40. 強襲 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
東南へ切り込んで七分も経たないうちに、蒸発の森は非常に礼儀正しく教えてくれた—— ようこそ。さっきのルールは飾りじゃない。
雨林の道は、道なんて呼べる代物じゃない。
年代の違うクソみたいな思いつきが何層も積み重なった結果に近い。板根は盛り上がり、根の隙間には泥水が溜まり、絨毯みたいに厚い腐葉土の下に何が埋まってるのか分からない。頭上からは濡れて光る蔓が垂れ下がり、ときどき、妙に「普通」なんだけど、その普通さ自体がわざとらしい低い灌木が、脇にしゃがみこんでいる。
私は最後尾で、視線をずっと流し続けていた。
先頭はハーヴィー。踏み方がきっちりしていて、硬い地面と板根の稜線だけを選んで進んでいく。
左翼はジェス。口が静かになって三分で限界がきたらしく、もう鼻声だけでこの惑星の都市計画全般にクレームを入れ始めている。
九島真紀は中前あたり。私たちより頭を高く上げて、上のほう——一見しただけで「長生きさせる気がない」って分かる連中だけを専門に見ている。
いい傾向だ。
少なくとも今のところは、バラバラに迷子になった四人の運の悪いガキじゃなく、ちゃんと「使える小隊」に見える。
「フロスト02、足、もっと静かに」
声を落として言うと、ジェスが即座に噛みついてきた。
「もう十分静かなんですけど?これ以上静かにしたら浮くわよ、私」
「さっき小枝二本と、私の最後の忍耐心をまとめて踏み折ったのは誰」
「小枝じゃないし。あれはこの星が私を殺すために打ち込んだ地雷釘——」
「黙れ。聞いて」
手を上げて、下に払う。
隊はぴたりと止まった。
別に私の声に威厳があるからじゃない。ここは、一度静かになると、いろんなものが途端に「うるさく」なる。
左前方、ごくかすかな水音。
頭上の樹冠のあいだでは、厚い葉をこする羽音に、金属っぽい振動が混じる。遠い。一群じゃない。
地面は……地面がちょっとおかしい。
前方の板根帯を睨む。
一本の巨木の根元に、妙に見苦しい瘤がいくつか盛り上がっている。灰褐色で、表面の亀裂は腐った木にしか見えない。一瞥しただけなら「普通」。二度見しても、まあ普通。三度目から急に普通じゃなくなる。瘤の位置があまりにも規則的で、わざわざ「気にしないでください」と言わんばかりの配置で、きっちり揃っているからだ。
九島も止まった。
振り返りもせず、小さくひと言だけ吐く。
「根瘤、おかしい」
口元がぴくりと動いた。
いい。疑い深いのは私だけじゃなくて、本当に病んでる側だ。
ハーヴィーが半身を沈めかけた、そのとき。ジェスの左足が横にすべった。
派手に転んだわけじゃない。
もう少しマシな足場に乗り換えようとして、泥の中に埋まっていた薄い石を、ブーツの縁でひっかけた。「コツン」という小さな音。そのまま重心が横に流れ、ついでに背負っていたバックパック脇の、空降倉から外してきた金属板を板根にぶつけた。
音は大きくない。
でも、この森には十分すぎる。
頭の中に浮かんだ言葉はひとつだけ——クソ。
次の瞬間、地面が勝手に割れた。
誇張じゃない。
さっきの根瘤が、真ん中から一斉に爆ぜた。木屑と泥水と、やけに粘っこい透明な液体がまとめて噴き上がり、その中から黒褐色の節足と、鋸歯状の返しがごちゃごちゃと飛び出してくる。二匹、三匹——違う、少なくとも四匹。小型バイク並みのサイズの何かが根元から無理やりはい出してきて、翅を広げた瞬間、湿った熱気の中に歯茎が痛くなるような振動音が炸裂した。
潜影鋸蜂。
やっとご本尊とご対面だ。
資料の図よりずっと不細工で、ずっと人間を殺す気に満ちている。
「右に散開!沈むとこ踏むな!」ほとんど怒鳴る。「フロスト03は02を引け!フロスト04は第二巣を警戒!発砲禁止!」
もうジェス側では先に事案が発生していた。
最初に彼女に飛びかかった鋸蜂は、まっすぐ飛んでこない。中空から斜めに切り込んできて、腹部のチェーンソーみたいな毒針を、膝の関節めがけて突き立てようとしてきた。
ジェスの反応も遅くはない。泥の上で無理やり一歩、後ろに蹴って針をかわした。ただ、その一歩で重心は逃げきれず、体勢が大きく傾き、バックパックのベルトが板根の出っ張りにひっかかった。
「クソクソクソクソ——!」
彼女より先に罵ったのはハーヴィーだ。
あいつは躊躇ゼロで飛びこんできた。見た目キレイなレスキューなんかじゃない。一番実用的なやり方。左手でジェスのショルダーハーネスをつかんで後ろに引きずり、右手はもう腰からさっき外しておいた応急用の切断鉗を抜いている。ひっかかったベルトがいくらの品かなんて一切お構いなしに、「バチン」と一発で切り落とした。
鋸蜂の毒針は、ジェスのレッグガードの外板をかすめて通り過ぎ、耳障りな金属音を残していったかと思うと、表面に薄い白い腐蝕泡が一面に浮かび上がる。
いいね。本気で「生きた脚でもう一個フタを開ける」つもりの毒だ。
私はもう飛びこんでいた。銃は抜かない。手に持っていた空降倉の反射板を、そのまま鋸蜂の顔面めがけて振り下ろす。
落ち着いてるからじゃない。このクソみたいな熱帯雨林で、初回接敵からマズルフラッシュを撒き散らして、このエリア一帯の針鋼蚊にディナーベルを鳴らすほどバカじゃないだけだ。
金属板が思いきり叩きつけられ、鋸蜂の頭が横に弾かれる。翅が板根にぶつかり、鼓膜がしびれるほどの振動音が耳に突き刺さった。
「フロスト04!」
私の声と、九島の声がほぼ同時に重なる。
「左後ろに第二巣!そっちに下がらないで!」
反射的にそっちを振り向くと、左後ろ二歩の位置の、やっぱり腐った木にしか見えない隆起が、ちょうど半分ほど自分で割れているところだった。中から、黒くて艶のある腹節が一本、もう突き出している。
クソ。ここはそもそも「道」じゃない。巣蓋の天井だ。
「右前に切り替え!」即座に命令を切り替える。「根を踏め!硬いところだけ!」
九島は二度言う前にもう動いていた。右前に突き出た板根の稜線に軽く乗り、まるで頭の中にルート図が出ているみたいな足取りで下がっていく。下がりながら腰から高濃度の防虫膏のスプレー缶を抜き、蜂本体ではなく、右側の低い灌木と泥地の境目めがけて撒いた。
最初は「何やってんの」って思ったが、次の瞬間で理解する。
あれは殺傷じゃない。マーキングだ。
噴霧した一帯から、湿った熱気を強引に切り裂くような強烈な薬品臭が立ちのぼる。さっきまで甘ったるくまとわりついていた植物の匂いが、きれいに分断される。少なくともこれで、撤退時に自分から別の口の中に飛び込んでおきながら、「運が悪かった」で済ませる確率は減る。
右前で私が叩き落とした鋸蜂は、もう頭を持ち上げ直していた。翅を一振り。またこっちに切り込んでくる。
「03!」
号令をかけるより早く、ハーヴィーは動いていた。
いつの間にか、空降倉から外してきた緊急冷却ジェルの缶を手にしている。それを鋸蜂の半開きになった翅の根元めがけてぶちまけた。白いジェルは接触した瞬間にぴったりと張りつき、翅の角度が不自然に折れ、巨体が横に流れて板根に突っ込み、毒針が樹皮に食いこんだ。その一撃で、樹皮がごっそり削ぎ取られる。
「今だ!」
ハーヴィーの声が飛ぶより早く、体が勝手に動く。
私は踏みこむ。切断鉗のヘッドは十分に重い。両手で握り込み、頭胸部の結合線めがけて叩きつける。
一回じゃ足りない。
二撃目を落としたとき、そいつの全身がびくんと跳ね、翅はまだ痙攣している。噴き出してきたのは血というより、粘液まじりの黒褐色の漿だった。腐った海産物を軍靴の中で三日ほど密閉したような臭いが一気に襲ってくる。
罵声を飲みこんで、まずは後ろに跳ぶ。
「止まるな!まだ三匹!」
ジェスはもうハーヴィーに引きずり上げられて板根に逃れていた。姿勢は壊滅的にダサいが、少なくとも脚はついている。息を荒げながら、バックパック側面に残った最後の金属板をもぎ取る。
「こいつら、振動に反応するんでしょ!」
「そう」九島が答える。
「じゃあ、これでも食らえ!」
彼女は板を思いきり左前の窪地めがけて放り投げた。適当に投げたわけじゃない。泥が深くて、なおかつ面で揺れる場所をちゃんと選んでいる。板が落ちた音は実に景気よく、そのまま泥の上を滑り、浅い水たまり一帯がぶるぶる震えた。
効果は即答だ。
こっちにじり寄ってきていた二匹の鋸蜂が、同時にスイッチを入れ替えられたみたいに頭をそちらに向け、その大きいほうの地表振動を追って切り込んでいく。三匹目はまだ場を読めていないらしく、その場で迷いながら腹部を高く反らせて、一番バカな生体関節を探している。
「フロスト01、右上!」
九島の短い声。
条件反射で顔を上げる。
蔓じゃない。
もっと上——高い根系のすき間から滑り出してきた、もう一匹の鋸蜂が、ちょうど私の右斜め上から切り込んでくるところだった。そいつは地面から出てきた連中じゃない。さっきから上の根の陰にぶら下がって、私たちが自分で隊形を差し出すのを待っていたやつだ。
クソ。
横に身をひねったが、半拍遅い。
鋸歯状の毒針が、左前腕のアーマーの外側をかすめた。貫通はしていないのに、表面に細かい白い泡が連なって浮かび上がり、焼けるような熱が皮膚まで噛みついてくる。
痛い。そして理不尽のかたまり。
足が滑り、半歩ほど後ろに退いた瞬間、見た目だけしっかりした泥の皮を踏み抜く。重心が沈み、「クソが」と心の中で吐きかけたところで、首筋の後ろを誰かに引っ張られた。
九島だ。
掴んだのは腕じゃなく、背負いベルトの後端。一発で私の体を板根の上に引き戻す。
「足元」
声はいつも通り落ち着いているが、いつもより半テンポ速い。
「分かってる」
「さっきは分かってなかった」
この女、本当にこういうときだけツッコミの精度を上げてくる。
とはいえ、その一引きで、鋸蜂の二撃目の刺突は空振りになった。ハーヴィーがすぐに横から入り、手の切断鉗を完全にレンチ代わりにして、翅根と頭胸の境目を横からぶちかます。
「02、二枚目!」
その一言で、ジェスはもう動いている。
さっき外した二枚目の外板を、今度はもっと右後方へ。硬い岩と板根の接合部——振動がよく伝わる場所を狙って投げた。クリアで甲高い金属音が響き、その震動が地中に走り、残り二匹の迷っていた鋸蜂の注意をきれいにそらす。
「今から離脱!」
私が叫ぶまでもなく、全員が同時に動いた。
ハーヴィーが先頭で、一番硬い板根の稜線だけを選んで進む。
ジェスがそのすぐ後ろ。今度は明らかに足運びが軽く、無駄に踏まない。
九島は中間。まだ上に目を配りつつ、淡々と情報を落とす。
「右前二歩はセーフ。左の葉先に棘。寄らないで」
私は殿。鋸蜂たちがターゲットを再ロックしてこないか、後ろを見ながら引く。
やつらは当面、投げ捨てられた二枚の金属板を追い回している。毒針で泥と腐った木をめちゃくちゃに切り裂く音は、錆びたチェーンソーで骨を削るのを間近で聞かされているような、聞くだけで頭が痛くなる騒音だ。
私たちは、少し高くて乾いた根の台地に出たところで、いったん足を止めた。
安全だからじゃない。
ここなら、足元は硬く、さっきより視界もマシで、頭上から何か生きたものがすぐ落ちてきそうな気配も、ひとまずないからだ。
やることはひとつ。人数確認。
「フロスト01、生存。03?」
「生」ハーヴィーの呼吸は荒いが、まだ安定している。
「02?」
ジェスは顔を一度ぬぐって、エンジンと殴り合ってきたばかりみたいな息を吐く。
「生。ついでに宣言するけど、私は今後、地面から生える昆虫を概念ごと嫌いになる」
「04?」
「生」九島が言う。「刺突なし。フロスト01左前腕外装、腐蝕。02右脚ガードに擦過。03は目立った損傷なし。まだ座るな」
自分の前腕を見る。外装のコーティングが一部、きれいに溶け落ちている。下までは抜けていないが、あと数秒遅れていたら、コーティングどころの話じゃない。
ジェスも自分の脚を見て、口元をひきつらせた。
「朗報。私の脚はまだ私のもの。悲報。さっきのがあと一センチ深かったら、教務課の追試制度を前倒しで体験するとこだった」
ハーヴィーはもうしゃがみこみ、まず彼女のガードに残った毒を水で流し、中和粉を叩きつける。一ミリも優しくないが、手際だけは怖いくらい早い。
「さっきの一歩、重すぎ」顔も上げずに言う。
ジェスは即反撃だ。
「はいはい、もう反省会ですか?先に反省文のフォーマット配ってくれる?」
「お前が書くのが早ければ、次の巣が出る前に俺が赤ペン入れてやる」ハーヴィー。
私も二言三言刺してやる気で口を開きかけて、先に九島に目がいった。
彼女はボードファイルを繰りながら、さっきのポイントを淡々とメモしていた。規則的な根瘤、第二波の伏兵位置、甘い匂いの発生源、撤退ライン、防虫線の有効範囲。手はぶれず、ペン先も乱れない。
今の一件が、「ちょっとうるさくて、やたら湿っぽくて、ひどくムカつく」けれど、まだ整理可能なインシデントに過ぎないみたいに。
「フロスト04」
「はい」
「さっきの、礼を言っとく」
顔を上げて、〇・五秒くらい「私の言葉の意味」を確認している顔をした。
「右上の警告のことですか。それとも、背ベルト引いたほう」
「両方」
「じゃあ、次は足元見てから、上を見てください」と平然と言う。
……ほんと、人の礼を最後まで落とさせる気がない。
ジェスが横でくすっと笑った。
「わあ、初・実戦・相互扶助。空気だけ聞いたらめちゃくちゃほっこり」
「黙れ」
私と九島の声が同時に出た。
言ってから、三人とも一瞬止まる。
ハーヴィーが顔を上げる。こういうシンクロ現象についてあれこれ評価する気はなさそうで、あっさりした結論だけ落とした。
「少なくとも、今ので本当に"隊"にはなった」
それは思っていたより重い一言だった。
あいつは慰めなんか言わない。このクソ男は、一度も誰かを慰めたことなんてない。
ただ、本当に「かろうじて使える」ようになったときだけ、誉め言葉に聞こえない評価を一つだけ置いていく。
私は息を整え、改めて周囲を一望した。
熱は相変わらず。湿気も、相変わらず肌に張りつく。
遠くではまだ何匹かの鋸蜂が、別の場所で何かをぶち壊している音がする。さっきの誘導がしばらくは持つ、というだけの話で、あいつらが「はい解散」と帰巣する保証にはならない。
こっちは——四人ともまだ立っている。誰も刺されてはおらず、誰も勝手に飛び出していない。おまけに、口喧嘩する余裕も残っている。
蒸発の森じゃ、これだけで上出来なオープニングだ。
三人の顔を順番に見てから、やっと「組長っぽい」締めくくりをひとつやる気になった。
「よし、結論出す」
「一、根瘤がきれいに並んでる場所は、最初から回避。二、足はもっと軽く。沈むところを踏むな。三、発砲禁止。少なくとも、この雨林の前半では封印。四、空降倉の板材はゴミじゃない。命綱。五——」
そこでジェスを見る。
「次に誰かが適当に踏んだら、その本人を使って、遮蔽物のシャッターが何秒で閉まるか実験する」
ジェスは白目をむいてから、口端を上げた。
「了解、フロスト01。次からは、品のいい死体みたいに、上品に歩くわ」
「死体になる前に、まず上品って概念を勉強してこい」
九島がボードを閉じて、本日いちばん「誉め言葉寄り」に聞こえる一行をくれた。
「さっきの対処、悪くなかった」
鼻で笑う。
「その言い方、成績中の上くらいのレポートの評価に聞こえる」
「私の基準では高いほうです」
……そう。それは「いい」とストレートに言われるより、よっぽど九島らしい。
そして私は、そのニュアンスをちゃんと解読できている。
ハーヴィーは中和粉の袋を畳み、立ち上がる。
「動ける」
うなずき、まだじんじんする左前腕を軽く握りしめる。それから、もう一度隊形を引き直した。
「フロスト、整列。さっきのパターンを、今度は最初からきちんとやる」
今度は誰も余計なことは言わなかった。
ハーヴィーは再び先頭へ。
ジェスは自発的に左翼。足取りはさっきより明らかに細かく、慎重だ。
九島は中前。さっきより、私との距離が半歩近い。さっきみたいに人を引き戻したり、間を埋めたりできる距離を、無言でキープした。
私は最後尾。三人の足音——板根と泥の上を踏むリズムを聞きながら、初めてはっきりと自覚する。
フロスト01から04まで、さっきのは「運よく全滅を免れた」だけじゃない。
四人分の身体を、本当に一つのやり方でまとめて使って、元はかなり悲惨になりかけた接敵を、どうにか持ちこたえたんだ——と。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




