36. 不協和音 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
「これは私。夜間の浄水を私が管理するから。これはジェス。取り出しが速いから。これはあんたに残す。旋回時に一番ぶれないから」
一言一句、精確で、余分がひとつもない。
聞きながら、私は頭の火がまだくすぶっていた。それなのに、口の方にはもう、突つけそうな傷が見つからない。
余計に癇に障った。
匍匐区、低壁、ロープネット。ここまで来ると全員、本格的に喘ぎ始めた。ジェスは二枚目の低壁を越えるとき、パックが引っかかって、危うく上に吊り下がるところだった。
「ねえ、私、今どう見える?」もがきながら訊いてくる。
私は下から一押ししてやった。
「脱獄しようとして壁に引っかかったハムの塊」
「ありがとう、実に絵になる比喩」
「どういたしまして。素材はそっちのみっともなさ提供」
本当の火薬庫は第三区で爆発した。
ダミーの拖曳交代が始まる。
見た目からしてすでに醜いあれは、引き摺ってみるともっと醜かった。重さが真下へ死ぬほど食い込み、生地が地面を擦る音は、長く聴いていると本気で吐き気がしてくる。第一巡は私とハーヴィー。刻みはまずまず。第二巡でジェスと九島に交代した瞬間、問題が噴き出した。
九島は力が足りないんじゃない。テンポを保とうとしすぎるのだ。
ジェスはその逆。瞬発力はある。安定性は、彼女の口と同じで、その瞬間その瞬間の思いつき次第。
砂利坂の直前、ダミーの右腕が石の隙間に噛み込み、重心が一気に逸れた。九島は反射的に引き、ジェスは同時に力任せに引っ張った。二方向の力がその場でぶつかり合い、ダミーは「バン」と半分ひっくり返って坂の上に転がった。
こめかみに青筋が跳ねた。
「止め! 止まれ止まれ止まれ!」ジェスが息を切らして怒鳴る。「こいつ、生きてる奴より非協力的!」
九島は眉をひそめ、まだ牽引帯を掴んでいた。
「今、左手を持ち上げすぎた。重心がずれて——」
「私が左手を持ち上げすぎ?」ジェスが信じられないという顔で振り向く。「あんた今、旅行鞄みたいに引っ張ってったじゃない!」
「あんたの歩調が乱れたからよ」
「あんたの口の方が乱れてる!」
私は駆け寄って、牽引帯を一気に掴んだ。
「二人とも黙れ!」
二人が同時にこちらを見た。
私はあの醜い物体を指した。歯を食いしばりすぎて、火花が出そうだった。
「こいつが今、口を利けるなら、第一声は間違いなく『いっそ埋めてくれ』よ!」
ハーヴィーが後ろから歩いてきて、ダミーを一蹴りで正位置に戻した。声はまた一段冷えていて、私たちごと二体目に仕立て上げそうな響きだった。
「よし」ハーヴィーが言う。「問題はもう、はっきりした。お前らはできないんじゃない。全員、自分のやり方で他人のやり方を上書きしたいだけだ」
風より、まっすぐな一言だった。
九島が唇を軽く噛んだ。
ジェスは白目を剥いたが、口は返さなかった。
私はしゃがみ込み、牽引帯を握り直した。掌は汗まみれ、肩が熱を持ち始め、身体全体が破裂寸前の鍋蓋みたいだった。
「やり直す」と言った。
ハーヴィーがこちらを見る。
「案は」
私は顔を上げ、彼を、そしてもう二人を順に見た。
「九島がテンポを刻む。牽引の主力には入らない。ジェスが引き手。ただし勝手なアレンジは禁止。ハーヴィーは後尾で修正。私が先頭で転向を取る」息を吸うと、胸の内側まで焼けていた。「途中で勝手に案を変えた奴は、私が先に絞め殺す」
ジェスが息を切らしながら笑った。
「よし、いつもの星野が戻ってきた」
九島は私を見て、半秒だけ止まった。
「いい」彼女は言った。
ハーヴィーが頷く。
「なら、やれ」
四度目の組み直しで、ようやくそれらしくなった。
九島は本当に、テンポだけを刻んだ。短く、正確で、無駄が一句もない。「左に一歩。上げ。半拍止め。今」ジェスは相変わらず口では文句を並べるが、動きはその通りに従う。ハーヴィーは後ろで全員の挙動を睨み、ひとつでも歪めば、その場で一言で切り込んでくる。先頭の私は、旋回のたびにダミーの前半分の重量が膝へ突っ込んできて、こんな訓練を組んだ奴の祖先まで問い詰めたくなった。
それでも今回は、少なくとも、あれを地面に叩き落とすことはなかった。
終点に戻り、牽引帯を放り出して、その場にしゃがみ込む。肺がサンドペーパーで擦られたみたいだった。汗が顎から滴り、背中の生地はぴったり張りついて、肩ベルトの下は熱を持って痛い。
ジェスはそのまま地面に尻を落とした。
「よし」顔を拭う。「今、正式に理解した。運命共同体って言葉の意味。だってさっき、あんたたち三人まとめて坂の下へ引き摺り込みたかったから」
九島は横に立ったまま、呼吸が普段よりわずかに重く、鬢が濡れていた。ダミーを見下ろす目つきは、いま頭のなかで、どこをあと二秒削れたかを再計算しているみたいだった。
ハーヴィーは私たちを一巡ぐるりと見て、褒め言葉ひとつなく、計時器を止めた。
「成績は最悪だ」と言った。
「優しい励ましをどうも」私は睨み返した。
「だが、いまはようやく、隊らしくなった」と続けた。
……こっちのほうが褒め言葉より効いた。まったく、忌々しい。
負荷パックを下ろしかけたところで、遠くの主棟の方から集合放送が上がった。旧式の拡声器を通した音は、実に癇に障る種類の正式感を帯びていた。
『一学年全学員に告ぐ。十分以内に主棟前広場へ集合せよ。繰り返す——』
私は顔を上げ、主棟の方角を眺めた。
「朝っぱらから、また何を企んでる」
ジェスが地面から自分を引き剥がすように立ち上がった。表情は、遺産が全額国庫行きだと告げられた直後みたいだった。
「もし懇親会の事後感想発表だったら、その場で死んだふりする」
「あんたの死んだふり、下手」パックを担ぎ直す。「行こう。生徒会が今日はどんな屁を垂れる気か、見に行こう」
十分後、広場は、朝の疲労を残したままの一年生で埋まっていた。訓練帰りで顔が拭き掃除の雑巾みたいになっている者、私服のジャケットを引っ掛けたまま、せいぜい訓話が数分だと思って来た者。壇上に立っているのは生徒会の連中で、制服には一分の乱れもなく、表情は、体面のいい災厄をこれから告知する者のそれだった。
あの構えを見た瞬間、こめかみが跳ねた。
案の定、ろくな話じゃない。
壇上の生徒会幹部はまず、綺麗な廃話をひとしきり並べた。林間学校の栄誉、実践、責任、統合、連邦の未来。どの単語も大仰で、どの字も中身がなく、綺麗なポリ袋にレンガを詰めて渡されるみたいな空虚さだった。
人ごみのなかで、汗もまだ乾いていない身体で、三文目を聞いた辺りでもう胃液がせり上がった。
そして最後に、あの男はようやく刀を抜いた。
「なお、一学年本次林間学校の成績は、今学期の中間総合実測成績に直接算入する」
広場が半秒、静まり返った。
その次の瞬間、人波が一斉に爆ぜた。
「はあ?」
「今言うの?」
「中間だと?」
「これ生存訓練のはずでしょ——」
私はその場に立ち尽くしたまま、頭が一拍空白になり、その直後、腹の底から頭頂まで一気に熱が駆け上がった。
くそったれ。
わかっていた。
こんな学校が、私たちをただ林に投げ込んで苦しませるだけで済ませるわけがない。ついでに中間試験まで抱き合わせで押し込んできたのだ。ありがとう本当に。一石二鳥、制度も省エネもばっちり両立。
ジェスが横で低く毒づいた。
「タダで死なせてくれるわけがないと思ってたのよ」
私は冷たく笑った。
「安心して。効率もばっちり。死ぬ前に採点までしてくれるって」
壇上はまだ終わっていなかった。
「加えて、本成績は、期末統合演習における編成予備参照資料の一部として運用する。跨院申請資格を有する上院学員は、本成績の結果に基づき、期末演習前に連合隊伍への加入・保留・離脱の申請を提出することができる——」
その場で身体が固まった。
……待って。
ちょっと待って。
いま耳に入ってきたのは通知じゃない。頭のなかに砲弾が一発、落ちてきた音だ。
中間。
期末。
跨院申請。
加入。保留。離脱。
人間の言葉に翻訳すれば、こういうことだ——今回の林間学校は、ただの成績評価じゃない。上院の連中に見せるための試供品にもなる。今回のお前がどこまで生き残れるか、組ませる価値があるか、足を引っ張らないか、それが全部、いまここで値札を貼られる。期末までの間、選ぶ側の資格を持つ上院学員は、この成績を眺めて、加入するか、保留するか、あるいは、こいつが腐り落ちる前に足を引くか、決めることができる。
危うく笑うところだった。
嬉しくてじゃない。怒り狂う一歩手前で。
「ずいぶんな話ね」壇上を睨みつけたまま、声を落とした。「中間試験では、火を噴く森に放り込んで生存できるか見ておいて、期末は何? 直接、砲身に詰めて、耐熱塗装の実測でもさせる気?」
ジェスが横で、まだ頷く元気は残っていた。
「その比喩、支持する。しかも控えめに言ってると思う」
圧力は、上から来るんじゃなかった。丸ごと被せられた感触だった。
だってこれはもう、三週間生き延びる、という次元の話じゃない。
第百四十四小隊の成績が地の底まで落ちれば、恥をかくだけじゃ済まない。期末までに、私たち全員に札が貼られる——使える、使えない、投資に値する、席を無駄にする価値なし。もともと私たちより高い位置に立っている上院の連中は、この成績を口実にして、堂々と、加入したり、抜き取ったり、離脱したりできる。
つまり、隊がまだ立ち上がりきらないうちに、刀はもう首元に架けられている。
しかもそれは、制度に書き込まれた刀だ。
こめかみが熱を持ち、皮膚の下から苛立ちが噴き出してきそうだった。昨夜の亜紀先輩の「あの子を生きて帰らせて」がまだ胸に残っているのに、そこへ生徒会がもう一太刀入れてくる——生きて帰るだけじゃ足りない、成績を持って生きて帰らないと、期末に誰と組むか組まないか、あんたには口を開く番すら回ってこない、と。
……くそ。
その場で誰かに噛みつきたいくらいの圧だった。
「星野」
はっと視線を戻すと、九島真紀が呼んでいた。
すぐ横に立っている。顔色はよくない。ただ、その悪さは動揺じゃなく、また一段冷え込んだ種類のものだった。
「なによ」
「呼吸が速すぎる」
「わかってる」私は振り向いた。火はまだ噴き出している。「あんたのところの生徒会長は昨日私を脅しに来て、今日は生徒会が直々に、これは中間試験、しかも期末の編成振り分けのオマケ付きだと発表してくださった。ここで安静な心拍のご披露を実演した方がいい?」
九島は私を見た。噛みつかれても、押し返してこなかった。
「期末はもっとキツい」
睨みつける。
「今さらあんたに言われなくても」
「でも、私は離脱しない」
一瞬、止まった。
平坦な声だった。天気予報の続報でも読み上げるみたいな平坦さで、そのぶん、こちらが逆立てている棘の層をすり抜けて、まっすぐ内側まで届いてきた。
眉を寄せた。
「私、あんたに訊いた?」
「訊かれてない」彼女は言った。「先に言っただけ」
ジェスが横で、こっちを見て、あっちを見て、実に見応えのある表情をしていた。目の前で爆弾同士が互いの無事を確認し合っているのを見た顔だ。
「うわあ」声を潜めた。「この空気、拍手すべき? それとも遺言書き始めるべき?」
「先に黙れ」私は言った。
「今回は私が死にに行くんじゃなくて、あんたたち二人が——」
もう一方の側から、ハーヴィーが冷たく差し込んできた。
「放送はまだ続いてる。ナレーションは後にしろ」
ジェスは即座に口を閉じたが、口角はまだ痙攣していた。笑いを堪えるので相当苦労しているのが見え見えだった。
壇上へ視線を戻す。奥歯が、少し硬くなっていた。
二十四時間。
あと、たった二十四時間。
第百四十四小隊は、たった今、砂利坂の上で「互いを谷へ引き摺り込まないやり方」を覚えたばかりだ。そこへ生徒会は振り向きざまに告げてくる——おめでとう、これは訓練じゃない、中間試験だ。中間試験だけじゃない、期末前の公開査定だ。公開査定だけじゃない、もっと高い場所に立っている誰かが、この点数を見て、お前を残す価値があるかを決める、と。
制度が自ら手を下す必要がない、というのはこういうことなのだ、と、いまようやく腑に落ちた。
規則を一条ずつ壁に貼り出しさえすれば、あとは圧が勝手に牙を伸ばす。
人ごみのなか、背中にはさっきまでの負荷パックが残した鈍い痛みがあり、掌はまだ汗まみれで、頭に残っているのは、実に品のない、けれど心底真剣な一句だけだった。
——中間でこの有様なら、期末はいったい、何を担架に載せて回収する気だ?
そして、いっそう始末が悪いことに、私はすでに、もう一つ別の問いを気にし始めていた。
もしその時、本当に、この成績を見て、加入する者、保留する者、離脱する者を決める人間が現れたら——
第百四十四小隊で、誰が残り、誰が手放されるのか。
この問いは、好きじゃなかった。
心底、好きじゃなかった。
なぜならこれは、いま浮かんだ瞬間から、もう頭のなかに旗を刺してしまったからだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




