73. 雛鳥たちの旅立ち 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
学校に一度戻り、全員分の外出届を処理しなければならなかった。
着いたときには、日はすっかり落ちていた。
さらに悪いことに、雨が降り始めていた。
詩情のある小雨じゃない。今日という日に何か恨みでもある誰かが、上の方でわざわざ気象用の水門を開けたんじゃないかと思うような雨だ。
早足で生徒会室の前まで来て、制服の裾が雨気で少し冷たくなっているのを感じながら、それでも規則どおり声をかけた。
「報告」
返事がない。
扉を引き開ける。
中に誰もいなかった。
電気はついていて、机の上には退出届の用紙が置かれているのに、空間だけがやけに静かだ。窓の外の雨粒がガラスを叩く音だけが、一定のリズムで続いている。なんとなく苛立たしい。
……最高だ。
できることなら、この誰も見ていない行政的な恩恵を、ありがたく受け取りたい。
中に入り、扉を閉め、机の前まで早足で歩いて、ペンを取り、全員分の退出届を埋め始めた。
氏名、寮番号、外出事由(搬入作業)、帰寮確認。
こういうものは早く終わらせるに越したことはない。頭の中では、もう次の行動を組んでいた。書き終えたら置いていく、出る、余計な支線任務が発生しそうな人間には近づかない。
ところが窓の外の雨は、どんどん強くなっていった。
最後の名前を書き終えたとき、背後から、笑みを含んだ声がした。顔の半分が崩れ落ちそうになった。
「あら、星野さんじゃない」
動作が止まった。
振り向く。
顔が、たぶん半分くらい崩れていた。
そこに立っていたのは、生徒会長、九島亜紀だった。
---
「あら……九島先輩」
ほとんど反射で口から出た。しかも同時に後頭部を掻いて、踵が半歩後ろに引いていた。
礼儀じゃない。
生存本能だ。
今私の前に立っているのは、生徒会長の九島亜紀だ。今日も、親切なのか危険なのか判断しにくい笑顔をしている。口元の角度はちょうどよく、目も上品な柔らかさを持っていて、一見すると「温かく頼りになる学園の代表」として校内誌の表紙に載りそうな人物だ。
問題は、私はもうこの学校でそれなりの期間を生き延びてきた、ということだ。
九島亜紀の笑いと「安全」は、たいてい直接つながっていない。
「こんな遅い時間に、みんなの外出届を出しに来てくれたの。勤勉ねえ、星野さん」
彼女はそう言いながら、私の横をすり抜けるように歩いた。急ぎもせず、遅くもなく、スカートの裾が揺れるたびに、名前を覚える気にさせない種類の、精緻な香水の匂いがかすかにした。机のそばに来ると、私が書き終えたばかりの退出届に目を落とし、何でもない動作で引き出しの中にしまった。最初からそこに来ることがわかっていた書類を処理するみたいに。
私はその場に立ったまま、頭の中で警報が一周した。
まずい。
たまたま通りかかったんじゃない。
どう見ても――待っていた。
九島亜紀は引き出しを閉め、傍らのバッグを手に取り、振り返って、申し分のない笑顔を向けてきた。
「港区に行くんでしょ?」
手の中で、車のキーが軽く揺れた。
「送ってあげようか?」
私はそのキーを二秒ほど見つめた。
頭に最初に浮かんだのは「便利だ」じゃなかった。
冗談じゃない。
嘘だろう。
今ここで便利さに負けてこの車に乗ったら、学校から港区までの時間が、そのまま高級仕様の尋問室に変わる。内装が上品で、エアコンが効いていて、でも向かいに座っている人間がずっと笑顔で話しかけてくる、あの種類の。
「い、いえ、大丈夫です」私はすぐに答えた。速度はほとんど戦術的回避だった。「バスで行きます」
本心だ。
本当に。
今すぐバス停が私のために自由世界への扉を開いてくれるなら、雨に濡れた時刻表でも喜んで口づけしに行く。
残念なことに、九島亜紀はその素朴な公共交通への信仰を尊重する気がないようだった。
「そう?」
笑顔は変わらない。声は穏やかで、まるで人をなだめるようだ。
「でも外、雨よ?」
「傘があります」
「港区、風が強いわよ」
「……しっかり持ちます」
「バス停まで、少し歩くわよ」
「歩けます」
「そう」
彼女は軽く頷いた。
心のどこかで、「今日はもしかして、本当に見逃してくれるのか」と、かすかな希望が芽生えかけた、その瞬間。
振り返った瞬間、手首を掴まれた。
「……」
「……」
力は強くない。
むしろ、驚くほど上品な力加減だ。
痛くもないし、痕も残らない。見かけ上は暴力ではない。だが、適当に振り払えるような強さでもない。
私は少し固まり、ゆっくり下を向いて、自分の手首に添えられた手を見た。
肌は白く、指の関節は細く、力を込めている今ですら、仕草は優雅だ。そこが問題なのだ。こういう人間が本気でどこかへ連れていこうとするとき、場面が荒れることはない。でも、断る余地もあまりない。
「そんなに急がなくていいじゃない」彼女は少し首を傾け、さっきよりさらに無害そうな笑顔になった。「少し、話しましょ」
……くそ。
不吉な予感が、具体的な災害に格上げされた。
***
この学校に来てから、それなりの時間が経つ。
でもあの夜まで、校舎の下に地下駐車場があることを、私は知らなかった。
教職員用の臨時駐車スペースでも、校務棟の端にある簡易な車寄せでもない。本物の地下駐車場だ。金持ちや上の立場の人間だけが入口の場所を知っているような、そういう種類の。
私は九島亜紀と一緒に――いや、「一緒に」と書くと彼女が本当に私を引きずっていたみたいだが、まあ本質的にはそれに近かった――廊下を歩き、階段を下り、カードをかざし、権限がないと開かない金属扉を抜けて、照明が青白く、床が鏡のように磨かれた空間に出た。
空気には薄い機油の匂いがあって、地下駐車場特有のコンクリートの冷気が混じっていた。静かすぎて、学校の設備というより、あまり足を踏み入れるべきでない私有地のような感じがした。
歩きながら、心の中で結論を出していた。
なるほど。
生徒会は、やはり別の世界に生きている。
上の連中がバスに乗り、書類を書き、B-147規格表に人生を削られている間、下の連中は地下駐車場で自分のクラシックカーに乗っている。この学校の階級感は、ときどき隠す気もなさそうだ。
「ここよ」
九島亜紀が立ち止まった。
私もつられて止まった。
それは、普通の車じゃなかった。
低く構えた車体、頑固なまでに丸みを帯びたシルエット、黄色い塗装が冷たい白光の下で現代の量産車にはない艶を放っていた。金属の中に、ある時代のわがままとロマンを完全な形で封じ込めて、そのまま今日まで保存してきたようだ。
私はその車を見て、半秒固まった。
「……旧地球時代のポルシェ911?」
九島亜紀が振り返り、目がわずかに輝いた。
「あら、知ってるの?」
こういうものは、載具の歴史を専門に研究していなくても、重力訓練室に閉じこもって育ったのでもない限り、だいたい見当がつく。
私はゆっくり近づき、車体の前方に視線を走らせた。
丸いヘッドライト、低いノーズ、短いテール、ほとんど意固地と言っていいほどの古風なライン――まあ、認めよう。確かに、味がある。実戦向きでもないし、効率重視でもない。今の時代から見れば、ある意味ではもう贅沢で不必要な代物とさえ言える。
でも、味がある。
「クラシックカーが好きなの」亜紀先輩は車のそばに歩み寄り、指先でルーフを軽く叩いた。とっておきのペットを撫でているみたいな仕草で。「このヘッドライト、可愛くない?」
私はその丸いヘッドライトを見つめ、二秒ほど黙った。
うん……。
この人の美的感覚については、コメントを差し控えることにした。
車が悪いわけじゃない。車はいい。むしろ他の車に対して十分偉そうにできるくらいいい。問題は、ポルシェ911を捕まえて「可愛い」と表現できる人間は、どう考えても普通の人間とは違う周波数で生きているという、その一点に尽きる。
私は結局、極めて当たり障りのない答えを返すことしかできなかった。
「……個性的ですね」
亜紀先輩はそれを聞いて、満足そうに笑った。
その笑顔を見て、私は思わず警戒レベルを引き上げた。
九島亜紀の「満足そう」な表情は、たいてい、この直後にもっと自然な流れで他人の胃を痛めつける行動に出る、という意味だからだ。
案の定、次の瞬間には彼女はごく当然のように助手席のドアを開けていた。
「乗って、星野さん」
言い方はひどく軽かった。ごく普通の誘い文句みたいに。
でも問題は、もうドアが開けられていて、その姿勢もやけに優雅で、あたりには私たちと、理不尽なほど高価な黄色いクラシックカー一台しかいないということだ。この状況でまだ突っ立ったままでいたら、それこそ社交性に難ありな人間の実演になってしまう。
私はその場で、約二秒間の無意味な心理的葛藤を行った。
結論は――
もういい。
こうなった以上、成り行きに身を任せるしかない。
私は身をかがめて助手席に乗り込んだ。
ドアが閉まると、外の地下駐車場の匂いはほとんど遮断され、車内にはごく薄い革の香りだけが残った。あの主張の強い新車の匂いじゃない。時間に押し固められた後に残る、しっとりと控えめな牛革の気配だ。それに加えて、ごく淡い、若い女性のものらしい香りがした。清潔で柔らかくて、まるでうっかり車内に染みついてしまっただけみたいに薄い。
……こう書くと、非常にまずい。
この空間が、急に個人的すぎるものになってしまったからだ。
個人的すぎる、というのは、危険すぎる、ということだ。
私はすぐにシートベルトに手を伸ばした。最も普通で、最もつまらなくて、最も余計な連想を生まない乗客の振る舞いで、自分の精神状態を安定させようとした。だが、手がベルトに触れた瞬間――
先に、エンジンが吠えた。
比喩じゃない。
本物の、昔かたぎな機械の意固地さを帯びた、低い咆哮だった。それが車体後部から猛然と響いてきて、背中のシート越しに頭皮が痺れるような振動が伝わってきた。
私は全身を強張らせた。
「ちょ、ちょっと待って――」
次の瞬間、車は弾かれたように飛び出した。
普通の発進じゃない。
運転している人間が「スムーズな出庫」という四文字に何か個人的な恨みでも持っているんじゃないかと疑いたくなる発進だった。
身体が後ろへ一気に引っ張られ、手の中のシートベルトはまだ宙に浮いたまま、魂だけが地下車道に置き去りにされそうになった。
「先輩!!」
ほとんど裏返った声で叫んでいた。
「安全運転!お願いですから安全運転で!!」
亜紀先輩は片手でハンドルを握り、もう片方の手を軽くこちらへ向けて、なだめるような仕草をした。顔には相変わらず、あの余裕のある優雅な笑みが浮かんでいる。
「あら、そんなに緊張しないで」
「シートベルト、まだ締めてないんですけど!!」
「じゃあ、急がないとね」
「それ、私の問題じゃないですよね!?」
車はカーブに沿って上っていき、フロントガラスの向こうでヘッドライトの光が次々と後ろへ流れていく。私は手探りでシートベルトを金具に押し込み、背中をシートに貼りつけた。心臓はまだ、みっともないリズムで暴れ回っている。
よし。
今夜いちばん最悪な展開は、生徒会長に単独で捕まって車に乗せられ、三十分かけて優しく尋問されることだと思っていた。
見通しが甘かった。
本当の最悪は――
生徒会長の優しい尋問を受ける前に、まず彼女の運転の最初の五分間を生き延びなければならない、ということだった。
ポルシェ911のエンジン音が地下車道に低く反響する。ある意味では、なかなかいい音だ。
もし私が助手席に座っていなくて、運転しているのが九島亜紀でなければ、旧地球の機械が奏でるロマンとやらを、悠長に味わう余裕もあったかもしれない。
あいにく、今の私にそんな余裕はない。
今の私が知りたいことは、ただひとつ。
――この車から降りるとき、私の魂は果たして何割残っているのか。
***
そもそもこの道路を設計した人間の脳みそは、たぶん予算案と一緒に焼却されたに違いない。
学校を出て宇宙港へ向かう場合、理論上いちばん速いルートは、首都高速に乗ってひたすら南下することだ。順調なら三十分。運が普通なら四十五分。今日の私くらい運が悪いと、出入口の手前で車の流れが巨大なスパゲッティの塊みたいに渦を巻いているのを眺めながら、連邦の交通計画というのは緩やかで合法的な処刑の一種なんじゃないかと、真剣に考え始める羽目になる。
問題は、高速道路そのものにあるわけじゃない。
問題は、首都高速道路が最初に建設されたとき、国防省、最高評議会、統合作戦司令部の三者すべてにいい顔をしようとした結果、首都南区の交通網を一度粉々に叩き砕き、設計図を描いた本人にしか理解できない狂人のパズルに組み直してしまったことにある。すべての車は高速に乗る前に、三棟のビルの周りを合流、分岐、また合流、また分岐と繰り返さなければならない。都市全体の忍耐力を縄みたいにねじり上げて、最後に官僚に食わせるためだけに存在しているみたいな構造だ。
私は雨粒で滲んだ車窓越しに、その三棟のビルの前に立つ銀河連邦の国父――トーマント・デュナンの像を見た。
その像は相変わらず背筋を伸ばして立ち、マントの裾を垂らし、遠くを見つめている。連邦の未来を見据えている、という設定なのだろう。
私は思わず考えてしまった。もしこの国父があの世でこの現状を知ったら、怒りのあまり棺桶の蓋を蹴破って飛び出し、その蓋で交通大臣の尻を思い切りぶちのめすんじゃないだろうか、と。
窓の外では、まだ雨が降っている。
ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを拭い、ゴムがガラスを押しつける鈍い音を立てる。屋根とボンネットに落ちる雨粒は、トントン、カンカンと、まるでリズム感がない。音楽もわからないくせに無理やり打楽器クラブに押しかけてきた問題児たちみたいだ。前方はブレーキランプで一面真っ赤に染まり、後方の車列は末期症状の虫みたいにのろのろとしか進まない。ここに詰まってから、もう二十分以上が経っていた。
そして、運転席の九島亜紀先輩は、一言も喋らない。
……これは、彼女が喋るより、よほど怖い。
本当に、心の底から。
もし乗った瞬間に、あの丁寧で優しい、でも一言ごとに針が仕込まれているような声で、「星野さん、最近真紀とずいぶん仲がいいみたいね」なんて聞いてきたなら、まだ防ぎようがある。いちばん最悪なのは尋問されることじゃない。相手が先に沈黙して、こちらが勝手にその沈黙の中で自分を怖がらせるのを待っていることだ。
頼むから、何か言ってくれ。
黙っているほうが、よっぽど怖いんだけど。
私は助手席に座り、シートベルトを胸に食い込ませたまま、両手をきちんと膝の上に揃えていた。軍法会議に出頭する寸前の模範被告みたいな、そんな姿勢で。亜紀先輩は片手でハンドルを握り、もう片方の手をシフトレバーの脇に無造作に置いている。横顔は、メーターと投影インターフェースの青白い冷光の中で、ひどく静かに見えた。その静けさは無害な静けさじゃない。刀を鞘に収めたあとでも、それが何を斬ってきたのか、はっきりとわかっている――そういう種類の静けさだ。
黄色いポルシェ911は、凡人たちの列に仕方なく付き合わされている肉食獣みたいに、車列の中で低く伏せていた。旧地球時代から受け継がれたクラシックな骨格に、連邦技術部が現代のシステムで延命を施している。革、金属、電子投影、雨夜のネオンが混ざり合って、ひどく腹立たしい種類の高級感を醸し出していた。腹立たしい理由は簡単だ。この車も、この車の持ち主も、両方とも「優雅であること自体が攻撃的」だからだ。
そろそろ沈黙に窒息死させられるんじゃないかと疑い始めた頃、亜紀先輩がようやく口を開いた。
「星野さん」
視線は前を向いたまま。声は高くなく、むしろ穏やかとすら言えた。
「少し、話を聞いてもらえるかしら」
私は返事をしなかった。
そう、彼女は聞いていない。
通知しているのだ。
私は視線を斜め前のフロントガラスに移し、ワイパーの角度を真剣に研究しているふりをしながら、頭の中でありうる展開を片っ端から走らせた。この話にはいくつかパターンがある。ひとつは、単に話し相手が欲しいだけ。ひとつは、話をしたあとで、私を港区のコンクリートに丁寧に埋めるつもり。そして最悪なのが――ひどく穏やかな声で、笑いながら私と真紀のことを掘り返してきて、羞恥と緊張と生存本能の中から好きな死に方をひとつ選ばせる、というやつだ。
「真紀のことは、小さい頃からずっと見てきたの」
彼女は言った。
その一言で、背筋が音もなく強張った。
よし。
やっぱり、健全で無害な、家族向けの寝物語なんかじゃなかった。
亜紀先輩は私の強張りにまるで気づいていないようだった。あるいは気づいていても、それを「話がちゃんと効いている証拠」としか受け取らない人なのだろう。指先がハンドルを軽く叩き、投影メーターの光が白い制服の袖口をかすめて、金の縁取りが一瞬だけ光った。
「小さい頃から、ずっと私の後ろにくっついてきたのよ、あの子」
私は表情が崩れそうになるのを、なんとか堪えた。
いや、ちょっと待って。
この出だし――情報量、ちょっと多すぎないか。
私は一度咳払いをして、無実で、法令遵守で、他人の妹に対して家族から呼び出されるようなことは何ひとつしていない、ごく普通の後輩の声を出そうと努力した。
「……そ、そうなんですね」
くそ、我ながら間抜けな返しだ。
亜紀先輩は私の間抜けな反応など気にも留めていないようだった。ただ、うっすらと笑みを深めた。その笑い方は薄くて浅くて、雨夜に一瞬だけ映る街灯の反射みたいで、温かくはないのに、今言っていることが本当なんだとなぜか納得させられる。
「小さい頃の真紀は、今よりもっと口下手だったの」彼女は少し間を置いた。遠すぎる記憶に、ちょうどいい切り口を探しているみたいに。「頭の中ではいろいろ考えてるくせに、いつも仏頂面でね。誤解されても説明しないし、損をしても痛いと言わない。ただ、自分の中に溜め込むだけ」
私は前方の車列を見つめたまま、喉がなぜか少し乾くのを感じた。
こういうことを他人の口から聞かされるのと、自分で相手と接しながら少しずつ掴んでいくのとでは、重みがまるで違う。
なぜならそれは、亜紀先輩が本当に知っているということだからだ。
真紀がどんな人間で、どうやって育って、何を隠していて、そして誰を自分のリズムの中に入れるのか。その全部を。
だとしたら、今日私をこの車に乗せたのは、警告するためなのか。それとも、何かを託すためなのか。
「面倒でしょう、あの子」
亜紀先輩が不意に言った。
心臓が跳ね、思わず顔を向けた。
彼女は依然として前を見たまま、唇の端にごくかすかな弧を浮かべていた。まるで今の一言がただの口滑りで、そこに何の探りもないみたいに。でも私にはわかっていた。この人が本当にただの口滑りで話すような人なら、ポルシェを尋問室に仕立て上げたりしない。
「……ま、まあ、それなりに」私は慎重に答えた。
「あら?」
「その、九島――真紀は……」うっかり舌を噛みそうになった。先輩の前で妹の名前を呼び捨てにするのは、自分で墓穴を掘っているようにしか思えない。「ただ、話をきれいに言うのが、あまり得意じゃないだけで」
亜紀先輩は小さく笑い声を漏らした。
終わった。
彼女が笑うと、かえって緊張が増す。
「そう」彼女は言った。「星野さんの目には、真紀はただ話し方がちょっと不器用なだけ、に見えるのね」
自分がきれいに罠に落ちたと、すぐに気づいた。
「いえ、そういう意味じゃなくて――」
「わかってるわ」
彼女はそう遮った。口調は相変わらず平らだった。
この「わかってるわ」がいちばん怖い。
こういう言葉を口にする人間は、たいていそのすぐあとに、相手をその場に釘付けにするような一言を続けてくるからだ。
車外でまた雨が強く打ちつけ、前方の車列がようやくわずかにほどけ始めた。何台かの車がじりじりと前へ滑り出し、テールランプが水煙の中に赤くにじんだ線を引く。まるで都市が雨の中で血を流しているみたいだった。
亜紀先輩はその流れに合わせてハンドルをわずかに左へ切り、バックミラーとサイドミラーへ視線を走らせた。その動きは、交通ルールすらも人をもてあそぶための道具にできそうなほど、板についていた。
「そんなに構えなくていいのよ、星野さん」彼女は言った。「ただ、ふと思い出しただけ。小さい頃の真紀って、面白かったなって」
少しも安心できなかった。
むしろ、その「ふと思い出しただけ」という口調こそ、爆弾のカウントダウンが鳴らす予告音と、本質的に何ひとつ変わらない。
「あの子、あの頃はね――」
亜紀先輩の言葉が、ようやくその扉を少し押し開けようとした、まさにその瞬間。
彼女はとうとう、この亀の歩みみたいな渋滞に耐えられなくなったのだろう。右手でハンドルを鮮やかに切り、左足と右手の連携にはほとんど迷いがなかった。ずっと車列に閉じ込められていた黄色いポルシェ911が、首輪を外された猛獣みたいに低く一声唸り、元の車の流れから斜めに飛び出した。
私は危うくシートの背に叩きつけられそうになり、胃が一瞬で魂と別居した。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




