35. 九島姉妹 3
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
懇親会特有の騒がしい波がようやく引き、寮がいつもの半死半生ながらも慣れ親しんだ状態に戻った頃には、夜の点呼まであと少しという時間になっていた。
洗い立ての速乾インナーとタオルを抱えて部屋に向かう。廊下の床はまだ少し湿っていて、窓の隙間から吹き込む風が洗濯室の熱気をこちらに押し流してくる。蛍光灯は相変わらず壊れかけの黄色で、全員まとめて栄養失調に見せる明るさだった。
廊下の突き当たりを曲がったところで、九島真紀が私たちの部屋のドアの前にしゃがんでいるのが見えた。
隣には開いた整理ボックス。中には小分けにした浄水タブレット、防虫クリーム、再圧縮した携帯食がいくつか入っている。目の前には共用物資リストが広げてあり、ペンは耳の後ろに挟んで、袖口を肘まで捲り上げ、いくつかの項目を格子順に並べ直していた。
私は足を止めた。
クソ。
彼女が何かをしていたからじゃない。
問題は、頭の中の「九島家」関連の最新映像が、まだ亜紀先輩が笑顔で「リンデ君のこと、あまり追い詰めないであげて」と言っている場面で止まっていることだ。
結果、目の前のいくらか似た顔に、私の視野は自動的に恐怖フィルターを重ねた。
九島が顔を上げた。私を見て、手を止める。
「そこで固まって、何してる。」
「……お前が本当にお前かどうか確認してた。」
一秒の沈黙。
「その発言は、説明を要求する。」
「いらない。知らない方が幸せ。」
彼女は耳の後ろからペンを外して、私の顔をしばらく見つめ、わずかに眉をひそめる。
「顔色が悪い。」
私は即座に返した。
「お前んちのせいだよ。」
「誰の?」
私の口が脳より先に動いた。
「お前の姉貴。」
彼女の手が止まった。
廊下にはしばらく、遠くで誰かがロッカーを閉める音と、窓の隙間を風が通る細い響きだけが残った。
九島がゆっくり立ち上がる。動作は速くないのに、私は反射的に背筋を伸ばしていた。
「亜紀姉に会ったのね。」
疑問形じゃない。
私は彼女を睨む。
「今日来るって知ってた?」
「学校に来るのは知ってた。お前を指名するとは知らなかった。」彼女は私を見る。その目が、いつもよりほんの少しだけ平坦さを失っている。「何を言われた。」
先に軽口で殴り返してやろうと思っていたのに、口から出てきたのは、まったく制御の利かない別の言葉だった。
「お前んち、全員あんなに怖いわけ?」
九島は、ほんの半秒だけ固まった。
それから、すっと視線を逸らす。
それは気まずさからでも逃避でもなかった。むしろ、本気で答えを検討している人間の仕草だ。
「……大体は、そうだ。」
二秒、黙り込んだ。
クソ。
まさか、あっさり認めるとは。
その一言で、用意していたツッコミが一気に崩壊した。
九島がまたこちらを見て、さっきより声を落とす。
「怖がらせたか。」
「別に。」私は即答する。
彼女の視線が、私の手の中の、無意識に握りしめられてぐしゃぐしゃになったタオルに落ちる。次に、私の顔を確認してから言う。
「星野。」
「何だよ。」
「今のお前、大型猛禽に鷲掴みにされた直後みたいな顔だ。」
「……その例え、どこから仕入れた。」
「そっくりだから。」
自分の腕をちらっと見下ろして、さっき亜紀先輩にホールドされた場所が、袖越しでもまだ妙にざわついていることに気づく。あの圧迫感は皮膚じゃなく、神経に刻まれている。
九島の視線も、そこに落ちた。
少し間を置いてから、彼女は私の方へ手を伸ばした。
私は本能で半歩下がった。
動いてから、自分で固まった。
九島の手が空中で止まる。その一秒にも満たない間が、私にはさっきの半歩を床にめり込ませて消し去りたくなるくらい長く感じられた。
クソ。
違う、別にこいつを警戒してるわけじゃない。
今日先に姉貴の方にトラウマ刻まれたせいだ。
でも、そう説明したらそれはそれでバカだ。
「……赤くなってないか見たかっただけだ。」彼女は手を引っ込める。声は相変わらず平坦なのに、私の半歩のせいでリズムを崩されたのは聞けばわかった。怒っているんじゃない。ペースを乱された、という感じだ。
喉がひっかかって、思わず視線を逸らす。
「大丈夫。お前んちの掴み方は点呼みたいなもんで、全部制度的だから。」
その一言を聞いて、九島は本当に黙った。
それから、低く言った。
「……悪かった。」
思わず顔を上げる。
「何でお前が謝るんだよ。」
「亜紀姉がお前に余計なことをしたなら、私の側の問題だ。」
「ちょっと待て、その連帯責任制度おかしくない?」私は眉をひそめる。「お前んち、家族ぐるみの共犯制なの?」
「ある意味では、そうだ。」
「……そういうことを、そんな平然と認めるな。」
彼女はこちらを見ていた。あの定規みたいな冷静さはまだ目の奥にあるのに、縁が少しだけほぐれている。
「じゃあ、言い換える。」一拍おいてから続ける。「私は、お前が彼女のせいで、私にまで警戒を上げるのを望んでない。」
胸の奥が、わずかに揺れた。
変な意味じゃない。
ただ、あまりにもストレートだった。
いつもの九島真紀なら、もっと回りくどい言い方を選びそうな場面で、やけに直接的な単語を使ってきた、という違和感だ。
反射で噛みつく。
「それ、要求レベル高いな。自分たちが似てるって自覚ある?」
「ある。」
「しかも、お前の姉貴、さっき私がリンデのネタ持ってるって普通に把握してたからな。」
「……それは、亜紀姉側の問題であって、私の問題じゃない。」
私は彼女をじっと見る。
廊下の黄ばんだ照明の下、手にはまだペン、袖はまくったまま、横には共用物資の箱。見慣れた姿のはずなのに、さっき屋上で見た亜紀先輩と並べると、確かに種類が違う。
亜紀は、人の中身を一瞬で分解できる人間だ。
九島は、差し出されたものを一つずつ平らに広げて、どこが先に壊れるかを冷静に指さしてくる人間だ。
どっちも面倒なのは間違いない。
ただ、面倒の質が違う。
私は舌打ちを一つ飲み込んで、手のタオルを肩に引っ掛け、彼女の横へ歩み寄る。整理途中の物資ボックスを覗き込んだ。
「今度は何してんの。」
「夜間使用の優先順位の組み換え。」と彼女。「火風暴の前触れの熱波が早まる可能性を考えると、防虫と浄水を前に出した方がいい。」
「懇親会終わって、そのままこれ?」
「そうだ。」
横目で彼女を見る。
「お前んちの連中は?」
彼女は、ほんの一瞬だけ間を置く。
「顔は出した。」
「それで終わり。」
「それで終わり。」
……なるほど。
この乾き具合、燃やせる。
ただ、さっき屋上で私に頭を下げた亜紀先輩の姿を思い出してから、今目の前で「顔は出した」で会話を畳んだ九島を見ると、胸の奥に何ともいえない感触が残る。
同情というほどきれいなものじゃない。
私にそこまでの徳はない。
もっと雑な言い方をすれば――
こいつも石から生えてきたわけじゃない、ってだけだ。
ただ、その石が家族ごとコンクリート並みに硬そうなだけで。
九島はまたペンを耳の後ろに挟み、残り二パックの浄水タブレットをコンテナの側面にきっちり収めた。角度の問題か、今日一日で神経が曲がったせいか、耳の後ろから短い髪が一本逃げて、ちょうど首筋にかかっているのが目に入る。
短くて、細くて、やけに目障りだった。
視線が半秒ほどそこに引っかかって、自分で自分にイラっとする。
……私は何を観察してる。
慌てて視線を逸らした。
九島は気づいた様子もなく、コンテナの蓋を閉めて立ち上がる。
「星野。」
「今度は何だよ。」
「もしまた亜紀姉がお前を探すようなことがあれば、先に私を呼べ。」
鼻を鳴らす。
「呼んでどうする。姉妹ローテーションで私をビビらせるのか。」
「違う。」彼女は私を見つめた。声はいつも通り平坦なのに、いつもよりわずかに低い。「少なくとも、その時は私がお前の前に立つ。」
廊下が、一瞬だけ静かに感じた。
別に、寮全体が黙り込んだわけじゃない。
私の耳が、勝手に余計な音を切っただけだ。
私は眉をひそめる。
「そういうこと言うと、誤解されるぞ。」
「何を誤解される。」
「……いい。黙れ。」
彼女は私を見て、本当に黙った。
余計に腹立たしいのは、口元のごくわずかな弧だ。完全に、何かを堪えている。
急にムカつく。
「何、笑ってんだよ。」
「笑ってない。」
「笑ってた。」
「だとしても、お前を笑ったわけじゃない。」
「今の方が余計に笑ってる感じ出てる。」
九島は今度は否定しなかった。ただ、整理し終えた物資の箱を私の方へ差し出す。
反射で受け取る。その瞬間、指先が彼女の手に触れた。ほんの一瞬で、避ける暇もない。金属の縁と一緒に触れた彼女の指は少し冷たくて、その温度が変に神経を刺激した。
……クソ。
何もなかった顔で、箱を抱え直す。
九島も、特に何かあったふうではない。ただ淡々と告げる。
「それ、お前のベッド側に置いておけ。夜中、お前の方がジェスより早く動く。」
「それ、褒めてるのかリスク評価なのか、どっち。」
「両方。」
「お前、本当に口の選び方が下手だな。」
「自覚してる。」
返事が早すぎて、一瞬こちらが詰まる。
結局、箱を抱えたまま部屋のドアノブに手をかけた。
押し開ける直前、どうしても一つだけ飲み込めなくて、振り返る。
「九島。」
「何。」
「お前の姉貴、すごく怖い。」
彼女は半拍置いてから、いつもの調子で答えた。
「知ってる。」
二秒ほど、睨み合う。
最後に出てきたのは、どうにも締まりのない一言だった。
「……今度から、先に言え。」
九島は私を見て、こくりと頷く。
「わかった。」
蛍光灯の色が黄ばんでいるせいか、それとも本当に今日一日で私の頭がやられかけているのか、その「わかった」が、妙に素直に聞こえた。
変な感じだ。
そして、非常にまずい。
私は慌ててドアを押し開け、自分がさっきまで感じていた妙な感覚ごと、部屋の中に逃げ込もうとした。
残念ながら、完全には置いてこられなかった。
物資箱をベッド脇に置いたとき、頭の片隅には、さっきのあの一文がまだこびりついていた。
――少なくとも、その時は私がお前の前に立つ。
……クソ。
この家の女連中は、どうして揃いも揃って、人の処理に困る台詞ばかり選んでくるんだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




