70. 君たちは軍人だ 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
真紀は二秒ほど私を見てから、ごく軽く言った。
「でも、逃げるタイミングの判断は正しかった」
「……褒め言葉として受け取っておく」
「受け取っていい」
彼女はそう言って、視線を先に向け、一歩前へ歩いた。
たった一歩だけ。
でも私はなぜか、山頂でキスが終わった後、彼女の呼吸が少し乱れていたのに、後退しなかった姿を思い出した。
喉が少し乾いた。
背後のリビングでは、まだ喧騒が続いていた。
二十二番地の空気は、ロイの説得力ゼロの言い訳と、ジェスの完全な第二段階暴走――「これだけ巻き込まれたんだから、誰一人無傷では済まさない」というやつ――でとっくに沸騰していた。アイダはたぶんもう笑いすぎて頬の筋肉が限界に近いだろうし、アカリはまだ冷静に証拠のチェーンを補強している頃合いだろう。
二十二番地は相変わらず、危険で、うるさくて、まともな人間の住む場所じゃない混沌に満ちている。
でも私は廊下のこちら端に立ったまま、さっき真紀の腕を引いたときの感触がまだ指先に残っていて――今夜、本当に処理しきれなかったのは、最初から最後まで、ジェスでもなければ、ロイと蘭・ヴァイスの秘密の恋が暴かれたことでもないと、はっきりわかっていた。
真紀だ。
彼女はさっき、私の手を振り払わなかった。
そして私はあの瞬間、驚くほど自然に、彼女を連れ出していた。
翌朝、私はかなり体裁の悪い覚醒状態のまま食堂に足を踏み入れた。
体裁が悪い、というのは――眠りはした。だがあれは、眠りとは呼べない。
人間をベッドに平らに寝かせて、脳内の記憶再生システムが一晩中勝手に、山頂の夜景、二度目のキス、真紀を引きずってリビングから逃げ出したこと、そして最後の彼女の一言――「さっき、もう敬礼したでしょ」――そういう、午前三時に飛び起きて「私、もう終わったんじゃないか」と本気で疑うレベルの高危険素材を延々と自動再生し続けるのに任せていた、というだけの話だ。
だから朝、食卓についたとき、私は外見だけかろうじて人の形を保っていた。
ジェスはもうそこにいた。
そして案の定、ものすごく不自然だった。
私を見た瞬間、第一反応は睨む。第二反応は、視線を無理やり横にねじ曲げる。第三反応は、何か一言足しておかなきゃと思い出したみたいに、冷たく鼻を鳴らす。
「ずいぶんのんびりなお目覚めね」
攻撃は攻撃だ。
でも、照準が盛大にずれている。
壁の時計ははっきり七時二十分を指していて、今日の私はいつもより十分も早い。
私は時計を一瞥し、彼女をもう一度見て、人道的配慮からその場では指摘しないでおくことにした。
「うん」私は席についた。「ジェスも今日は早いじゃん」
ジェスの表情が固まった。
よし、カウンター成立。
彼女が口を開き、もう一言重ねようとした瞬間、アイダがカップを持って横をすっと通り過ぎた。とびきり専門的な「傍観型災害促進装置」みたいな笑みを浮かべて。
「おはよう、二人とも」彼女はぱちりと瞬きした。「今朝の食卓、ずいぶん爽やかね」
「黙って」
私とジェスの声が重なった。
アイダはその場で吹き出した。
向こうに座っていたアカリがちらりとこちらを見た。相変わらず表情は静かで、前夜の事故現場から回収されたものの、まだ完全には修復されていない実験サンプルを二つ眺めているみたいな目だった。
真紀は私より少し遅れて入ってきた。
今日は身なりがきちんとしていて、髪もすっきりまとめられている。顔には、私がもう見慣れすぎて逆に危険だと感じている、あの平静さが張りついていた。平静であればあるほど、何も起きていないように見える。何も起きていないように見えれば見えるほど、私は実際に何が起きたかを思い出してしまう。
彼女が私の斜め向かいに座った瞬間、私は危うく手のフォークを逆さに持ち替えそうになった。
くそ。
朝からこれか。人権侵害だ。
しかも始末に負えないのは、彼女が座ったあと、ただ淡々と私を一瞥しただけだったことだ。席を確認するだけの、ごく普通の視線。余計な意味は一滴も含まれていない。
なのに私は、その一瞥だけから、昨夜の山頂の風、反則みたいに近かった彼女の息、そしてその後自分がやらかしたことを、勝手に脳内で再生してしまう。
これはもう、後ろめたさなんかじゃない。
慢性中毒だ。
ロイと蘭も来た。
二人とも、やけに静かだった。
ロイはいつもなら場をある程度回せる余裕があるのに、今日は席についた瞬間から「最低限のカロリーだけ摂取して、摂取が終わり次第静かに消えます」という慎重な姿勢を崩さない。蘭のほうは沈黙をかなりプロフェッショナルに保っていて、顔つきはいつも通り冷静だったが、アイダが意味ありげにそちらへ視線を流すたび、耳の付け根がわずかに強張った。
D半は相変わらず、睡眠も感情も俗世に左右されない幽霊みたいに現れ、座り、水を飲み、食事をとった。ついでに、その安定した傍観者の姿勢で全員に思い出させてくる――昨夜の冷蔵庫プリン事件を、自分はまだ忘れていない、と。
朝食のテーブルは、表面上はずいぶん静かだった。
実際には、テーブルクロスの下に型の違う爆発物が何個か仕込まれていて、あとは導火線に火がつくのを待つだけ、という類の静けさだったが。
その導火線は、ジェスじゃない。
アッシュだった。
彼はもともと口数が少ない。
わざとらしく気取った沈黙でもなければ、面倒くさがって黙っているわけでもない。彼が口を開かないでいると、彼がずっと見ていて、記憶していて、判断を下していることを、周りがつい忘れてしまう――そういう種類の沈黙だ。普段はきちんと鞘に収まっている折りたたみナイフみたいに、そこに静かにあって、必要な瞬間にだけ引き抜かれる。
その朝、彼がカトラリーを置いた音は大きくなかった。
それでも、その一音でテーブル全体の空気が中央から押さえつけられたみたいに、一瞬で締まった。
「お前らの私生活の感情がどうだろうと、私には関係ない」
アッシュが口を開いたとき、わざと声を落とすことも、先輩ぶった態度を見せることもなかった。
ただ、ひどく平らな声で、一文をテーブルの上に置いた。
「だが一度戦場に出たら、そのピクニック気分はしまっておけ」
名指しはなかった。
でも全員、誰のことを言っているかわかっていた。
いや、より正確に言えば――「誰か」じゃなく、「最近私たち全体に漂っている、明らかに緩みきった空気」そのものに向けられた言葉だった。
私のフォークが止まった。
ジェスもそれ以上突っかからなかった。
アイダですら、少し笑いを引っ込めた。
アッシュはきれいごとを言っているんじゃない。
本当のことを言っている。
しかも、普段は口にしないのに口にしたということは、もうしばらく前から我慢していたという類の本当のことだ。
「よく覚えておけ」彼はテーブルを一周見渡した。声に抑揚はない。「お前たちは連邦の予備軍人だ。国家が開戦すれば、真っ先に投入されるのはお前たちだ」
食堂には、食器が皿の縁に触れるかすかな音だけが残った。
誰も言葉を返さない。
アッシュは続けた。
「その時になれば、曖昧な関係が破片を防いでくれるわけでもないし、好きという気持ちが命令の代わりを務めてくれるわけでもない。艦に乗って任務に入っても、頭の半分が私事に残っているようなら、今のうちに荷物をまとめて帰ることを勧める。少なくとも、恥をかくのは校内だけで済む。外にまでは持ち出さずに済む」
言葉は硬かった。
冗談で受け流せる硬さじゃない。
だが、それだけ硬いからこそ、誰かに恥をかかせるための言い方じゃなく、本気の忠告だということが伝わってくる。
私は無意識に真紀を見た。
彼女は視線を逸らさず、指摘されたような顔もせず、ただわずかに目を伏せて、その言葉を一つずつ頭の中に収めているようだった。その反応が、かえって私を後ろめたくさせた。昨夜、山頂で最初に崩れたのは、どう考えても私の方だったから。
……もっとも、そのあと私を突き放さなかった彼女も、完全に無罪とは言い切れない気もするが。
いや、違う。今それを考えている場合じゃない。
「以上だ」アッシュは袖口を軽く直した。「各自、よく考えろ」
そう言って、彼は脇に置いていた紙の束を手に取った。
明らかに思いつきで用意したものじゃない。角はきっちり揃えられ、順番も整理されている。一番上には雪風号の艦章とタイトルが印刷されていて、見ただけで「面倒事が正式に始まった」匂いがした。
「少し早いが、休暇はまだ二、三日ある」彼は紙をテーブルに置き、少し前に押し出した。「雪風号の登艦心得、艦内生活規範、当直表、それから各自の専門対口の割り振りをまとめておいた。今日中に目を通して、明日には疑問点を全部潰しておけ。乗艦してから慌てるな」
アイダが一部受け取り、二ページほどめくって口笛を吹いた。
「先輩、これのどこが『まとめた』のよ。艦を丸ごと解体して見せてるようなものじゃない」
「わからなければ聞け」アッシュは言った。「わかったふりはするな」
これも、いかにも彼らしい台詞だった。
余計な飾りは一切なく、急所に直接刃を入れてくる。
紙が私の手元に回ってきたとき、私は目を落としてざっと眺めた。
登艦時刻、集合地点、装備規格、艦内動線、当直時間、立入禁止区域、緊急集合ベルの識別方法、私物の制限、艦内通信規範……
びっしりだった。
見た目を整えるためのびっしりじゃない。一項目ごとに、後々命取りになりかねない類のびっしりだ。
ふと、妙な実感が湧いた。
昨日まで、雪風号は私の中でどこか物語の背景に近かった。私たちがこれから近づいていく大きな目標、まもなく幕が開く舞台――そんな存在。
でも、これだけの規範が一行一行、黒い文字で紙に印刷された途端、それはもう港区に遠く停泊している船の映像じゃなくなった。
自由時間を食いつくし、呼吸のリズムを変えさせ、一人一人を当直と規則の枠に組み込んで動かす場所。
これから私たちが実際に入り込む環境そのものだ。
私は手を挙げた。
「アッシュ先輩」
「言え」
「この前、港区に行ったとき、艦長にお会いしました」私は言った。「出航の日、艦に中学生が乗るって話をされていましたけど……あれは本当ですか」
アッシュは私を見た。
「ああ。あいつらは見学だ」
それから、視線を外さないまま、ひどく平然と言葉を継ぎ足した。
「お前たちは実習だ」
私は一瞬、言葉に詰まった。
同じ「乗る」でも、その三文字で両者の重さがはっきり切り分けられていた。
見学は、見に行くこと。
実習は、やりに行くこと。
「だから」アッシュはゆっくりとテーブル全体を見渡した。「連邦中央星際連合軍事学院の顔に泥を塗るな。向こうは船を見に来る。でも、ついでにお前たちのことも見る。臨時で連れてこられた遠足気分のツラを晒すなよ」
今度は、ジェスが真っ先に手を挙げた。
正確には、手を半分だけ上げた――「喧嘩を売る気はない、ただ質問がある、しかもこれがかなり面倒な話だ」というニュアンスで。
「じゃあ睡眠はどうなるの」彼女の口調は硬かったが、語尾にはわずかな焦りがにじんでいた。「当直が夜をまたいだら、翌日の訓練は普通通り?」
アッシュは頷いた。
「普通通りだ。当直明けに特別な調整が入らない限り、艦は昨夜の睡眠が少ないからって基準を下げてはくれない。乗艦後、『疲れた』は理由にならない。せいぜい状態報告だ」
ジェスは眉をひそめ、まだ何か言いたそうだったが、結局その言葉を飲み込んで、手元の表に視線を落とした。
この反応は、なかなか興味深い。
彼女は口では強がるが、実際にはこのテーブルの中で、こういう細部を本気で自分の中に取り込む数少ない一人だ。文句も言うし、爆発もする。でも、こういう質問をし始めたということは、野次馬として聞いているんじゃなく、本気で「じゃあ自分はどうやって持たせるか」を考えている証拠だ。
次に口を開いたのは真紀だった。
「当直表の専門対口は、固定の一対一ですか。それとも艦の状況に応じて調整されますか」
いかにも彼女が聞きそうな質問だった。
一言も無駄がない。
アッシュは後ろのページをめくり、指で一つの欄を叩いた。
「原則として固定だ。だが雪風号は学校じゃない。艦側で急に人員が動けば、お前たちもそれに合わせて動くことになる。まずは自分の対口内容を完全に頭に入れておけ。そうすれば配置換えのときに、完全に空回りせずに済む」
真紀は頷いて、それ以上は聞かなかった。
彼女はいつもそうだ。
聞くときは構造を聞き、確認するときは全体を動かせる要点を確認する。こういうときの彼女を見ていると、普段のあの冷静さが演技でも何でもないと思い知らされる。彼女は本当に、物事を分解して、整理して、しまってから、前に進むタイプなのだ。
だからこそ、昨夜のキスを思い出すと、私は余計に頭が痛くなる。
だって、どう見たって「一緒にブレーキを壊す側」の人間には見えないのに。
D半が紙をめくりながら、淡々と尋ねた。
「緊急集合ベルは何種類?」
「主要な型が三種類、それに全艦一斉放送が一種類」アッシュの返答は早かった。「手元の二ページ目に書いてある。今日中に頭に入れろ、明日抜き打ちで聞く」
D半は満足そうに頷いた。
ロイもようやく口を開いた。ただし声には、昨夜核直撃を食らった余震がまだ残っていた。
「艦内の通信制限はどこまで?個人端末は完全に触れないんですか」
アッシュが彼をちらりと見た。
その一瞥がなぜか妙に含みがあるように見えた。昨夜リビングで何があったか全部知っていながら、今は仕事の話だけをすると決めているみたいな目だった。
「必要がなければ触るな。艦内には艦内の通信系統がある。生活区と作業区で制限も違う。乗艦したら、まず、どこで口をつぐむべきかを覚えろ。連絡の取り方より、そっちの方がよほど大事だ」
……この一言、通信の話だけをしているとは、どうも思えない。
蘭がそこで、かなり実務的な質問を挟んだ。
「実習期間中、機庫区画にはどこまで入れますか」
「担当教官がどこまで許可するか次第だ」アッシュは言った。「ただし、『間近で格好いいものが見られる』みたいな期待は今のうちに捨てておけ。もし本当に中に入れられたとしても、大抵は見るためじゃない。運ぶため、覚えるため、突っ立つため、怒鳴られるためだ」
アイダが堪えきれずに笑った。
「アッシュ、そんなこと言ったら、みんなの艦上生活への最後のロマンまで殺しちゃうわよ」
「ロマンは当直表には載ってない」アッシュは言った。
その一言に、私はあやうく自分の息にむせそうになった。
隣でジェスが遠慮なく「ふん」と鼻を鳴らした。ほら見なさい、やっとまともなことを言う人が出てきたじゃない――とでも言いたげに。
私は黙って手元の紙に視線を落とした。
気のせいかもしれないが、アッシュがそう言った瞬間、空気の中で何かがゆっくり収束していくのを感じた。冷たくなるというより、昨夜の人間関係の乱流から、少しずつ、もっと大きなものの上に引き戻されていくような感覚だった。
国家、軍校、雪風号、実習、生存率、恥をかくかどうか。
普段はスローガンみたいに聞こえる言葉が、目の前に置かれた瞬間、急に重さを持ち始めた。
そのとき、アッシュが最後の資料を配り終えて、一言足した。
「意見があるなら今のうちに言え。乗艦してからごねるな」
誰も口を開かなかった。
というより、強がりとして受け取られかねない台詞を吐く人間は、もう一人もいなかった。
アイダは資料をめくりながら、もうさっきほど軽くは笑わなかった。ジェスは眉をひそめて当直表を睨みつけながら、まだ何か文句を言いたそうにしていたが、少なくとも今回は場を荒らすためじゃなかった。ロイと蘭は二人とも手元のページから目を離さなかった。昨夜リビングを吹き飛ばしかけたあの噂話は、この朝、きれいに紙の下へ押し込まれていた。
真紀は自分の分の資料をきちんと揃え、指先でページの角を軽く押さえた。
なぜだろう、私はふと、彼女にこう聞いてみたくなった。
――昨夜、眠れた?
もちろん、聞けるはずがない。
少なくともここでは。
少なくとも今は。
というのも、顔を上げた瞬間、アッシュの手元にまだ一枚の紙が残っているのが見えたからだ。
私たちの持っている束とは、形式が違う紙。
その一枚だけは、配られていなかった。
彼が資料を整理していたときの手つきはごく自然だったが、その一枚だけはずっと一番下に押さえられていて、誰にも触れさせなかった。角が少しだけ覗いていて、名簿のようにも、単なる補足資料のようにも見えた。
なのに、なぜかそれを見た瞬間、胸の中に嫌な予感が広がった。
「あとで追加の課題があるかもしれない」程度の話じゃない。
もっと直接的な――まだ発表されていない何かが、先にテーブルの端に置かれていて、あとは適切なタイミングで裏返されるのを待っている、そんな感覚だった。
私はその紙を、一秒だけ長く見つめた。
アッシュは私の視線に気づいたのか、ちらりとこちらを見てから、さりげなくその紙を裏返し、掌の下に滑らせた。
動作は重くなかった。
それなのに、胸の中の不安は、むしろはっきりした。
朝食のテーブルにまた静けさが降りた。
窓の外は明るく、皿の上の食事もまだ湯気を立てていて、二十二番地は見た目だけならいつも通りだった。
でも私は、手元の登艦心得を見下ろし、アッシュの手元に残ったあの配られていない一枚を見上げて、ふいに、とても明確な感覚に襲われた――
昨夜のキスも、逃走も、気まずさも、はやし立てられたことも、何一つ消えていない。
ただ、しばらくのあいだ、もっと小さな引き出しに押し込まれただけだ。
そして今、本当に大きな引き出しが開こうとしている。
雪風号はまだ出航していない。
私たちもまだ乗艦していない。
でも、登艦よりも一足先に来る何かが、もうこの朝食のテーブルの傍らに腰を下ろしていた。
そして今、それはアッシュの手の中で、静かに伏せられている。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




