64. 不穏な空気 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
鉑橋街二十二番に戻ると、一階のリビングの灯りがついていた。
行方不明者の帰還を待っているみたいに、家じゅうをこれでもかと照らしているわけでもないし、「帰ろうが帰るまいが知ったことか」と言いたげに、玄関灯だけぽつんと点けているわけでもない。リビングのメインライトが半分だけ点いていて、ダイニングテーブルの上のブラケットライトも柔らかく光っている。資料を広げて、冷めた紅茶を飲みながら、「たまたまここに座っているだけで、決して誰かの家出を待っているわけではない」と装うには、ちょうどいい明るさだった。
ドアを押し開けると、靴底が玄関の床をかすめて、小さな擦れる音がした。リビングには誰もいない。いるのは、戦区の停戦交渉でも開けそうなあの大きなテーブルの端に座っている真紀だけ。目の前には午後に彼女が書き直したあの購入予算表が広がっていて、その脇には、もう湯気の上がらない紅茶のカップ。
彼女は音に気づき、顔を上げて、私を一度だけ見た。
本当に、一度だけ。
駆け寄ってくることも、「どこ行ってたの」と問い詰めることも、自分では成熟しているつもりの、実際はただ鬱陶しいだけの心配顔を作ることもない。ただひと目だけ私を見て、視線を私の顔に半秒だけ止め、私が死んでもおらず、怪我もしておらず、鉑橋街のどこかの街路樹の下に自分を埋めるつもりもないことを確認してから、ペンを置いた。
「おかえり。」
まるで、私がちょっとコンビニに水を買いに行っていただけみたいな、平静な口調だった。
私は靴を蹴って下駄箱の下に押し込み、「うん」と返事をした。
「ただいま。」
それから、空気が二秒ほど静まった。
この二秒の間、私ははっきりと感じていた。彼女は私が先に口を開くのを待っていて、私は「このまま最後までシラを切るかどうか」を考えている。二人で地雷原の縁に立っていて、前に何が埋まっているかは互いにわかっているのに、誰も最初の一歩を出したくない、そんな感じだった。
結局、先に折れたのは私だった。
私のほうが大人だからじゃない。
外をひと回りする間に、ついでに隣の元帥ご夫妻に誤配の手紙を届けてしまったせいで、腹立たしさはもうかなり抜けていたからだ。人間、わけのわからない拗ねモードから普通モードに戻り始めると、午後の「絶対に話さないマン」ムーブが、中学生の意地みたいに見えてくる。
みっともない。
私はバッグをソファの横に置いて、リビングに入り、彼女の前の冷めた紅茶を二秒ほど見つめた。
「待ってた?」
「ううん。」返事は早かった。
「ふうん。」
「たまたま、ここに座ってただけ。」
「たまたまメインライトもブラケットライトも点けて、たまたま午後に揉めたあの表を目の前に置いて?」
彼女は一瞬だけ黙った。
「……本当は、あなたが戻ってきたら、この表を片づけようと思ってた。」
「じゃあ、片づけなよ。」
「もう戻ってきたから。」
「……」
うん、はい、そうですか。
この女が意地を張るときは、声を荒らげたりしない。代わりに、言葉の一つ一つをきっちり並べて、こっちに自分で壁にぶつかりに行かせる。非常に高等で、非常に腹が立つ。
私は彼女の向かいの椅子を引いて座った。椅子の脚が床を引っかいて、あまり上品ではない音を立てる。彼女は私を一瞥して、何か言いたげだったが、結局その紙を少し脇にずらしただけだった。
「晩ごはん、一人分残してある。」彼女は言った。「保温器の中に。」
「外でちょっとつまんできた。」
「隣から?」
私は顔を上げた。
彼女の表情は相変わらず何も語らなかったが、視線はすでに、私が手にしている小さな紙袋を一度なぞっていた。中には、隣の奥さんが「手紙を届けてもらったのに手ぶらで帰すわけにはいかない」と半ば強引に持たせてくれたクッキーが二枚入っている。
私はその紙袋をテーブルに置いた。
「あんた、監視カメラでも隣まで繋いでるわけ?」
「気分が底まで落ちてるときは、普通、何かを持って帰ってくるなんて発想にはならない。」彼女は言った。「だから、道に迷ったか、誰かに会ったか、そのどっちか。」
私は椅子の背にもたれ、思わず笑った。
「あんたのその判読ロジック、時々、犯罪心理学の期末試験の模範解答みたいなんだけど。」
彼女はその言葉には乗らず、視線をテーブルに落とし、少し間を置いてから、ごく静かに口を開いた。
「午後のあの一言、ごめん。」
紙袋に手を伸ばそうとしていた私は、その言葉を聞いて動きを止めた。
真紀の言葉はいつも簡潔だ。謝罪を五ページの報告書みたいに引き伸ばすタイプでもないし、宥めるために後悔を過剰に演じるタイプでもない。彼女が謝るのは、本当にそれを自分の落ち度だと思っているからで、「ただ訊いてみただけ」と責任を逃がすつもりもない、その証拠だ。
そうなると、こっちは怒ったふりを続けるほうが、むしろ芝居くさくなる。
私はテーブルの木目を見つめ、しばらくしてから言った。
「あんたは知らなかったんだから。」
「知らなかったからって、訊いていい理由にはならない。」
「あれは、そこまで訊きすぎたってわけでもないよ。」私は口の端を引いた。「厳密に言えば、あんたが口にしたのはたった五文字だし。」
彼女は私を見て、黙っていた。
わかっている。彼女は、私がどこまで話す気があるのかを待っているだけだ。急かすんじゃなく、ただ待つ。こういう人間がいちばん厄介なのはここで、選択肢を丸ごとこっちに渡してくるから、かえって知らんふりが難しくなる。
私は自分の指先を見下ろした。関節に人生の答えでも書いてあるかどうか、確かめるみたいに。
「……借金が、嫌いなんだ。」
「うん。」
「普通に嫌いなんじゃなくて。聞くだけで苛々するし、契約書が目に入っただけで燃やしたくなるくらい、嫌い。」
「うん。」
「『うん』しか言わないの、やめてくれる?供述調書でも取られてるみたいなんだけど。」
「じゃあ、今、何て言えばいい?」彼女は静かに訊いた。
私は少し詰まった。
くそ、その切り返し方は正しすぎる。
顔を上げると、彼女に問い詰める気配なんて微塵もないことがわかった。ただ、どういう聞き方をすれば私をこれ以上不機嫌にさせずに済むか、真剣に考えているだけだった。
私は息を吐いて、自分から続けた。
「うちは昔……ろくでもない借金が残ってたんだ。」
その言葉が口から出た瞬間、今日はもう禁を破ったな、と自分でわかった。
こういうことを、こんなに平坦な声で語ることはめったにない。他人の話でもしているみたいに平坦で、使う言葉さえきれいに保っておけば、それが二度と自分に跳ね返ってこないとでも思い込んでいるような、そんな平坦さだった。
「努力とか、バイトとか、飲み物を何杯か我慢するとかで埋まる数字じゃない。大勢の大人が目の前に立って、すごく専門的で、すごく丁寧で、そして、すごく人間味のない顔をして、私を次にどこへ送るべきか話し合う、そういうろくでもない借金。」
リビングは静かだった。
庭の外で、風が木の葉を揺らして通り過ぎる音が聞こえるくらいに。
私は口の端を薄く歪めて笑った。ほとんど形だけの笑みだった。
「だから、午後にあんたがローンって言った瞬間、頭に浮かんでたのは車じゃなくて、あの人たちのことだった。」私は言った。「あの書類、あの署名欄、他人の人生を勝手に手配するのが仕事みたいな、あの口調。」
真紀の手が、テーブルの端に置かれたまま、ゆっくりと、わずかに握り込まれた。
はっきりした動きじゃない。ずっと見ていなければ、たぶん気づかなかった。
彼女は低い声で言った。「……ごめん。」
さっきよりも、もっと小さな声だった。
私は指で眉間を揉んだ。
「今日は、その『ごめん』を一年分くらい使い切るつもり?」
「効くなら、いくらでも。」
「そんなに効かないよ。」私は彼女を見た。「それに、あんたを責めてるわけじゃない。私はただ……」
ただ、何?
自分がまだこんな言葉に刺されるなんて、思っていなかっただけ。あんたにこういう自分を見られたのが嫌なだけ。あんたに腹を立てるより、あの過去をまだ処理しきれていない自分自身のほうに、ずっと腹が立っているだけ。
私は二秒ほど黙って、いちばん見苦しくない言い方を選んだ。
「……ちょっと、格好悪かっただけ。」
真紀は私を見た。壁のライトの下で、その目は過剰なくらい静かだった。
それから、彼女は言った。
「格好悪くなんて、なかった。」
私は笑った。
「その慰め方、ちょっと硬いよ。」
「慰めてるんじゃない。」彼女の声は相変わらず落ち着いていた。「本当のことを言ってるだけ。古傷を踏まれて反応するのは、格好悪くなんかない。何もなかったふりをするほうが、よっぽど格好悪い。」
言葉が、喉の奥で止まった。
この女は普段、言葉数がひどく少ないくせに、いざ本気で口を開くと、妙に骨に響くところばかり正確に殴ってくる。飾りも糖衣もなく、ただ一つの事実をテーブルの上に置いて、こっちにそれを認めさせる。
私は顔をそらして、窓の外を見た。
「今日のその一言は、わりとひどい。」
「事実だから。」
「……」
「それに、」彼女は少し間を置いた。言葉を選ぶみたいに。「あなたが出て行ったあと、考えてた。最近、私はあなたの計画を立てたり、手順を整理したりするのに慣れすぎて、気づかないうちに『できるかどうか』まで一緒に決めてしまってたんじゃないかって。」
私は彼女のほうを向いた。
彼女は目を伏せて、指先で予算表の端を押さえていた。
「私にはその資格がない。」彼女は言った。「特に、お金に関わることでは。」
その一言に、今度は私のほうがぽかんとした。
なぜならそれは、単なる謝罪には聞こえなかったから。どちらかと言えば――彼女自身にも、あえて口にしない境界線があるような響きだった。
私は数秒、彼女を見つめた。
「九島家も、ほのぼの金銭教育の模範家庭ってわけじゃないんだ?」
彼女は目を上げ、淡々とした表情で私を見た。
「どう思う?」
ああ、わかった。
これ以上、細かく聞く必要はない。
九島みたいな家は、たぶん子供の頃から「身の丈に合わせる」なんて教わらない。教わるのは「資金、名義、流れ、代償」のほうだろう。私は借金に追われ、噛みつかれながら育った。彼女のほうはたぶん、金がどうやって権力に変わり、その権力がどうやって人の上に圧しかかっていくかを見ながら育ったんだ。
向いている方向は違っても、嫌いなものは、案外似ているのかもしれない。
どうりで、午後あんなに早く手を引いたわけだ。
単に頭がいいからじゃない。彼女もたぶん知っているのだ。ある種の言葉は、触れた瞬間にもう、ただの一言では済まなくなるということを。
私は手を伸ばして、彼女が押さえていた予算表を抜き取り、もう一度目を通した。
「で、今のプランはどうなったわけ?」私は訊いた。
いきなり本題に戻ってくるとは思っていなかったらしく、彼女は半拍置いてから答えた。
「一括で払える範囲の中古民間仕様車だけを見る。資金源は、あなたの貯金と長期休暇の補助の差額、それから今後の実習の合法的な手当。学院の名義には触れない、生徒会の決裁ルートも通さない、ローンには一切手を出さない。」
「駐輪は二十二番。校内には入れない?」
「ええ。」
「名目は通勤、買い出し、港区との往復?」
「それに、校外居住期間中の必要な機動力。」彼女は言った。「退屈であればあるほどいい。生徒会が見ても、二ページ目をめくる気も起きないくらいがベスト。」
私はうなずいた。
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