69. 彼女の唇は、案外甘い 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
飛田艦長が「船上には今日、連邦士官付属中学の生徒たちもいる」と、笑顔でこの一言を放り込んできた瞬間、私は本気で、その場でヘルメットを被り直して、今日は最初から港区になんて来ていなかったふりをしたくなった。
私が脆いんじゃない。
この世界が、人の中にやっと少し芽生えかけたロマンチックな気分を、高難易度ダンジョンの前置き生贄に使うのが好きすぎるだけだ。
さっきまで私は考えていた。今日のこの外出は、いったい何だったんだろう、と。
初めて正式に真紀を後ろに乗せて出かけた日。
初めて自分のバイクで港区まで走った日。
初めて雪風号の前に立って、「この先本当にあの船に乗る」という事実が、文字資料から目に見える鋼鉄の現実に変わった日。
そこへきて、システムが勝手に「附属中学の生徒一式」をおまけで付けてきた。
いいだろう。
これはもう、ただの護送任務じゃない。攻略サイトで「フルパーティ推奨、CC(行動制御)必須、NPCの暴走に注意」と赤字で書かれる類いのレイドだ。
私はその場に立ったまま、去っていく飛田艦長の背中を二秒ほど見送ってから、ようやく一言だけ絞り出した。
「真紀」
「うん」
「今、すごく強い衝動に駆られてる」
「帰りたい?」
「雪風号を丸ごと引きずってって、リスク評価にかけ直したい」
真紀は隣で一秒ほど黙って、それから小さく笑った。
心底楽しそうで何の重みもない笑いじゃない。ごく短くて、ごく淡いけれど、私の頭の中で絡まりかけていた神経を少しだけほどいてくれる笑いだった。
「もう遅い」彼女は言った。「船はもう、そこにある」
「分かってる」私はこめかみを押さえた。「でも、せめて未来の自分に黙祷くらいはさせて」
港から吹いてくる風は、存在を主張するみたいに冷たかった。
雪風号はまだそこにいた。重くて、安定していて、人間味がないほど大きくて、甲板に附属中学の生徒が一群増えようが百群増えようが、心底どうでもよさそうな鋼鉄の生き物だった。それと比べれば、今ここで心の中で自分への弔辞を書いている准実習生など、ちっぽけで、やかましいだけだ。
真紀はしばらく船を眺めてから、私のほうを向いた。
「帰る?」
言葉自体は、ただの確認だった。
でも問題は、その声に「今日はここまでにしよう」という締めくくりの空気が、ひとかけらもなかったことだ。どちらかというと――私が帰ると言えば一緒に帰るし、帰ると言わなければ、私が次にどちらを向くかを、もう知っている人間の言い方だった。
そして私は運悪く、本当にそっちを見た。
高台。
山のほう。
最初から彼女がもっともらしく「高台視界の補足確認ルート」と包装していた、どう聞いても怪しいあの線。
私は二秒ほど黙ってから、正直に聞いた。
「もし、ここで二十二番地に引き返すって言ったら、たぶん帰り道ずっと、附属の連中が護送任務をどうやって戦地校外学習に変えるかを脳内で再生し続けることになると思うんだけど……」
真紀は私を見た。
「うん」
「だったら先に高台に行って、頭の中で流れてるダンジョンBGMを少し下げてから帰ったほうがよくない?」
彼女の目は静かで、最初から私がそう言うと分かっていたみたいだった。
「いいよ」
「返事が早すぎない?」
「もともと、そのルートも込みで組んでる」
「そう」私は彼女を見た。「九島さんは最初から、今日私を素直に家に帰すつもりはなかったわけだ」
「効率のいい行程を消化してるだけ」
「そうやって曖昧なことを効率でラッピングするとき、良心痛まないの?」
真紀は無表情のまま答えた。
「痛まない」
いい。
実に彼女らしい。
そうして私たちはもう一度ヘルメットを被り、バイクに跨がり、エンジンをかけた。低く振動が立ち上がった瞬間、さっき雪風号の前で本筋に押しつぶされていた呼吸が、また少しずつリズムを取り戻していく感覚があった。
私は彼女を乗せて港区を出た。
プラチナブリッジ通り二十二番地へまっすぐ戻るのではなく。
港区の外周から街の夜へと切り込み、最初から明らかにただの補足ではなかった「高台視界の補足確認ルート」に沿って、山のほうへ向かった。
◇
港区を離れると、空はあっという間に夜へ滑り込んだ。
この街は夜になると、別の生き物になる。
昼は秩序。
夜は光。
そして光が多すぎる場所は、本来しまっておくべきだった感情まで、ついでに照らし出してしまいやすい。
外環道路に乗ったとき、両側のビルの壁面にはもうネオンがびっしり灯っていて、広告スクリーンと空中連絡橋、吊り下げ式の案内板、それから遠くの高架環状線が、濡れたように光る骨組みを一面に描き出していた。路面にはうっすら湿り気があって、雨というほどではないが、光を全部引き伸ばして流れる帯に変えるには十分で、街全体が夜に余計な演出を足しているみたいだった。
真紀は後ろに座っていて、港区へ向かったときよりも、少し自然な距離で寄っていた。
たぶん、もう本当に一緒に一区間走ったからだろう。
あるいは、さっき雪風号のような神経を締めつける現実から降りてきたばかりで、人は無意識に、少しは任務っぽくないものに手を伸ばしたくなるのかもしれない。
彼女の手は、最初のときみたいに探るように腰の横に置かれているだけじゃなく、もっとしっかりと私を支えていた。
抱きしめているわけじゃない。
でも、ただ何となく置いているだけでも、絶対になかった。
その力加減は、かなり微妙だった。
微妙すぎて、カーブに入るたび、車線を変えるたび、信号の前で少し減速するたびに、彼女がまだそこにいることを、はっきりと感じ取れるくらいに。
これは、まずかった。
一人で乗っているとき、注意力は路面に向く。
でも後ろに乗っているのが九島真紀で、しかもこんなふうに支えられていると、前を見ることに集中しながら、同時に、重心の変化のたびに少し近づいてくる彼女の呼吸を、何でもないふうに装ってやり過ごさなければならない。
ほとんど不可能任務だ。
高架外環線に入ると、前方の路面が右へ綺麗なロングカーブを描いた。街の灯りが視界の端から後ろへ流れ、ホイールの縁の冷たい青い光が、濡れたアスファルトに細い流線を落としていく。車体はまるで、最初からこういう夜の中で人をもう少し遠くまで連れていく方法を知っているみたいに、安定して走った。
真紀が不意に、耳元で口を開いた。
「午後より、走り方がずっとスムーズになったね」
風の音の中で、彼女の声はいつもより少し低く、ほとんど私の耳の後ろに落ちてくるみたいだった。
危うく、その場で心拍数を法定速度の外まで持っていくところだった。
「……お褒めいただきどうも」
「褒めてない。事実」
「最近、その"事実"ってやつで私を追い詰めるの、好きだよね」
「妳が逃げるのが好きだから」
私は二秒ほど、黙った。
「逃げてない」
「そう」
「戦術的撤退が得意なだけ」
真紀がごく軽く笑った。
その笑い声は風に細かく切り取られたけれど、それでも私の頭の中には、やけに長く残った。
ふと思った。今日、もし何かが本当に制御不能になっているとしたら、それは任務の難易度でも、附属の見学でもない。私のこの頭が、「後ろの人間が普通に話している」ことと、「一つの普通の文章に揺さぶられて分析能力を失いかけている」ことの境界線を、もうほとんど引けなくなっていることだ。
情けない。
でも認める。
私は、気になっている。ものすごく。
私たちはそのまま山のほうへ上がっていき、幹線を外れて、山を巻く道に入った。
ここは街の中よりずっと静かで、たまにすれ違う車のライト、遠くの高架橋にまだ灯る光の線、それから木々の隙間から染み込んでくる夜風くらいしかない。バイクは坂道を安定して登っていき、街の灯りの海は少しずつ後ろへ流れ落ちていった。誰かが根気よく、昼間私たちに残していった現実を、少し遠くへ押しやってくれているみたいに。
正直、雪風号と附属情報の二連撃を受けたあと、今夜は帰り道ずっと『任務中に未成年という変数が追加されたときの対処マニュアル』を暗唱し続ける羽目になると思っていた。
そうはならなかった。
山道には、そういう恐ろしいところがある。
本当に気に入っているバイクに乗って、本当に気になっている人を後ろに乗せて、港区の風の中から高いところへ向かって走っていくとき。街も、湾も、橋も、灯りも、鉄も、夜も、全部が下のほうへ広がっていくとき。さっきまであれほど騒がしかったものが、一度だけ静かになってくれる。
任務は消えていない。
面倒事も、そのままそこにある。
でも、一歩だけ、道を譲ってくれた。
残るのは、エンジンの低い唸りと、夜風と、後ろの重みと、恥ずかしいくらい過熱した自分の心拍だけだ。
最後の区間は少し道幅が狭くなって、両側に木が立ち、前方に目立たない小さな展望用の駐車スペースが見えた。ガードレールの向こうは、街全体の夜景だ。
私はゆっくりとバイクを空いたスペースに入れて、エンジンを切った。
エンジン音が止まった瞬間、世界がふっと静かになった。
完全な無音ではない。移動が終わり、すべての振動が地面に落ちたときにしか聞こえてこない種類の静けさだった。遠くの街はまだ灯りに満ちているし、港区もまだ動いているし、橋の上には車の流れが続いているし、湾の縁にもたぶん、見えない人影と機械の音がまだあるのだろう。でも、それらすべてが、ここからだとずいぶん遠かった。
身近に残っているのは、もう私たちのここだけだった。
私はヘルメットを外した。夜風がすぐに押し寄せてきて、走っているあいだ中こもっていた熱を、一気に散らしていった。
真紀もヘルメットを外した。
彼女はそれを腕に抱え、黒髪が肩の後ろからさらりと滑り落ちる。風が吹くと、ふわりと後ろへ揺れた。道端に小さな古い外灯が一つ、暖かい黄色の光を彼女の横顔に落としていて、背後に広がる冷たい色調の街全体と、非常に危険なコントラストを描いていた。
私は一瞬、夜景を先に見るべきか、彼女を先に見るべきか、本気で迷ってしまった。
馬鹿げている。
でも、本当のことだ。
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