78. 二人きりの夜間当直 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「報告。学員九島、学員星野、艦橋入室します」
扉が開いた瞬間、私と真紀はほぼ同時に背筋を伸ばした。
次の瞬間、最初に刺さったのは、艦橋の光だった。
眩しいのではない。
あまりにも、きれいだった。
雪風の艦橋は、下の「人生を軍規サイズに折り畳んで鉄の箱に詰め込んだ」ような生活区とは、まったく別の顔をしていた。
空間は予想より高く、広かった。前面の強化観測窓が、外の夜と星を丸ごと切り取っている。遠くに浮かぶ冷たい航路灯と船団識別信号が、深海の奥で瞬く微かな燐光みたいに見えた。
天井灯は絞られており、照らされているのは、コンソール、航法ディスプレイ、レーダー席、通信席、中央指揮席のまわりに点在する冷白と淡い青の作業灯だけだ。そのせいで、ここは「部屋」というより、静かに演算を続ける巨大な機械の頭脳に見えた。
その頭脳の中にいる人間は、驚くほど少なかった。
少なすぎて、一瞬「当直区を間違えたんじゃないか」と疑うくらいだった。
左で男がヘッドセットを外し、椅子を回してこちらを見た。年の頃は三十代前半、肌はやや色が濃く、髪は短く刈り込まれていた。制服の襟は少し緩んでいて、「計器とノイズと一緒に長く生きてきた」種類の疲れと鋭さをまとっていた。
私たちを見ると、先に笑った。
「おお、よかった。見張り組が来たか」その男はヘッドセットを首に引っかけ、手を軽く挙げた。「雪風レーダー手、マンニ大尉だ。マンニでいい」
見張り組。
頭にまず浮かんだのは、「艦橋当直」より、「屋上で風に当たりながら幽霊待ち」のほうだった。
その不敬な連想を取り消す前に、飛田艦長が艦橋下層から上がってきた。
そこで初めて、中央指揮席の後方に、下へ降りる階段があるのに気づいた。あの下は直接、艦橋の下の別の仕事場に繋がっているのだろう。
「ああ、来たか」飛田艦長は指で下を示した。口調はあまりにも気楽だった。「下がCICだ。普段は誰もいないし、できればこれからも誰もいないといいな」
……これぞ雪風。
意味は単純明快だ。あそこが賑やかになったとき、大体誰も楽しくない。
飛田艦長は中央席の横へ進み、いつもの金属製の飛行識別票を指の間で回しながら言った。
「今夜は、艦橋を二人に任せる」
「は?」
ほとんど反射で声が出た。
真紀は声を出さなかったが、彼女でさえ少し驚いていたと思う。彼女の驚きは人より奥に仕舞われていて、せいぜい睫毛が一度だけ普段より深く動く程度だが。
飛田艦長は、たいしたことはないというように手を振った。
「心配するな。全部設定してある。規定では二二〇〇で消灯、あとは交代で休めばいい。今夜の当直重点はこの階層だ。下は閉めてある。夜航路も通常ルートだし、今夜はあまりドラマチックな展開にはならないはずだ」
艦長が「ドラマチックにならない」とか言うと、それだけで不安材料が増えるのは気のせいだろうか。
艦橋を見回した。
艦長席は空で、航法台の前には二面の主ディスプレイだけが灯っている。左のレーダー席にはマンニ、右の通信席にはさっきまで誰かが座っていて、今はケーブルをまとめていた。さらに後方に、夜間の補助観測用らしい席がふたつ見えたが、どちらも空いていた。全体として、静かすぎた。静かすぎて、肌がざわついた。
「……人、少なすぎません?」正直に言った。
飛田艦長は頭をかいた。
「それはな、前回の減員以来、新人を補充する暇がなかったからだ」
無意識に声を落とした。「誰か、戦死したんだ……」
「しっ」
真紀が即座に横から制した。
きつくではない。短く、速く。それ以上、この二文字を艦橋に留めさせない、という感じだった。
口を噤んだ。
そして、その「しっ」のおかげで、ようやく自覚した。生活区や八人部屋や食堂でなら口にしていい単語も、艦橋では駄目なものがある。
迷信の問題じゃない。この場所は、「いない人」を具体的な形で残す場所だ。空いた椅子も、減った人数も、埋まっていないシフトも、それ自体がすでに喋っている。
飛田艦長は、私のさっきの失言をまるごと聞き流したように、淡々と続けた。
「とにかく、早く慣れてもらったほうがありがたい。運が良ければ、道中、実際に手を動かしてもらう機会もある」
私がまだ「学生二人で今夜艦橋を守る」という事実を咀嚼しきれていないうちに、真紀はもっと踏み込んだ質問を投げた。
「この艦、今いちばん人が足りてないポストは?」
彼女を見る。
……面接に来たつもりか、あんた。
飛田艦長は、ぷっと笑った。その笑いには、はっきりした自嘲が混じっていた。
「何が足りてないかじゃなくて、何が『あるか』を訊いたほうが早いよ」
識別票を指の間でくるりと一回転させた。
「艦長と、ソナー手と、戦術長以外、全部足りない。今、俺ひとりで三人分やってる」
二秒、黙った。
そして心の中で、もう一本、雪風に線香を足した。
ここまで人手が削られていて、それでも港を静かに出て、船団と合流できる航路で一〇〇人超の中学生まで連れて宇宙へ出ている。これはもう、組織運営というより、人間の限界をちょっとだけ超えた集団の意地だった。
マンニ大尉はそのとき席を立ち、レーダー席の脇から、理不尽な厚みのハードカバーのマニュアルを一冊持ってきて、私たちに差し出した。
「夜間見張りマニュアル。対応と基本操作は大体ここに書いてある。ビビるな、今夜使うのは三分の一だ。残りの三分の二は脅し用だ」
「その慰め方、慰めになってます?」受け取りながら訊いた。
マンニ大尉はくつっと笑った。
「なってない。でも、そのほうが正直だろ」
この人のことが、一気に好きになってきた。
そこから五分間は、雪風艦橋班による「超濃縮・生存引き継ぎ講習」だった。
通信席の士官が、当直内線、放送切り替え、緊急連絡ボタンを一気に説明する。借金の明細を読み上げているみたいな早さだった。マンニ大尉はレーダー席のそばでペンを持ち、ディスプレイを指し示した――白が本艦の航路基準、青が友軍船団識別、緑が周辺空域の民間と後方通過信号、黄色は要注意、赤が出たら迷わず人を呼べ。
「ここで十五分ごとに針路、速度、姿態修正と相対隊形距離を記録」マンニ大尉が言う。「ここで接近警報を見る、ここが主レーダー自動フィルタ。ひとつひとつの点滅にびびるな。夜間はノイズが多い。本当にまずいときは三回鳴る。一回じゃ済まない」
通信士官が一言、付け足した。「下から電話が来て当直状況を聞かれたら、返答フォーマットはマニュアル三ページ目通りに。アドリブは禁止。艦橋は自由演技を一番嫌うから」
飛田艦長は中央席の脇にもたれかかり、その引き継ぎを聞いていた。その姿は、一見力が抜けている。
だが、それは怠けているからではなかった。見るべき場所がすべて見られていると確認できたから、力を抜けるだけだ。
最後に彼は背を起こし、マニュアルを軽く叩いた。
「よし。今夜の大原則はひとつ。艦は自分で飛ぶ。システムは自分で報せる。お前たちは、異常が自分たちより先に目覚めないよう見張るだけでいい」
……この一言、なんというか艦長版の人生訓みたいだ。
そして、彼らは本当に出て行った。
芝居がかったお説教も、「若いの頼んだよ」といった感動的な言葉もなかった。
飛田艦長が先に降り、マンニ大尉と通信士官も引き継ぎ資料を片付けて出ていく。残されたのは、鈍器としても使えそうな厚みのマニュアルと、ごくりという自分の喉音が聞こえそうな静けさの艦橋だけだった。
ドアが閉まる瞬間、艦橋の空気が一層薄くなったような気がした。
その場に立ったまま、マニュアルを抱えながら、ようやく事態の重さが遅れて降りてきた。
……ここ、本当に、私と真紀だけだ。
前には全面の観測窓に散らばる星の海。足元には雪風の、度を越して安定した航行振動。
左右には、うっすら光る計器と航法ディスプレイ、レーダー画面と通信ランプ。そして横には、さっき風呂から上がったばかりなのに、もうすっかり乾いていて、いつも以上にきれいで落ち着いて見える真紀が立っている。
そっと息を吸い込んだ。
「……本当に、私たちで守るの、ここ?」
真紀はもうマニュアルを開いていて、顔を上げずに答えた。
「じゃなきゃ、今のは艦長の寝る前の朗読ってことになるけど?」
「雪風流の冗談かなって、一瞬は思ったんだけど」
「違うわよ」
彼女はページをめくる手が、やけに速かった。見ているというより、読み飛ばしているような速度だった。
私は中央席の脇にマニュアルを広げ、横から覗き込んだ。その瞬間、真紀はすでに隣の当直板を手に取っていて、今夜の基本的な輪番分担を書き始めていた。
「前半、私がメインを見る。あなたは当直記録とマニュアルの照合」書きながら言う。「二三〇〇以降は、あなたが前方の航法と相対隊形。私は後ろの三十ページの異常処理を整理しておく。零時で一回ローテーション」
思わず見つめてしまった。
「……なんでそんなにパッと割り振れるの」
「さっきの説明、ちゃんと聞いてたでしょ」
「私はまだ、『学生二人置いていかれた艦橋』で頭がいっぱいなんだけど」
「じゃあ、今から頭を仕事に使いなさい」彼女はボードを差し出した。「星野。まず今夜一発目の当直時間を記録」
条件反射みたいに受け取った。
声が荒いわけじゃない。なのに、不思議と従わせる力があった。
そして腹立たしいことに、彼女は正しかった。
そんなこんなで、その後の十分間、私の人生は、非常に雪風らしい状態に入った。「やりすぎじゃない?」と思いながらも、手だけは手順通りに動くモードだ。
時刻を記録し、針路を確認し、速度を照合し、船団の相対位置マーカーを確認し、当直フォーマットをマニュアル三ページ目と突き合わせ、さっき引き継ぎで出た注意事項を、白紙の余白へ走り書きする。
真紀も「それっぽく装ってる」だけかと思っていたが、すぐに違うとわかった。
本当に、慣れていた。
正式な艦橋要員ほどじゃないにせよ、「初めて触る」レベルではなかった。航法台の前に立つ姿勢が自然で、視線の運びも、主画面と副画面と外の窓と操作パネルの間を一定のリズムで往復していた。
画面切り替えキーを押す指には、無駄な躊躇が一つもなかった。自動航路修正のログを読み上げる声も、いつもより低く、短かった。
「主航法、異常なし」「相対距離、維持」「後方、近接接近信号なし」
これは見せるためではない。
ただ、「知っている」人間の動きだった。
記録を取りながら、横目で盗み見てしまう。
そこで、情けないことに、また気づいてしまった。
艦橋に立つ真紀は、八人部屋でも、食堂でも、浴場でも見たことのない人間だった。
彼女が普段、使っていない部分が、ここではぴったりはまり込んでいた。
位置感、という言葉が、一番近かった。
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