69. 彼女の唇は、案外甘い 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
最初のキスのあと、世界はちゃんと空気を読んで、少し止まってくれるものだと思っていた。
せめて一息つかせてほしい。
せめて「私は今、本当に九島真紀にキスをした」という一文を、頭の中で最後まできちんと走らせてほしい。
せめて三秒くらい、まともに話せる人間として自分を組み直す猶予がほしい。
そんなものは、何一つなかった。
世界は止まらなかった。
風はまだ吹いていた。
街はまだ光り続けていた。
人生にも、一時停止ボタンなんてなかった。
そして真紀は、私の目の前に立っていた。
距離は、反則なくらい近いままだった。
顔はまだ赤い。
呼吸も、私とそう変わらないくらい乱れている。
なのに、目だけはずっと私から逸れなかった。
これが、ずるかった。
もし彼女がここで顔を背けて、一つ咳払いをして、「帰ろう」とか「さっきのことは、いったん――」とでも言ってくれたら、私はその段差につかまって、「まだ理性の残っている人間」を演じることもできたはずだ。
でも彼女はそうしなかった。
ただ、見ていた。
だから私は、悲しいくらいはっきりと知ってしまった。人は時々、相手が一歩も引かない視線一つだけで、それまで抱え込んでいたものを全部、放り出してしまうのだと。
先に動いたのは、私のほうだった。
轟々たる決意なんて、どこにもなかった。
「よし、今から自分からキスし返すぞ」みたいな、立派な心の台詞すらなかった。
思考より速い何かが、先に私の身体を動かしていた。自分で気づいたときには、もう一歩踏み出していて、手を伸ばして、彼女の手首を掴んでいた。
真紀は、明らかに一瞬、虚を突かれた。
その一瞬はとても短かった。
最初のキスのすぐ後に、私がそのまま二度目に来るとは、彼女も思っていなかったのだろう。
正直、私自身もそうだった。
でも、ここまで来て取り繕うのは、さすがに格好がつかない。
それに、一つだけはっきりしていることがあった――今夜このまま手を引いて山を下りたら、私は絶対に自分自身が許せなくなる。
だから私は彼女を見て、自分でも聞き慣れないくらい低い声で言った。
「さっきのは……ノーカン」
真紀のまつ毛が、ごく軽く揺れた。
「ノーカンって、何が」
「完全じゃないから」私は喉が乾いたまま、それでも意地だけはまだ死んでいなかった。「妳のあれ、短すぎた。探りを入れてるみたいだった」
彼女は私を見て、耳の裏がまた少し赤くなった。
「じゃあ今、妳は――」
「言ってるんだよ」私は彼女の目を真っ直ぐ見た。たぶん、生まれてこの方これほど直接に言葉を出したことはない。「探りは終わった」
言い終えると同時に、私は唇を重ねた。
さっきの、触れただけで散ってしまいそうなくらい軽いキスとは、まったく違った。
後悔する時間を自分に与えなかった。
最初に触れた瞬間、真紀が短く息を止めるのが分かった。まるで彼女の頭も私と同じように、今ここで何が起きているかを、半拍遅れて追いかけているみたいに。
それから、彼女の指先に力が入った。
押し返すんじゃない。
私のジャケットの前立てを、掴んだのだ。
その瞬間、自分の心拍で耳が鳴りそうになった。
今度は少し長かった。
本当に、少し長かった。
世界の回り方を忘れてしまうような長さじゃない。でも、はっきりと感じ取れるくらいには長かった――真紀が引かなかった、ということを。本当に引かなかった。引かなかっただけじゃなく、私が緊張しすぎて呼吸がわずかに乱れたその瞬間、ごくごく軽く、少しだけ返してきた。
ほんの少しだけ。
その場で死ぬかと思った。
風の音も、夜の色も、遠くに広がる街の灯りも、さっきまで私を任務の現実に引き戻していた港の雪風号でさえ、その瞬間にはるか遠くへ退いた。残ったのは目の前のこの人と、彼女の唇の温度と、自分の情けないくらい過熱した呼吸だけだった。
ようやく離れたとき、私が最初にしたのは言葉を出すことじゃなかった。
彼女を見ることだった。
確認しなければならなかった。「もしかしたら彼女はただ流れに乗っただけで、もしかしたらただ雰囲気がそうさせただけかもしれない」という、自分の中に残っていた逃げ道が、今のキスで完全に潰れたかどうかを。
答えは:そうだ、完全に潰れた。
真紀の顔は、さっきよりずっと赤かった。
いつもの冷静さも、きびきびとした判断力も、何でも整然と分類してしまうあの鋭さも、今は半分ほど誰かに持っていかれたみたいだった。呼吸は明らかに乱れていて、それでも目はまだ私を見ていた。ただその眼差しの中に、普段はめったに見せない、ほとんど不意を突かれたような何かが、確かにあった。
なるほど。
私だけじゃないんだ。
あんたも、こうなるんだ。
◇
【九島真紀視点】
彼女がまた、来た。
さっきの、たぶん彼女自身もまだ考えがまとまらないまま返してきたような、あの反応とは違った。今度は明確に、彼女自身の気性と決意を持って、もう一度近づいてきた。
本当なら、私のほうが先に落ち着くべきだった。
ずっとそうだったから。
二十二番地でも、生徒会でも、軽重を見極めて、順序を判断して、場をまとめなければならないどんな場面でも、私は彼女より安定していた。
今夜もそうなると思っていた。
彼女を連れてきて、夜景を見て、下の灯りの海に浮かぶ雪風号の輪郭を見て、任務のプレッシャーを少し降ろしてから、彼女を安全に届け――違う、彼女に安全に届けてもらって帰るつもりだった。
さっきのキスで、今日の感情の乱れはもう上限に達したと思っていた。
そうじゃなかった。
彼女が私の手首を掴んだとき、そうじゃないと分かった。
星野の手は、普段こういう力加減じゃない。
口は悪いし、意地もある。本当に強がりたいときは、誰よりも気にしていないふりをする。でも本当に決意したとき、彼女の動作は逆にとても直接になる。理屈を超えて直接に。
今みたいに。
「探りは終わった」と彼女は言った。
その瞬間、私の頭に、ひどく場違いな考えが一つ浮かんだ――
ああ、私が探っていたこと、彼女には分かっていたんだ。
最悪だ。
見抜かれたことより最悪なのは、その言葉を聞いた瞬間、私が少し、嬉しかったことだ。
二度目のキスが来たとき、本当なら身を引くべきだった。少なくとも彼女を止めて、これ以上勢いで滑り落ちないようにすべきだった。
でも、しなかった。
したくなかったからだ。
さらに最悪なのは、彼女が近づいてきたその瞬間、今日一日の彼女の姿を、自分がこれほどはっきり覚えていたことに気づいてしまったことだ。
初めて正式に私を後ろに乗せたとき、彼女の背筋がどれほど緊張していたか。
港区で車を停め、ヘルメットを外したときの彼女の目がどれほど輝いていたか。
飛田艦長が附属の見学の話をした瞬間、彼女の顔から魂が半分抜けかけたあの表情が、どれほどおかしかったか。
そして、さっき夜景の前に立って、もう顔が赤くなっていたのに、それでも目を逸らさずに最後まであの言葉を言いきった彼女の姿が。
こんなときに考えるべきことじゃない。
なのに、考えてしまった。
しかも彼女のキスは、さっきより少し長かった。
長すぎて、私はもうはっきりと意識してしまった――今さらこれを「雰囲気のせい」とか「たまたまそういう流れ」とか「高台視界の補足確認」と言い張ったら、それはさすがに不誠実すぎる、と。
彼女のジャケットの前立てを掴んだのは、止めたかったからじゃない。
ただ、自分が立っていられる場所が必要だっただけだ。
彼女は、思っていたより熱かった。
唇だけじゃない。全身が。
普段は世界とあと三回は言い合えそうな顔をしているくせに、今ここでは、言葉にしてこなかったものを全部、呼吸の中に先に隠してしまったみたいに、燃えていた。
笑いたくなった。
でも、笑えなかった。
自分も大して変わらなかったから。
今の私には分かっていた。もし彼女がもう一歩踏み込んでも、私はたぶん引かない。
それどころか、今この瞬間に彼女が「妳も――」と一言でも聞いてきたら、いつものように言葉をきれいに収める自信が、私にはもうなかった。
これは危険だ。
でも、嫌じゃない。
……いや、違う。
嫌じゃない、じゃなくて。
私はたぶん、ずっと前から、彼女が近づいてくることを嫌いになれなくなっていたんだ。
ただその一文を、自分の中でまだ最後まで言い終えていなかっただけで。
◇
彼女を見て、一つだけはっきり分かっていた。
九島真紀は今、本当に乱れている。
表面的な乱れじゃない。
耳が少し赤くなるとか、一言強がるとか、「これは効率の問題」という一言で場を回収するとか、そういう類いじゃない。もっと内側の、彼女自身もまだ完全には押さえきれていない乱れだ。
それを理解した瞬間、胸の中で何かがほぐれると同時に、また別の熱が燃え上がった。
私は頭を下げて、笑い声を一つ漏らした。
声が少し掠れていた。自分でも分かった。
「……乱れてる」
真紀はまだ、さっきのキスから完全には戻ってきていない顔で私を見た。
「何が」
「妳も乱れるんだね」
彼女は二秒ほど黙った。
それから、ごく軽く返した。
「誰のせいだと思ってるの」
私はその一言で、その場に倒れそうになった。
ちょっと待ってくれ。
この人、普段こういう返し方をする人じゃない。精確に急所を突くタイプではあるけれど、相手がキスしたばかりで、まだ何も修復できていない状態のときに、こんな至近距離からの反撃を繰り出してくる人じゃない。
これは反則じゃないか。
私は彼女を見て、喉がまた少し乾いた。
「妳って本当に……」
「本当に、何」
「ひどい」
「お互い様でしょ」
確かに。
今日どちらが先に一線を越えたかを問うなら、彼女はたぶんこう言うだろう――私は道を開けただけで、扉を蹴破ったのは妳のほうだ、と。
それを考えたら、むしろ笑えてきた。
真紀も私を見ていた。このとき初めて、呼吸がゆっくりと落ち着いてきたみたいだった。
夜風が横から吹き抜けて、彼女の額の前に数本の髪を揺らした。
手を伸ばして、払ってあげたいと思った。
その考えが浮かんだ瞬間、私は本当にそうした。
指先が彼女の頬の横に触れたとき、彼女のまつ毛がごく軽く震えた。でも、避けなかった。
反則すぎる。
本当に反則すぎる。
私は手を引いて、このまま続けたら今夜二十二番地に帰り着いても、ずっと魂が半分どこかに置いてきたままになると悟った。
だから、とりあえず自分を少し救い出すことにした。
たとえば――大事なことを一つ、先に言っておく。
「真紀」
「うん」
「聞いていい?」
「何を」
私は彼女を見て、真剣に、そして全然真剣じゃない顔で口を開いた。
「今夜、二十二番地に帰る」
少し間を置いた。
それから、後半を続けた。
「……それとも、帰らない?」
風が一瞬、静かになった。
山頂全体も、夜景全体も、下に停まっている雪風号も、そして今日私たちをここまで連れてきた、あの車も、全部が彼女の返事を待っているみたいだった。
そして私は、その言葉を口にした後になって、ようやく気づいた――
終わった。
今日の退路を、全部まとめて、一言で潰してしまった。
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「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




