35. 九島姉妹 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
彼女は私を見つめていた。最初からずっと綺麗に保たれていた笑顔が、この時ばかりは笑ってない時よりも怖かった。
「真紀のこと、お願いします。星野霜。」初めて、私の名前をフルで呼んだ。声は低く落とされていて、この言葉は私一人の耳に入ればいいというくらい低く。「あの子を、生きて帰してあげて。」
喉が詰まって、返そうとした言葉が半拍引っかかった。
これはただの頼みじゃない。
姉らしい温かい託しでもなければ、建前でもない。
彼女は、真紀が自分からそこに入りたがったことも分かってるし、林間学校みたいな場所が九島姓だからといって手加減しないことも知ってる。だから「面倒を見て」とも「よろしく」とも言わない。「生きて帰して」と言う。
重さが桁違いだ。
何を返すべきか決まる前に、彼女はもう手を放して一歩下がり、きっぱりと私に頭を下げた。
私はその場で石になった。
ちょっと待て。
生徒会会長。
上院の上級生。
九島真紀の姉。
さっきまで背筋が冷えるくらいの圧で私を押さえ込んでいた女。
そんな人間が、今、私に頭を下げている。
この画面のヤバさは、書類で頭をはたかれるよりよっぽど高い。
彼女はすぐに体を起こすと、さっきの礼は必要な手続きでしたとでも言うように片付けて、屋上のドアへ歩き出した。足取りは落ち着いていて、言うべきことは全部言った、あとは後始末だけという感じだった。
そして本当に、ついでのように一刺し追加してきた。
「そうそう。」振り向きもせずに言った。
背中の寒気が、即座にぶり返す。
亜紀先輩はドアの前で立ち止まり、顔だけ半分こちらに向けて、にっこりと笑い足した。
「リンデ君のこと、あまり追い詰めないであげて。」
胸の辺りが、ずん、と沈む。
私の表情が一瞬固くなったのを見ていないはずなのに、見抜いてるみたいに平然と続ける。
「彼と二階堂の件は、私が黙認してるの。」彼女は言う。「だから、あなたの手元にあるものは、できればそこまで強くは握り込まないであげて。あの子はただ臆病なだけで、悪い子じゃない。」
私は、その場から一歩も動けないまま、風の感触さえどこか遠くに感じた。
クソ。
マジかよ。
この人、なんで知ってる?
私がリンデの弱みを握ってることなんて、表向きは第三者の耳に入ってるはずがない。たとえリンデ自身が撮られたかもと薄々勘づいていても、わざわざそんな話をあちこちに触れ回るほどバカじゃない。ましてや、さっきの言い方は探りじゃない。知ってる前提の口ぶりだ。それも、私が今どこで固まるかまで計算済みの精度で。
亜紀先輩は、私のこの幽霊でも見たみたいな顔が相当気に入ったらしく、ひらひらと手を振ってきた。
「じゃあ、またね。星野さん。」
そう言って、ドアを押し開けて出ていく。
鉄のドアが閉まる音は大きくない。
でも私は、その場で何秒も動けなかった。上腕に残った、さっきホールドされた感触が、皮膚の下に目に見えない指の痕として残ってる気がしてならなかった。
……ほんと、クソだ。
この人、怖すぎる。
怒鳴り散らして人を罵倒するタイプの怖さじゃない。
もっと別のやつだ。
最初から最後まで礼儀正しくて、声も優しいくらいなのに、彼女が背を向けた瞬間に、自分がさっきまで丸ごと分解されて中身まで確認されていたことに気づくタイプの怖さ。
さっき、本気でちびりかけた。
それと、いちばん背筋が寒くなるのは、彼女がリンデのことを知ってた、ってだけじゃない。
あの話し方だ。「あなたが刃を握ってるつもりでも、私は最初からあなたの袖の中身を見てたのよ」と、わざわざ確認していくあの感じ。
風の中で、考えれば考えるほど冷え込んでいく。
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屋上でさらに五分ほど粘った。目的は、一応まだまともに呼吸できるか確認することと、さっきの精神的拷問を頭から多少でも追い出すこと。
結果、無理だった。
追い出そうとすればするほど、記憶の解像度はむしろ上がる。
諦めて、私はドアを押して階段を下りた。
階段の踊り場には昼の熱気がこもっていて、壁の古い白ペンキはところどころ剥げている。手すりに触ると少しベタつく。階を下りるごとに、懇親会の騒がしさが濃くなっていく。校舎の隙間という隙間から滲み出るみたいに、笑い声や誰かの名前を呼ぶ声や廊下を走る靴音がしみ込んでくる。どこかの親がどこからか持ち込んだのか、甘ったるいお菓子の匂いも、もともとの汗と洗剤の臭いに混ざって、空気ごと感情過多のシロップ漬けみたいだった。
もう一回屋上に引き返して、風に当たっていたくなる。
でも、人間、風だけ吸って一生生きていくわけにもいかない。少なくとも今は。
二階の踊り場まで降りたところで、下から非常に聞き覚えのある声が飛んできた。
「ほ〜し〜の〜!」
私は即座に足を止める。
クソ。
人の名前をここまで釣り針みたいに引き伸ばせるやつは、この寮に一人しかいない。
おそるおそる身を乗り出して下を覗く。
ジェスが階段の下で待ち構えていて、いかにも性格の悪そうな笑顔をこちらに向けていた。その隣にいる、ベッドフレームを朝飯がわりに齧れそうな体格の男は案の定彼女の父親で、女の方も案の定、理不尽なまでに顔立ちが似ている。ただ、表情はジェスよりずっとさっぱりしてるのに、目の奥には同じ面白がってる成分が混じってる。
反射で、私は一歩引いた。
ジェスがすかさず、私を指さす。
「見っけ。」
「誰が見っけだ、私はただの通りすがり。」
「うちらの寮の階段を通りすがりって言う?」ジェスは真顔で言う。「すごい偶然だね。」
本気で、この階段から一階まで蹴り落としてやりたくなった。
先に笑い出したのは、彼女の母親の方だった。
いかにも保護者用の愛想笑いってやつじゃなく、本当にツボに入ったみたいな笑い方だ。さらに悪いことに、一度笑ってしまうと、ジェスとの相似が一層際立つ。これが遺伝子の悪意というやつか、と妙に納得した。
「あなたが星野ちゃんね?」彼女は私を見て、明るい声で言った。「ジェスから話は聞いてるわよ。」
足が一瞬、止まる。
待て。
何を。
今それが、いちばん知りたくない。
「何を聞いたの?」と私が聞く前に、ジェスの父親が先に娘を見下ろした。その声は、床板がびりっと震えそうな重低音だ。
「お前、ルームメイトはみんな普通だって言ってなかったか?」
「みんな普通だなんて言ったっけ?」ジェスが瞬きする。「やたら生命力が高いって言っただけよ。」
「それ、褒め言葉じゃないから。」私は言う。
「うちでは褒め言葉。」ジェスの母親が笑いながら引き取って、私とジェスを見比べた。「思ってたよりちょっと小さいのね。それに、あの子の説明より元気そう。」
瞬間的に警戒モードに入る。
「……あんた、普段私のことどう説明してるわけ?」
ジェスが即座に咳払いした。
遅い。お前はもう終わりだ。
母親はさらに楽しそうに笑う。
「この子がね——」
「お母さん。」ジェスの声に、珍しく焦りが混じった。「そこは飛ばしていい。」
おやおや。
私は片眉を上げてジェスを見る。
ジェスが遮りたがるネタなんて、間違いなく保存価値がある。
横から父親が、非常に誠実に追撃した。
「噛みつく野良猫みたいだって言ってたぞ。」
二秒ほど沈黙する。
それから、ジェスの方を向いた。
「……今すぐ実演してやろうか。」
ジェスは額を押さえて、「やっぱりこうなると思った」という顔をした。
母親は笑いながら手を振る。
「悪口じゃないわよ。後から補足もしてたし、怖そうだけどすごく頼りになるって。」
口元がぴくっとした。
その台詞がジェスの口から出てきたという事実は、生徒会が突然「全校デザート付き三食」を宣言するより信憑性がない。
「前半の方が気になる。」私は言った。
「前半の方が映像として浮かびやすいな。」父親が頷く。
「お父さん、余計なこと言わないで。」ジェスがすぐさま振り返る。
「余計なことじゃない、事実の再現だ。」父親の口調は非常に落ち着いていた。落ち着きすぎていて、普段から家で最後の一刺し担当なのが透けて見えた。
なるほど。
ジェスのあの口の悪さは後天的訓練じゃなく、遺伝の賜物だ。
彼女の育成環境に、少しだけ敬意を覚えた。本当に、少しだけ。
廊下にはまだ人の往来があって、他の学生が家族を連れて通り過ぎていく。私はその中に立ちながら、どこかの「健全家庭交流博覧会」に迷い込んだ気分だった。あちこちで「痩せてない?」「ちゃんと食べてる?」「何か持ってこようか?」という声が飛び交い、合間に「この学校、なんでこんなに暑いの」「この棟、ずいぶん古いわね」という文句も混じる。その賑やかさ自体は悪くない。ただ、長くいると胸の中が変なふうに詰まってくる。他人の体温を、無理やり自分に着せられているような窒息感。
私にはこういう場が向いてない。
絶望的に、向いてない。
ジェスはたぶん気づいていた。笑みを少し引いて、珍しく私を解放してくれた。
「はいはい、もう顔に『避難希望』って書いてある。」彼女は手を振った。「部屋に逃げていいよ。このままいると、うちのお母さんが本気でお菓子攻撃を開始するから。」
「それ、脅しじゃなくて災害予報だから。」
「私のスコーン、美味しいのよ。」母親がすかさず抗議する。
「そう、だからこそ災害なの。」ジェスは真顔で言った。「自我を失うまで食べさせ続けるタイプ。」
父親が横で頷く。
「それは事実だ。」
私はこの一家を見ながら、ジェスがどんな気まずい場面でも自分のホームグラウンドみたいに振る舞える理由が、急にわかった気がした。
この人たちは、気まずさと互いの刺し合いの中で育ってきたのだ。
「じゃあ、部屋戻る。」私は言った。
ジェスはひらひらと手を振って、相変わらずの悪びれない笑顔を向けてくる。
「行ってらっしゃい、小さな野良猫ちゃん。」
「今夜は片目ずつ交代で寝ることだな。」
母親がまた笑い、父親は私が本当に夜襲をかけるかどうか真剣にリスク評価している目をした。
背を向けて歩き出すと、後ろからジェスの母親の声が聞こえた。「あの子、普段から本当に噛みつくの?」
ジェスの返事は早かった。
「場合によります。大抵は精神的に噛みつくだけですけど。」
……はい。
やっぱり長居する場所じゃない。
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