36. 不協和音 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
林間学校開始まで、あと二十四時間。夜も明けきらない朝、私はまず人を殺そうと思った。
理想のためでも、制度のためでも、連邦のためでもない。
ジェスが私を揺り起こしにきたとき、その手にまだ乾ききっていない洗いたてのタオルを握っていたからだ。死人の頬でも押しつけられたみたいに冷たかった。
「起きろ、隊長候補どの」ベッド脇に立ったジェスの声は、報せ屋の鴉が唄い方でも覚えたみたいに機嫌がよかった。「あんたの朝の地獄、開演」
私はタオルを叩き払い、ベッドから跳ね起きた。
「もう一回それで触ってみろ。今日、第百四十四小隊は一人減るから」
「落ち着け」ジェスが半歩下がる。笑い方が、実にぶん殴りたくなる感じだ。「アタシが減ったら、ハーヴィーが先にあんたを補充要員にするぞ」
宿舎の光はまだ灰色に沈んでいた。窓の外の空は、煮立たない汚水を鍋に入れっぱなしにしたような色。天井の扇風機が半分死にかけたまま回り、洗濯室の方はすでに轟音を立て始めている。部屋には湿気と石鹸の匂い、乾ききらない速乾生地のビニールくささ、それに昨夜どこかの誰かがこっそり食い散らかしたらしい肉缶の脂の匂いが、うっすら混ざっていた。
私はベッドの端に腰かけ、髪を掻きながら向かいへ視線を投げた。
九島真紀はすでに制服の上着まで着込み、背嚢はベッド脇にきちんと立てられ、袖口までひとつ乱れなく折り返してある。まるで一晩、寝返りひとつ打たなかったみたいに。こういう人間は、朝、目に入るだけで腹が立つ。
彼女は手首の計時器を確認していて、私が起きた気配に、目だけ一度、上げた。
「あと七分」
私は睨みつけた。
「それ、時報のつもり? それとも死刑宣告?」
「機能上は重なってる」
……くそ。
真紀が朝に飲んでるのは水じゃなくて、物差しなんじゃないか。本気で疑いたくなる。
半分寝ぼけた魂を引きずって、整備棟裏の訓練場まで辿り着いた頃、ようやく空が白み始めた。空気にはまだ暑さで焼き切れる前の、朝だけの涼しさが残っている。地面はもう湿気を吐き戻し始めていて、土の匂いと器材の金属の冷たさが混ざっていた。運動場の外縁を走る野外模擬走路は、人を辱めるために設計したとしか思えない、細長い切り傷みたいだった。砂地、斜面、低い壁、ロープネット、匍匐通過区、締めに砂利の登り坂。
ハーヴィーは起点脇に立って、足元には規格の負荷パックが四つ、その横に訓練用の負傷者ダミー——灰緑色の、いやに生々しく醜い代物——が転がしてある。
私たちを見ても、おはようの一言もなかった。
「今日、測るのは三つ」あの走路を指す。「一、負荷移動。二、テンポ切替。三、人を連れて帰る」
私はダミーを見た。
「気が利くこと。朝っぱらから死体運びの練習ね」
「昼に本物を運ぶより上等だ」ハーヴィーが言う。
理屈が通りすぎていて、言い返すのも体力の無駄だった。
九島は負荷パックの側へ歩き、ラベルを覗き込んだ。「総重量は?」
「基礎十八。共用の追加が四から六。分け方は自分たちで決めろ」ハーヴィーが私を見る。「今日はいちばん担げる奴を決めるんじゃない。最後まで担いだ上で、いちばん馬鹿死にしなかった奴を見るんだ」
ジェスがしゃがみ込み、パックのひとつを摘まみあげて、露骨に顔をゆがめた。
「これで十八?」顔を上げてハーヴィーを見る。「あんた、算数まで野営で磨いてきたわけ?」
「秤はそこにある。文句なら秤に泣きつけ」
私は自分のパックを引き寄せ、肩へ担ぎ上げた。肩甲骨がその場でぐっと落ちる。担げない重さじゃない。ただ、担いだ瞬間に「今日はロクな日じゃない」と身体でわかる、そういう正直な重さだった。
ハーヴィーがダミーを軽く蹴って前へ出した。
「規則は簡単だ。前半二区は個人走。第三区から二人組の交代拖曳。最後の区は四人でこいつを終点まで運ぶ。途中、俺は見てるだけだ。手は貸さん。装備が緩んだ奴、歩幅が乱れた奴、テンポが崩れた奴、記録する。口が忙しすぎる奴も、記録する」
ジェスが手を挙げた。
「口が忙しいと何点減点でしょうか」
「他人を何人巻き添えにしたか次第だ」
「じゃあ星野は今日、その場でゼロ点確定ね」
「今、砂地に埋めて標識代わりにしてやろうか」
「朗報。中間試験前に、少なくとも固定補給点は確保できたわけね」
こいつ、本日一体目のダミー役にしてやろうか、と本気で思った。
準備運動が五分と経たないうちに、ハーヴィーが笛を吹いた。
第一区は砂地と斜面。
駆け出しの三十秒は、全員まだ人間の形を保っていた。最初の登り坂に差しかかった瞬間、パックの重量が実に正直に、身体を地面へ押し戻しにかかる。私は呼吸を整え、足裏で砂を噛み、肩ベルトを鎖骨のあたりに落ち着かせた。汗はまだ噴き出していないが、背中の熱だけが先に目を覚ましていた。
左隣ではジェスが走りながら悪態をついている。
「こんな路線を設計した奴、老後は骨粗鬆症でありますように」
右隣の九島は無言。歩調の刻みが腹立たしいほど安定していて、まるで息の吐き方まで事前に表にまとめてあるみたいだ。もっと腹が立つのは、その「安定」が遅さじゃないことだ。力を無駄にしない、しかも他人の足を引っ張らない、ぎりぎりのところに刻んである。
見ないつもりだった。
結局、見た。
昨夜のあの一言——「少なくとも、私はあんたの前に立つ」——が、細い針みたいに頭の奥に刺さっていた。命に関わる痛みじゃないが、ずっとそこにあって、ひたすら煩い。
……くそ。
たった一言で気が散ったなんて、認めたくない。
第一区を折り返して平地へ戻ったとき、ハーヴィーが不意打ちのように投げてきた。
「星野、右肩に片寄ってる。ベルトを整えろ」
肩ベルトを引き直して、ようやく気づいた。重すぎるんじゃない。分配がおかしいのだ。
眉をひそめ、背中の外装ラックへ手を回す。もともとそこにあってはいけないはずの、硬い塊があった。
第二区の匍匐通過区に入る前、私は足を止め、パックを地面に叩き落とした。
「誰が私のパックを弄った?」
ジェスがブレーキをかけ損ねて、あやうく私の背中に滑り込んできた。
「ちょっと、急停車するならウインカーぐらい——」
無視して、外装ラックを引き剥がす。
浄水錠が二包、圧縮医療モジュールが一つ、防水布が一巻。全部、共用物資だった。
顔を上げ、視線を九島真紀の顔に真っ直ぐ落とす。
彼女も足を止めていた。逃げも隠れもしない。
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