64. 不穏な空気 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
長期休暇二日目の朝。鉑橋街二十二番の一階にあるダイニングテーブルは、九島真紀によって完全に軍事化されていた。
十一人が座れるあの馬鹿でかいテーブルの存在意義は、てっきり私たちみたいな連中が、よくある青春ライトノベルの登場人物みたいに囲んで座り、朝ごはんを食べたり、牛乳を飲んだり、「誰だよ、私のプリン食ったの」とツッコミを入れ合うためのものだと思っていた。
実際の用途は――
講義資料を広げ、タブレットを置き、計算用紙を並べ、スケジュール表を作成し、そして九島真紀本人が私の向かいに座って、「今日中にあなたの頭を合格ラインまで叩き直せなかったら、九島の名を名乗らない」と言わんばかりの冷たい顔で、私を補習することだった。
私はペンを噛みながら、彼女が整理してくれた計画表を眺めた。
字は、いやになるほどきっちりしている。
免許取得の進捗、学科の補強、シミュレーターの利用枠、実地試験の申請、車両購入の実現性、用途の分類、想定月間支出、駐輪場所、そして校内の管理をすり抜ける方法――私がただ「車でもあれば便利なんだけどな」と口でぼやいただけの話を、彼女は二十分足らずで、いっぱしの「目立たない車両購入計画」に育て上げてしまった。
この女、もし将来クーデターの参謀に転職しても、たぶん相当いい仕事をするだろう。
私はその表をじっと見て、たまらず言った。
「あんた、手際が良すぎない?」
「変数を整理しただけ。」真紀は顔も上げず、指先でタブレットを二度軽く叩いた。「今のあなたの一番の問題は、買うかどうかじゃない。買ったあとで、それを誰も気にも留めないくらい退屈な日用品に見せられるかどうか、よ。」
「……悲しいけど、筋は通ってる。」
彼女は短く「うん」と言って、その紙を少し私のほうへ押し寄せた。
「予算は、あなたの貯金と長期休暇中の補助の差額を合わせれば、基本的に中古の民間仕様車には手が届く。展示上がりの整備済み車なら、もう少し条件のいいものも選べる。」
私はその数字を見下ろし、頭の中で静かに計算し直した。
少し足りない。
大きく足りないわけじゃない。でも、確かにほんの少し足りない。テストで二点足りないような、バスに十秒差で乗り遅れるような、人生がいつも私の一歩手前でわざと意地悪く止まるような、そういう足りなさだ。
真紀も当然、同じ数字を見ていた。
彼女の視線が数字の上で止まり、一秒だけ黙った。それから、ごく自然な調子で訊いた。
「足りない分は、ローンにする?」
その瞬間、手の中のペンは落ちなかった。
机を叩くこともしなかったし、立ち上がることもしなかった。安っぽいドラマみたいに「あんたに何がわかるの」と怒鳴ることもしなかった。
ただ、止まった。
短く、ひどく静かに、止まった。
誰かが背後から、細い氷の針を一本、すっと脊髄に刺し込んだみたいだった。
ペン先が紙に押しつけられ、黒い点が滲んだ。
その点を見つめながら、急に呼吸の通り道が詰まった気がした。
ローン。
たいした言葉だ。
たった三文字で、ダイニングテーブルも、講義資料も、朝の光も、朝食の匂いも、この馬鹿でかい二十二番の家も、ぜんぶ一気に、私が二度と戻りたくないあの場所へ引きずり戻してしまう。
両親が死んだあと、後始末に来た大人たちはいろんな言葉を置いていった。
ご愁傷様。
手続き。
保険。
資産。
清算。
債務。
連絡先。
未成年。
保護施設。
どの言葉も、ひとつとして好きじゃなかった。
その中でも、特に気持ち悪い部類に入る言葉の一つが、ローンだ。
私はゆっくりとペンを置いた。動作は落ち着いていて、自分の手じゃないみたいだった。
「……それには、手を出さない。」
声は大きくなかった。むしろ、平坦すぎるくらい平坦だった。
でも、その平坦さは、凍りついているみたいだった。
真紀が目を上げて、私を一度だけ見た。
それだけで、彼女は自分が何を踏んだのか悟ったはずだ。
追及はしなかった。
「なんで」とも聞かなかったし、「ちょっと訊いてみただけ」とも言わなかった。
彼女はただ、外に出してはいけない何かの蓋を、そっと閉じ直すみたいに、自分のタブレットを静かに伏せた。
「わかった。」
それだけだった。
それから、彼女は予算表を手元に引き寄せ、ペンを取って、その項目を一本の線で消した。
「じゃあ、この手は使わない。」彼女の声は、事務的なくらい落ち着いていた。「一括で払える範囲の車だけを見る。時間がかかっても構わない。」
私はペン先の動きを見つめながら、喉が少し渇いていることに気づいた。
彼女は私を見ず、そのまま書き続けた。
「予算が足りないなら、最初から性能の高いものは選ばない。安全に通学できて、人を乗せられて、少量の物資が運べるものを優先する。残りは、実習の補助金が出てから考えればいい。」
私は何も言わなかった。
彼女も、答えを急かさなかった。
これこそが、九島真紀のいちばん恐ろしいところだ。
彼女は、相手を壁際まで追い詰めて全部言わせようとするタイプじゃない。どこかがひび割れているのを見つけても、すぐに手を突っ込んでこじ開けようとはしない。まずはそこに布を被せて、見なかったふりをして、相手が自分から話す気になるまで待つ。
そういう気遣いは、本当にタチが悪い。
だって、こっちは怒る口実すら、奪われてしまうから。
その後の一時間、私たちは結局、勉強をちゃんと終わらせた。
彼女が問題を解説し、私がノートを取る。何事もなかったみたいな顔で、「港区の交通ノード」「艦艇外周補給動線」「臨時通行許可規則」を、昼まで読み続けた。
ただ、私はその間、一度も彼女の顔を見上げなかった。
そして彼女も、二度とあの言葉を口にしなかった。
* * *
昼を過ぎてから、私は癇癪を起こしていた。ただ、それを認めるのは自分に対してだけ、しかも半分だけだった。
正直に言えば、真紀に怒っているわけじゃない。
少なくとも、全部がそうじゃない。
わざとじゃないのはわかっている。踏んだと気づいた次の瞬間には、もう手を引いていた。医療用の止血クリップより早く。
本当に腹が立っているのは、自分がまだあんな言葉ひとつに揺さぶられていることのほうだ。
情けない。
何年もかけて、「大丈夫、私は普通だし、ちゃんとやっていける」という外殻を、どうにか作り上げてきたあとだからこそ、なおさら。
だから昼食を終えたあと、私は誰とも口を利かなかった。
わざと真紀を無視したわけじゃない。ただ、引っ込みがつかなくなっただけだ。
あの場で彼女の向かいに座り直したら、たぶん私は、自分の爪で自分を引っ掻いたばかりの間抜けな猫みたいに、平気なふりをしながら全身の毛を逆立てているだけだろう。
馬鹿らしい。
だから、いっそ外に出た。
鉑橋街のこの一帯は、私たちみたいな連中が住んでいい場所とは思えないくらい静かだ。道は広く、木陰が多く、建ち並ぶ家々はどれもこれも死んだふりが上手い。表向きはひっそりとしているが、骨の髄まで「うちは高いぞ。でも、わざわざそれを言う義理はない」という顔をしている。
私は目的もなく、あたりを一回りした。
頭の中に溜まった、行き場のない鬱憤を散らしたかっただけだったが、二十二番の前に戻ってきたとき、郵便受けの蓋がきちんと閉まっていないのが目に入った。
今どき紙の手紙を送る人間がいるというだけで、博物館で生きた恐竜を見るようなものだ。
ついでに蓋を押し込もうとして、中に一通の封筒が引っかかっているのに気づいた。
本当に、紙の手紙だった。
生成り色の封筒は角がぴしっと揃っていて、安っぽい官製の規格品とは紙の厚みが違う。電子封印もなく、ICチップの標識もなく、「宇宙時代へようこそ」的な便利機能は一切ない。まるで誰かが骨董屋から旧地球時代の切れ端をちぎってきて、そのまま突っ込んだみたいだった。
封筒を引き抜き、宛先をちらりと見た。
鉑橋街二十四番。
隣だ。
「……郵便屋のおっさん、本物の手紙を配達するの、何年ぶりだよ。」
思わず笑いそうになった。
考えてみれば当然だ。この手のものは、一年に一度届くかどうかも怪しい。配達員も手元の感覚を忘れていたんだろう。二十二と二十四、たった二文字違うだけで、平気でうちのポストに突っ込んだに違いない。
そのまま戻して、手の空いている誰かに任せることもできた。
でも今日の私は、誰にも頼まれていないのに、やたら体力を食う拗ね方をしている最中だった。暇を持て余していたのもあって、手紙を持ったまま隣へ向かった。
二十四番は、二十二番よりもさらに静かに見えた。
死んだような静けさじゃない。人が住んでいて、人が手を入れていて、誰かが毎日ちゃんとここで暮らしている、そういう静けさだ。
表札の横に、金属のプレートが嵌め込まれている。
漢字一文字。
楊。
私は手元の封筒の表を、もう一度確認した。宛先に間違いはない。
よし、サブクエスト『宇宙時代の遅れた郵便システムの尻拭い』、正式発生。
インターホンを押そうとした私の視線が、その脇に書かれた一行に引っかかった。
油性ペンで、壁に直接書かれている。
字は決して丁寧とは言えない。むしろ、かなり殴り書きに近い。
でも、その内容には妙な迫力があった。
「政治家は押すな」
その場で吹き出しそうになった。
いや、なにこれ。
この家の住人は、一体どんな目に遭えば、自宅のインターホンの脇にこんな言葉を直書きする発想に至るんだ。しかも、「理屈をこねる気はない、とにかく警告だけしておく」という、一切の交渉を拒否した語気で。
容赦がなさすぎる。
笑いを噛み殺して、封筒を裏返した。
そこに書かれた宛名を見た。
楊元帥ご夫妻 様
その下に、差出人側がわざわざ書き添えたらしい肩書きが一行。
連邦元帥
私はその場で、黙って立ち尽くした。
……待って。
元帥?
企業が好んで名乗る「オペレーション元帥」だの「マーケティング元帥」だの「ヤング・イノベーション元帥・スター」だの、そういうふざけた肩書きの話じゃない。
あの元帥?
頭の中で、隣によくいる、揺り椅子に座って本を読んでいる、「もう引退したんだから放っておいてくれ」という顔の黒髪の老紳士と、封筒の文字を、無理やり結びつけてみる。
繋がった。
しかも、腹立たしいくらい、自然に繋がった。
私はそのインターホンをじっと見つめ、真顔で三秒ほど考え込んだ。
三秒あれば、人は人生を考え直すこともできるし、馬鹿がサブクエストを最後までやり切る決心をするのにも十分だ。
三秒目が終わると同時に、私はボタンを押した。
インターホンが「ピッ」と鳴って点灯する。
私は反射的に背筋を伸ばした。わけもわからず抜き打ち検査に呼ばれた新兵みたいに。
数秒後、中から女の人の声がした。
年齢は若くない。でもよく通る、時間に磨かれてかえって柔らかくなったような声だった。
「どちら様?」
私は咳払いを一つした。
「あの……すみません。隣の二十二番に住んでいる学生です。郵便が間違ってうちのポストに入っていたみたいで、お届けに来ました。」
インターホンの向こうが、一拍だけ静かになった。
それから、奥のほうで誰かが笑うのがはっきり聞こえた。
男の声だ。低くて、何かを最初からわかっていたみたいな笑い方だった。
続いて、さきほどの女性が穏やかに言った。「そういうことですか。少々お待ちくださいね。」
鍵の音がカチッと鳴った。
扉が細く開いた。
立っていたのは、この前遠目に一度だけ見かけた奥さんだった。金色の髪はきちんとまとめられていて、顔には年齢なりの皺が刻まれている。でも、その老い方はずるいくらい理不尽だった――衰えているんじゃない。美しさが、もっと静かな何かへと熟成しているのだ。
彼女は私の手元の封筒を見て、一瞬だけ目を瞬かせ、それから少し困ったように笑った。
「また間違えられたのね。」
「紙の手紙って、もうレアなんでしょうね。」私は封筒を差し出した。「配達の人の手つきも鈍るくらいには。」
彼女はその封筒を、壊れやすい古い品物でも扱うみたいに、そっと受け取った。
「本当にそうね。今どき手紙なんて書く人は、大抵すごく懐古趣味か、すごく頑固か、その両方だもの。」
家の中から、本のページをめくる音がした。
続いて、男の人がゆっくりと口を開いた。「両方、ということもある。」
私は思わず、室内を覗き込んだ。
庭のほう、揺り椅子に座った黒髪の男が本を伏せて、こちらに視線を向けていた。その目には押しつけがましい圧はない。むしろ、どこか気怠げでさえある。なのに不思議なことに、その視線を一度でも受けると、すぐにわかる――この人は若い頃、絶対にごまかしの利く相手じゃなかった、と。
彼は私を見てから、インターホンの脇の「政治家は押すな」という文字に目をやった。今の状況がよほどおかしいのか、口元を少しだけ動かした。
「押したのか?」
「押したわよ。」奥さんが振り返って、少し笑いを含んだ声で答える。
「じゃあ、政治家じゃないな。」
思わずむせそうになった。
なんだこの、コストほぼゼロで殺傷力だけ異様に高い審査システムは。
奥さんは、彼のこういう物言いに慣れているらしく、苦笑して小さく首を振ると、また私のほうを向いた。
「わざわざありがとう。あなた、二十二番に越してきた新しい子ね?」
「……新しい子。」
オウム返しにしてみて、自分が急に、この界隈に新しく引っ越してきた、やたらと鳴き声の大きい幼獣か何かに分類された気分になった。
「はい。つい最近、引っ越してきました。」
「これから、よろしくね。」彼女は微笑んだ。「たまにお菓子を焼くから、持っていったら、遠慮しないで受け取ってちょうだい。」
胸に最初に湧いたのは、感動でもお隣付き合いの緊張でもなかった。
――なるほど、アイダが言ってた「隣人はかなりいい人」って、このレベルの「いい人」のことだったわけだ。
いい人どころじゃない。これは、自分が何かの隠れた安全区に迷い込んだんじゃないかと疑うレベルだ。
私は会釈して礼を言い、帰る体勢に入った。
ところが、扉が閉まりかけたところで、揺り椅子のほうの男がふいに口を開いた。
「二十二番の子。」
私は反射で振り返った。
彼は立ち上がりもせず、相変わらず気だるげな姿勢のまま、肘掛けを指先でとんとんと叩きながら、ただ思い出したように言った。
「そっちの子たちが夜騒ぐなら、十時までに済ませておきなさい。」
私は「……」。
「十時を過ぎたら、うちのが休むから。」
私は「…………わかりました。」
彼は軽くうなずいた。それで十分だと言わんばかりに。
隣で奥さんが吹き出し、私に「ごめんなさいね」と言った。けれど、その顔はどう見ても、本気で申し訳なく思ってはいなかった。
扉が静かに閉まった。
私は二十四番の玄関先で、「政治家は押すな」の文字をしばらく眺め、それから堪えきれずに笑い出した。
朝から胸につかえていた重たい何かが、訳もなく、この誤配の手紙のおかげで半分くらいはがれ落ちた気がした。
人生なんてものは、時々、本当に意味がわからない。
さっきまで、たった一言で古傷をつつかれて、家に戻りたくもないくらい苛立っていたのに。気晴らしにぶらついただけのはずが、最後は隣家のインターホン脇で、「じゃあ、政治家じゃないな」という一言に、少しだけ救われている。
私はひとつ息を吐き出し、二十二番へと歩き出した。
空はもう、薄暗くなり始めている。
真紀は――
いや、「たぶん」じゃない。
あの、地雷を踏んだあとは全部自分の中にメモして、ひとりで何度も反省会を開くタイプの性格からして、今ごろきっと、もう心配モードに入っている。
そう思った途端、足が半歩ぶん、勝手に速くなった。
……よし。
見栄は張るとしても、張りっぱなしにはしない。
そろそろ戻って、あの妙に気を回しすぎる人に、「一言で銀河の果てまで失踪する気はない」くらいは、知らせておいてやるべきだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




