66. お手上げ状態 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「車選び」を「デート」の方向に考え始めると、現場の全ての細部が、どんどん怪しくなってくるからだ。
たとえば、彼女が私の好きなフロントのラインを覚えていること。
たとえば、私が本当は派手にしたいわけじゃなくて、ただ「尊厳のない通勤用の鉄の箱」には乗りたくないだけだということを、彼女が知っていること。
たとえば、予算を計算するとき、私の将来の整備コストまで一緒に計算に入れていること。
そして、普段あまり多くを語らない彼女が今日はやけに丁寧に話していること。まるで、私があとで後悔しないように。
ぼんやりしながら、私は彼女に続いて展示区のさらに奥へ進んだ。
そこに、黒藍色の新車が一台停まっていた。中古区のものより線がすっきりしていて、法律に去勢された後もまだ通勤車になりきれていない野獣みたいな外観だった。
近づこうとしたとき、足元の整備用の細い配管が走道を横切っているのに気づかなかった。意識の半分が車で、もう半分が真紀のほうにあったから、危うく踏み外しそうになった。
真紀のほうが先に気づいた。
何も言わなかった。ただ半歩前に出るついでに、ごく自然に手を伸ばして、私の手を取った。
手首じゃない。力任せでもない。
ただ、私が次の瞬間に踏み外しそうだから、という感じで、私の手を掌に収めて、その配管を一緒に跨がせてくれた。
動作が流れるように自然すぎて、彼女自身も、やり終えた瞬間にはまだ、今回は手首じゃなくて手を取ったことに気づいていなかったんじゃないかと思う。
……二度目だ。
最初は外で人が多いときで、彼女が「危ない」と言って、私が反射で握り返した。あのときはまだ、私の一時的な頭の誤作動として処理できた。
今回は違う。
今回は、彼女が先だった。
しかも、ひどく自然に。まるで最初からそうしていい、と思っていたみたいに。
頭が、半拍空白になった。
真紀もたぶん、同じだったと思う。
配管を跨いだあと、彼女はすぐに手を離さなかった。次の瞬間、何かに気づいたみたいに指先がわずかに動いたが、それでも本当には離さなかった。
その数秒が、やたらと長かった。
長すぎて、彼女の掌の温度と、指の腹が触れてくる力加減と、さっきより彼女が少し静かになったことまで、私には聞き取れた。
最終的に先に口を開いたのは、彼女だった。
「ここ、床に配管が多いから。」
「……うん。」
「歩くとき、車だけ見ないで。」
「……ああ。」
結構だ。
その言葉は、語義的には完全に正しい。
でも正しいからといって、何もなかったことにはならない。
彼女が手を離してから、私はひどく使い物にならない状態に入った。目は車を見ているのに、頭の半分がさっきの瞬間から抜け出せない。
結果、続く十分間はひどいものだった。
彼女がバッテリーのサイクルと展示割引の幅について説明しているのに、私が覚えているのは、彼女が最初に私の指に触れたのか、それとも先に掌を包んだのか、そっちだけだった。
彼女の隣で価格表を見ているのに、視線が勝手に彼女の手のほうへ流れていく。彼女がちょうどこちらを見た瞬間に、慌ててホイールのリムを研究しているふりをする。
真紀もたぶん、私よりましじゃなかった。
彼女はそのあと年式を一度言い間違えて、珍しく半秒止まってから訂正した。平常の彼女にとって、こういう凡ミスは、戦術地図の左右を逆に読むのと同じくらい起きないはずのことだ。
つまり、二人とも、まともに車を見られていなかった。
みっともない。
でも、本当のことだった。
最後に私たちを救ったのは、経理担当のマネージャーだった。
感情的な意味じゃなく、手続き的な意味で。
「必要な際にお声がけください」と言っていたはずのマネージャーが、いつの間にか情報を掴んで、完全な資料を持って自分で歩いてきた。笑顔が非常に標準的で、標準的すぎて頭皮がじわりとした。
「九島様、こちらの車両にご興味がおありでしたら、特別な条件をご提案できます。」
「特別な条件」という言葉を聞いた瞬間、私の警戒心が立ち上がった。
真紀の表情からも、さっきのわずかな乱れが消えて、冷静を通り越してほとんど職業的な顔に戻った。
「まず内容を。」
マネージャーはすぐに資料パネルを広げた。
それまで私たちが見ていたのは中古と展示整備の車だったが、彼が出してきたのは、ほぼ新品の黒藍色の一台だった。最新世代ではないが、私が本来手を出せるレベルをはっきりと超えている。型番は私たちが絞り込んでいた路線に近く、車体は安定していて、外観は抑えが効いていて、装備はすっきりしている。そして何より、価格が、数字を一桁見落としたんじゃないかと疑いたくなるくらい抑えられていた。
「こちらは在庫調整品でして。」マネージャーは微笑んだ。「九島――」
「私のためじゃない。」真紀が直接遮った。
マネージャーは一拍止まり、すぐに言い直した。「星野様がご入用でしたら、さらにご相談に応じられます。」
ここまで聞けば、もう十分だった。
これは普通の値引きじゃない。
おこぼれ価格だ。
しかも、「これ、本当に合法ですか」と確認したくなるくらいのおこぼれだ。
口を開こうとしたとき、マネージャーが次の一手を出した。
「九島様がご承認いただければ、こちらを個人贈与として処理することも、可能でございます。」
私は自分の息で危うく詰まりそうになった。
……贈与?
値引きじゃない。人情の借りというコンクリートに、私を頭から突っ込もうとしている。
反応する前に、真紀がもう口を開いていた。
しかも速かった。こういう場面を何度も経験してきた人間の速さで。
「駄目。」
マネージャーが目を丸くした。
真紀は私の半歩前に出て、声は大きくなかったが、一語一語がはっきりしていた。
「私が乗るなら、タダでもらっても構わない。」彼女は言った。「でも今日は星野のために来ている。九島の借りにはできない。」
私は隣に立ったまま、胸の奥を何かに突かれたような感覚を覚えた。
「不便だから」でも「規則に合わないから」でも「彼女が受け取らないから」でもなかった。
彼女が言ったのは、私のことを考えているから、だった。
もし今日が彼女自身のことなら、一族のシステムの中にある資源を使うのは、彼女にとって日常に過ぎない。でも相手が私なら、そうじゃないことを彼女はわかっている。あれは贈り物じゃなく、荷物だ。長く身体に貼りついて離れないものだ。
だから彼女は、私の代わりに、きれいに、迷いなく、それを跳ね返した。
「わかりました、私の配慮が足りませんでした。」マネージャーはすぐに頭を下げた。
「合理的な優遇はいい。」真紀は言った。「無料は駄目。人情の名目も一切つけない。彼女は通常の購入で、通常の支払いで、通常の手続きで。」
「承知いたしました。」
最終的に、その車は私の手に渡った。
ただし、真紀が強引に「人間として受け入れられる範囲」まで引き戻した形で。無料でも、施しでも、九島の網に私を付属品として組み込む形でもなく、「これは本当に合法なのか」と何度も確認したくなるくらいの超優遇価格での成立だった。
つまり、私はおこぼれを受けた。
しかも、かなり大きなおこぼれを。
でも少なくとも、そのおこぼれは、持てないくらい熱くはなかった。
書類が全部揃って、価格を何度も確認して、今日は宝くじでも買うべき運勢なんじゃないかと思い始めた頃には、真紀はすでに保険、納車日程、ナンバー登録の細かい点まで全部マネージャーと話し終えていた。
隣で彼女がマネージャーと話しているのを見ながら、私はふと思った。
本当に、そっくりだ。
二人だけが知っていて、でも両方ともまだ認めていない何かに、あまりにもそっくりだ。
他の人たちはショッピングで服を買い、私たちは港のそばで車を買う。
他の人たちは手を繋いでスイーツ店に行き、私たちは整備用の配管を跨ぐために手を繋ぐ。
他の人たちは夕飯の話をし、私たちは車の値段と保険と、九島家に車を一台もらっていいかどうかの話をする。
馬鹿げている。
でも、馬鹿げ方が、私たちらしい。
* * *
展示センターを出たとき、外の光景が、ぐちゃぐちゃになっていた気分を現実に引き戻した。
ドアを開けると、外に停まっていたのは一台じゃなかった。
普通の送迎車でもなく、「企業的で、港区的で、お偉い方の関係者が来たので存在感を示しに来ました」という雰囲気の車が、何台も連なっていた。
外に立っている人間も多かった。
スーツの人間、セットアップの人間、識別証をつけた人間、笑顔が完璧すぎる人間、姿勢が良すぎる人間、顔には疲れが滲んでいるのに無理やり熱意を搾り出している人間。
いくつかの名前が、遠くから聞こえてきた。
九島地所。
九島商事。
九島銀行。
それから、どこかの港務連絡部門。
真紀が出てくるのを見た瞬間、彼らの表情はほぼ同時に、一段明るくなった。
その明るさは、喜びじゃない。反射だ。権力の匂いを嗅いだ瞬間、顔全体が自動的に「どうか私もあなたの視野の中に入れてください」モードに切り替わる、そういう明るさだ。
挨拶に来る人間がいた。
名刺を差し出す人間がいた。
今すぐ自分を投資報告書に折り畳んで差し出したいみたいな笑顔の人間もいた。
港区の接続と夜の会食まで手配しようとしている人間までいた。
私は真紀の隣に立ちながら、その一列を見て、胃の中がじわりと気持ち悪くなった。
彼らが金持ちだからじゃない。有能だからでもない。
あの顔が、揃いすぎているからだ。
揃いすぎていて、目の前のこの人たちが、真紀という人間に対して好意を示しているのか、彼女の背後にある巨大な九島の網に向かって頭を下げているのか、もう区別がつかない。
私は初めて、肉眼で理解した。九島という二文字だけで、企業の連鎖が自分から走り出て整列する、それがどういうことかを。
誇張でも何でもなかった。
ただ、見苦しかった。
私は思わず眉をひそめた。
真紀は気づいたらしく、ちらりと私を横目で見てから、ほとんど間を置かずに半歩前に出て、全員の視線を少しだけ遮った。
「今日はここまで。」彼女の声は静かだった。「公務でも視察でもない。車の件は済んだ。追加の対応は必要ない。」
その場がすっと静まった。
まだ何か言いたそうな人間がいたが、真紀は余分な愛想を一切与えなかった。
「道を開けて。」
たった四文字。
それまでの店内の会話全部より、ずっと重かった。
人の群れが、本当に割れた。
私は隣に立ちながら、はっきりと気づいた。
彼女はこの網の中で育ち、この網の使い方も知っている。
でも同時に、私が何を嫌がるか、何に気持ち悪くなるかも知っている。だから私の前では、そういうものをできるだけ遮ろうとする。
この気づきは、さっきの「今日は星野のために来ている」という一言よりも、さらに無防備なところに届いた。
真紀がこちらを向いた。
「行く?」
私は二秒ほど彼女を見てから、喉の奥の詰まった感じをどうにか押し込んだ。
「……行こう。」
「港区のほうに行けば、今ならまだ雪風号の外周が見えるはず。」
彼女はごく自然に、そう言った。
次の行程を、ただ続けるみたいに。
でも私には聞こえた。それは彼女が、さっきの気持ち悪い顔の群れも、過剰なくらい完結した九島の企業連鎖も、あの恭しい視線も、全部一歩後ろへ押しやって、今日を私たち二人のペースに戻そうとしている言葉だった。
だから私はついていった。
新車の納車書類はまだ手の中にある。でも頭の中には、もっと面倒なことが引っかかっていた。さっき彼女が自然に私の手を引いたあの動作は、本当にただの反射だったのか。それとも彼女も私と同じで、今日をもう、うまく言葉にできない何かとして受け取り始めているのか。
この問いは、面倒だ。
そして、これからもずっと面倒であり続けるだろうということも、私にはわかっていた。
少なくとも今、私がこの手で握っているものは、体系でも、資本でも、港区でも、誰かの権力の延長線でもない。
* * *
ドアを押し開けると、まず鼻に届いたのは、ひどく清潔な匂いだった。
安物の芳香剤で無理やり作った甘い香りじゃない。新車と、金属と、革と、磨き上げられた床と、空調が一体になって維持している、「ここは金がかかっていて、金の使い方も心得ている」という匂いだ。
店内は広く、ガラス壁が港区側まで続いていて、遠くにクレーンと物流ラインの骨格が見えた。照明が車体一台一台に当たり、どれもコマーシャル撮影前みたいに磨き上げられている。清潔で、冷たくて、高価で、空気そのものが「ただの冷やかしなら、自重してください」と言っているようだった。
隣を歩く九島真紀は、控えめで知的な服装をして、顔にはいつもの、「ただ友人の普通の中古車探しに付き合っているだけ」という平静な表情を保っていた。
受付のスタッフが顔を上げるまでは。
相手の、非常に職業的に完成された笑顔は、真紀を認識した次の瞬間、微妙に変わった。
顔なじみに対する慣れた笑みじゃない。
もっと深い、無意識の引き締まりと恭しさを含んだ変化だった。
「いらっしゃいませ、九島様。」
私は隣で、その一声に危うく魂を持っていかれた。
彼女が九島だということを知らなかったわけじゃない。
その呼び方に、「たまたま知っている」という成分が一切なかったからだ。それは非常に標準的で、事情に通じていて、自分が今誰を前にしているかを完全に理解している口調だった。まるで、車を見に来た一学生に対応しているのではなく、決して怠ってはいけないシステム権限に対応しているみたいに。
私は反射的に真紀のほうを見た。
彼女はいたって平静で、ただごく軽くうなずいた。
「まず私たちだけで見ます。必要な時にお声がけします。」
「はい、承知いたしました。」受付は即座に応じ、半歩ほど脇に下がった。「マネージャーはすでにご来店を存じておりまして、もし何かご入り用でしたら――」
「先に知らせなくていいです。」真紀の口調は淡々としていた。「今日は、私の用事じゃないので。」
その一言は、軽く聞こえて、実際にはかなりの殺傷力があった。
今日は、私の用事じゃない。
つまり彼女はここにいる、その影響力もここにある。それでも彼女は、この件全体を「これは星野の用事だ」という枠に押し戻しているのだ。隣で聞いているだけの私にも、その一言のどうしようもない温かさが伝わってきた。
受付のスタッフも、はっきりと理解したようだった。視線がすぐに私のほうへ移り、笑顔が通常のサービスモードに戻る。
「かしこまりました。それでは、お二人でごゆっくりご覧ください。車両の状態、整備記録、価格の詳細など、ご確認になりたい際は、いつでもお申し付けください。」
お二人で。
結構だ。
ますます、それっぽくなってきた。
私は「たかが呼び方一つで浮かれるな」と心の中で自分を戒めながら、それでも視線の端で真紀の横顔を盗み見るのをやめられなかった。
彼女はこの一件をまったく気にしていない様子で、そのまま展示エリアの奥へと歩いていった。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




