に跳ねたら、それがノイズか、隊形修正か、それとも本当に何かが近づいているのかを、まず見極める。
言い換えれば、この仕事は圧倒的多数の時間が「刺激がない」。
だが、刺激がないからこそ、ミスを誘う。
人は緩む。「どうせ何も起きない」と思う。意識が飛ぶ。目は光点を追っていても、頭の中は「さっきの夕食、もう一杯食べておけばよかった」とか、別のことを考え始める。
二回目の記録をつける頃には、もうわかっていた。夜間当直が本当に試しているのは、ボタンを押せるかどうかじゃない。ひどく平穏に見える世界の中で、「平穏は誰かが見張っていなければ保てない」と、どれだけ本気で信じ続けられるかだ。
そして真紀は、その点において恐ろしいほど強かった。
神経質にすべての数字を凝視しているわけでも、落ち着いたふりをしているわけでもない。彼女は本当に、注意力を安定して分配できていた。抜くべきところは抜き、締めるべきところは締める。何かの通知音が鳴ったとき、私がまだマニュアルをめくって種類を確認している間に、彼女はすでに発生源を見終え、それが船団の距離修正なのか、後方補給艦の自動微調整なのかを判断していた。
一度、右側のディスプレイが黄色く瞬いた。私が心臓を跳ね上がらせた瞬間、彼女はもう口を開いていた。
「異常じゃない。二号輸送船の隊形修正。記録の追記は不要」
顔を上げて彼女を見た。
「なんでわかるの?」
「跳ねた位置も、時間も、振れ幅も、定例修正に似すぎてるから」彼女は一拍置いて、付け足した。「それに、本当に何か起きたなら、あんな遠慮がちな鳴り方はしないわ」
……本当に真紀らしい答え方だ。
腹立たしいが、ひどく説得力がある。
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二三〇〇を回った頃、艦橋にようやくまともな空白の時間が訪れた。
主要数値はすべて安定。主ディスプレイの航路光点も平滑そのもの。内部報告も一時停止。船団間隔、正常。
艦橋全体が、極めて節制された静寂の中に入り込んだようだった。
私は副席の脇にもたれかかり、書き終えたばかりの記録ボードを置いて、少し強張った手首を回した。外の星の光は冷たく、観測窓に映り込み、時折私と真紀の影を薄く反射した。私たち二人も、この艦橋の計器の一部になったみたいだった。
真紀は前に立ち、当直席に深く座り込むことはせず、手すりに半ば寄りかかるようにして、視線は前方に残したままだった。
彼女を見つめながら、ふと、ごく軽い声で言った。
「今日、あんたのこと少し見直した」
彼女は振り向かない。
「どの部分?」
「えっと……」少し考えた。「ただ口が悪いだけの人間じゃなかったんだなって」
「それが褒め言葉のつもりなら、失敗してるわよ」
「ううん、すごく真面目に褒めてる」私は手の甲に顎を乗せ、前方の冷たい光と彼女の横顔を見つめた。「成績が良くて、頭が良くて、気性が荒くて、言葉に棘があって、たまにすごく九島家らしいやり方で人を助ける。それは前から知ってた。でも、今のこれとは違う」
彼女はようやく少しだけこちらを向いた。
「今のこれ?」
「今のこれは……」彼女を真っ直ぐ見た。「本当に艦橋に立てる人間みたいに見える」
言った瞬間、自分でも少しストレートすぎたと思った。
直球すぎる。さっきからずっと胸の奥に隠して、言葉にしていなかったものを、一息に放り投げてしまったような。
だが真紀は静かに私を二秒見つめ、それから視線を前へ戻した。
「今頃気づいたってことは、あなたの普段の人を見る目はだいぶ甘いわね」
「こういうときでも、一刺し入れなきゃ気が済まないわけ?」
「事実を述べただけ」
「あんたの『事実』って、本当に腹立つ」
「それでも、ちゃんと覚えたんでしょ」
二秒ほど言葉に詰まり、結局笑い出してしまった。
……そうだ。本当に、ちゃんと覚えた。
覚えたどころか、情けないことに、この艦橋に立つ真紀が、私が思っていたよりずっと遠く、そしてずっと鮮明に見える気がしていた。
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空白がまたしばらく静かに続いた。
今度は彼女から口を開いた。
「星野」
「ん?」
「わざとあなたを艦橋に連れてきたわけじゃない」
瞬きをした。
「……そう」
おかしい。別にそんな答えを本気で期待していたわけじゃないのに、彼女にそう先回りして言われると、胸の奥がほんの少しだけ、妙に空っぽになった気がした。
ところが、彼女はすぐに次の一言を継ぎ足した。
「でも、適当に誰でも連れてきたわけでもない」
顔を上げて彼女を見た。
彼女の指先が、私がさっき書き終えた当直記録ボードをトントンと叩いた。
「あなたはうるさいし、余計なことばかり考えるし、すぐ的外れな推測をする」平坦な声で言う。「でも、他人が気づかないことに気づく。こういう人間を当直に置いておくのは、必ずしも無駄じゃない」
彼女を凝視した。
丸々三秒。
「……それ、褒めてる?」
「リソースを分配してるの」
「もう少し人間らしい言い方、できないわけ?」
「できない」
躊躇ゼロの即答だった。
でも、気のせいだろうか。言い終えた後、艦橋の冷たい光の下で、彼女の耳の先が、ほんの少しだけいつもと違う色を帯びているように見えた。
ごくわずかだった。今こうして彼女をずっと見ていなければ、絶対に見落としていたくらい、わずかに。
急に気分が良くなってきた。
いい。この人は完全に手遅れというわけじゃない。
ただ、彼女の褒め言葉は、三層の装甲と二枚の防火扉を抜けないと、ぎりぎり外に漏れ出してこないだけなのだ。
当直ボードに目を落とし、小声で言った。
「じゃあ、褒め言葉として受け取っとく」
彼女は答えなかった。
だが、否定もしなかった。
艦橋の外の星海は、相変わらず果てがないように静かに前へと広がっていた。雪風はその暗闇の中を安定して航行し、艦体の低い振動が床から靴底へ、靴底から身体の奥深くへと伝わってくる。艦橋にはシステムの微かな通知音と、ディスプレイの冷たい光、そして――私と真紀が、遠からず近からずの距離を隔てて、同じ船の呼吸をそれぞれに見守っている気配だけが残っていた。
その瞬間、ふと思った。夜間当直の本当に奇妙なところは、疲れることでも、冷えることでも、学生二人が艦橋の留守番に放り込まれたことでもない。
艦全体が静まり返ったとき、普段は喧騒に紛れて見えなくなっているものが、かえって浮かび上がってくることだ。
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