32. 臨時補員 2
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
リンデが逃げていくと、廊下はようやく元どおりになった。
元どおりというのは、下院混宿の早朝に特有の、あの混沌とした状態のことだ。どこかの部屋では誰かが靴下を探していて、どこかの部屋では誰かが理論課程のノートを弔辞みたいな声で暗唱していて、一階の洗濯室からは、脱水機を限界まで回した誰かが昇天しかけているような轟音が響いてくる。
私はドアを閉めて、ドア板に背中を預け、端末の画面をもう一度見た。
九島真紀。
見るたびに、「お前、俺に何の冗談を仕掛けてんの」という感覚が一段階ずつ積み上がっていく。
ジェスはベッドの端に腰を下ろして、外套を引っつかみながら髪を後ろへ払った。まだ完全には起きていない顔に、野次馬専用の表情がもう浮かんでいた。
「どうしたの、」彼女は私を見て言った、「今の顔、『今日から食堂のスープが歯磨き粉フレーバーになります』って通知を受け取った人みたいだよ。」
「歯磨き粉スープのほうがまだマシ。」私は端末をベッドに放り投げた。「歯磨き粉スープは自分からうちの班に申請してこないから。」
「それはどうかな。」ジェスは顎を手で支えて、大真面目な顔で出鱈目を言う。「歯磨き粉スープだって林間学校に参加したいかもしれないじゃん。上院だし、任意参加だし、艦隊実習は要らないから庶民の苦労を体験したいとか。」
「殴られたいの?」
「順番待ちが長いかも。今日、星野を殴りたい人けっこう多そうだから。」
言い返そうとした瞬間、ドアの外からまたノックが聞こえた。
今度は急いでいない。乱れてもいない。
コン。コン。コン。
三回、間隔が均等で、定規で測ったみたいだ。
私とジェスは同時に黙った。
彼女が私を見る。
私が彼女を見る。
それからジェスが、声を出さずに口だけで言った。
——来た。
……まずい。
本当に来た。
私は深く息を吸い、自分の格好を確認した。今度はちゃんと上を着ている。少なくとも今朝みたいに、総務長に下院女子学生がベランダで太陽を讃えながら上半身裸でストレッチしている場面を目撃させて、学校の行政システムに妙な文化的印象を残す事態にはならない。
「先にドア開けてあげようか、」ジェスが静かな声で言った、「そのほうが、開けた瞬間に殴りかかりにくいでしょ。」
「気遣いはありがとう、」私はドアノブに手をかけた、「でも開けた瞬間に白い光で目が潰れそうで、そっちのほうが心配。」
「じゃあ片目だけ先に閉じといて。」
私はドアを引いた。
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ドアの外に、女の子が立っていた。
正確には、ここに属していない女の子が立っていた。
白い上院制服。裁断が刃物で紙から削り出したみたいに整っていて、外套は一番上のボタンまで留められ、襟元は平らで、余計なしわが一本もない。濃い色の長い髪は後ろで綺麗にまとめられ、露わになった顔は過剰なほど清潔だった。一目見て「超かわいい」と声が出るような華やかな顔立ちではなく、静かで、端正で、パーツの比率が出荷前に校正でもされたんじゃないかと疑いたくなるくらい正確だ。
彼女の後ろには、スーツケースと軍規仕様のバックパックが置かれていた。
……なるほど。装備まで持ってきている。
道を聞きに来たんじゃない。
定住しに来た。
廊下の反対側では、もう何人かの下院生が頭を出して覗いていた。当然だ。上院生が下院混宿のドア前に立っているというのは、養鶏場の前に巡洋艦が停泊しているくらい場違いな絵面だ。しかも九島家ともなれば。
彼女は私を一目見て、視線をそのまま留めた。上院生によくある、路上の事故現場を見下ろすような高級な同情でも、作り物の愛想でもない。ただ、ごく直接的に確認した。
「星野霜?」
私は本当は「人違いです、この部屋には精神状態が不安定な問題児と、補足攻撃が得意な室友しかいません」と言いたかった。
でも堪えた。
「何の御用?」
彼女は一度、軽く頷いた。何かの手順を踏んでいるみたいに。
「九島真紀です。」声は高くなく、発音が明確で、平坦なほど澄んでいた。「第144班補充申請者です。正式な拒否がなければ、今日から班員になります。」
引き継ぎ文書を読み上げているみたいな言い方だった。
「よろしくお願いします」の可愛い雰囲気も。
「初めて下院に来ました」という遠慮がちな客套も。
「突然すみません」という人間的な前置きも。
何もない。
おかげで、彼女への第一印象が「上院のお嬢様」から「高規格な面倒の本体」に瞬時に更新された。
ジェスが私の肩越しに頭を出して、一目見て、息を吸い込み、口の端が正直に引きつった。
「うわあ。」彼女は言った。「本人だ。生きてる。」
「よろしく。」九島真紀が彼女に向かって軽く頷いた。
ジェスはすぐに半歩退いて、小声で私に言った。
「やばい、挨拶できる人だ。こういうタイプって、挨拶できない人より大抵ずっと厄介なんだよね。」
完全に同意する。
私は腕を組み、ドア枠に肩を預けて、彼女を上から下まで眺めた。
「最初に言っとくけど、」私は口を開いた、「もし道を間違えたか、上院生が庶民生活を体験する一日企画に参加してるなら、今すぐ引き返せる。廊下を左に行き突き当たりが階段で、下りてまっすぐ行けば十分くらいで、照明が明るくて空気が高そうなあなたたちの世界に戻れる。」
九島真紀は静かに最後まで聞いた。
怒らない。笑わない。
ただ、ごく平静に答えた。
「道は間違えていない。」
「それのほうが問題だけど。」
「体験企画でもない。」
「さらに問題だけど。」
ジェスが後ろから良心的に補足した。
「星野が言いたいのは、もう二言くらい続けたら入場料を取りはじめるかもしれないってこと。」
「ジェス。」
「はい、黙る。」彼女は言って本当に二秒黙り、それから付け足した。「一時的に。」
私は眉間を揉んで、九島真紀に向き直った。
「うちが何の班か知ってる?」
「一年混成生存班、第144班。」即答。
「三日後にどこへ行くか知ってる?」
「第七外訓区、熱帯雨林惑星。七十二時間ごとに火炎嵐が発生し、最大風速は時速三百キロに迫り、前線熱流の極端値は千九百度に達する。考査期間は三週間、主目標は生存、戦闘ではない。」
一拍の間もなかった。
私はただ少し意地悪く試してみただけなのに、標準解答を一気に暗唱されて、むしろ私のほうが抜き打ちテストで範囲を全部諳んじられた側みたいになった。
ジェスも少し固まってから、準備していた突っ込みを半分だけ飲み込んで、残り半分が口の端から漏れた。
「……くそ、ちゃんと調べてきてる。」
私は目を細める。
「それを全部知った上で、自分から申請してきたの?」
「そうです。」
「なんで?」
今度は、九島真紀が少し間を置いた。
本当に少しだけ。短くて、まるで頭の中で最初から答えるつもりじゃなかった返答を少し後ろにずらしたみたいだった。
「参加する必要があるから。」
「必要?」私は冷たく笑った。「上院の『必要』って、だいたいかなり贅沢な内容だよね。」
「それは偏った見方です。」彼女は言った。
「私は十四歳だから、偏ってて当然。」
「そうですか。」
「その反応は何?」
「予測を修正していました。」
その一言で私はほとんど詰まった。
この人の喋り方は、陰険な嫌味でも、単純な傲慢でもない。もっと言えば、全ての言葉を頭の中で先に並べておいて、最も簡潔で最も時間を無駄にしない版だけを取り出している感じだ。聞いている分には普通なのに、普通すぎるせいでかえって苛立つ。
磨きすぎて鈍く光る刃みたいだ。
ジェスもその微妙なずれを感じ取ったらしく、私の隣に歩み寄り、正式に戦闘態勢を取った——両腕を組んで、口の端を半分上げて、場をさらにかき乱す準備ができている姿勢だ。
「九島さん、」彼女はとても丁寧な声で言った。丁寧すぎて、これから何かを崩しに来るのが一目でわかる。「状況を整理してあげる。第一、うちの班は今一人少ない。第二、あなたが補充申請をした。第三、あなたは上院で、しかも九島家。第四、星野は今、行政システムから届くサプライズに対してアレルギー反応が出てる。以上を踏まえて、少し安心できることを先に言ってもらえる?」
九島真紀はジェスを見て、それから私を見た。
「持ってきた資料を先に見てもらえますか。」
彼女はその場でしゃがんで、足元の軍規バックパックの外ポケットを開け、透明なバインダーを取り出した。動作が無駄なく、下院の廊下にしゃがんで制服が汚れるかもしれないという上院的な躊躇が一切なかった。
私とジェスは同時に少し黙った。
……少なくとも、写真撮影に来たわけじゃない。
九島はバインダーを私に渡した。
中身は申請書でも、きれいなハンコ付きの公文書でもなかった。
彼女が自分でまとめた一覧表だった。
火炎嵐の周期、利用可能な遮蔽条件、高温多湿環境における装備の損耗速度、補給品の重量と配分の提案、四人班の最低物資バランスモデル——さらに一ページ、手書きの注記があって、「班内に装備整備型と野外経験型のメンバーが既にいる場合、情報統合と物資管理のポジションを優先的に補完すること」と書かれていた。
最後のページをめくって、私は止まった。
そこに一行あった。
第144班現有メンバー:
星野霜——高圧環境適応、近距離対応
ジェス・マッカロウ——野外処置、生活線維持
ハーヴィー・ノックス——装備整備、後方修正
不足:情報統合/補給配重/環境予測
顔を上げる。
「私たちを調べたの?」
「はい。」迷いが一切ない。
「わあ。」ジェスが短く声を上げた。「取り繕いもしない。」
「もう一回聞くけど、」私はバインダーを閉じて、彼女を見据えた、「なんでうちなの?」
九島真紀も私を見た。
廊下がいつの間にか静かになっていた。遠くで覗いていた何人かも、これが「白制服のお嬢様が下院混宿に乗り込む」という上院ゴシップ誌向けの可愛い話じゃないと、さすがに気づいたのだろう。
半拍置いてから、彼女は口を開いた。
「第144班に今足りないのは、人数じゃないから。」
「……」
「火炎嵐に突入する前に、何を捨てて何を残すか、どの道を通ってはいけないか、どの判断が三日目までに班全体を終わらせるか——それを先に計算できる人間が必要なんです。」
ジェスは今回、何も言わなかった。
彼女にも聞こえていたからだ。
これは花を添えに来たんじゃない。
ポジションを奪いに来た。
しかも筋が通っているから、文句を言うにも先に並ばなければならない。
私は二秒黙って、それからゆっくりバインダーを返した。
「あなたみたいな人って、」私は言った、「普段けっこう嫌われる?」
九島真紀はバインダーを受け取って、少し考えた。
「その可能性はあります。」
「よろしい、」私は頷いた、「最低限の自覚はあるんだ。」
ジェスがとうとう隣で笑い出した。
「星野、あなたがまだドアを顔面に叩きつけてない理由、ちょっとわかってきた。」
「わかるわけないでしょ。」
「わかるよ。」彼女は当然みたいに言った。「このお嬢様は空から降ってきた厄介事じゃなくて、完全武装した厄介事だから。」
……くそ。
正確すぎて反論する気も起きない。
私は改めて九島真紀を見た。白い制服、ぶれない目、自分でまとめた資料、うちの班の穴まで計算済み。彼女はこの古い廊下に立って、本来なら上層の展示棚に収まっているはずの精密部品が、下院のこの毎日オイル漏れしている壊れかけた機械に、無理やり組み込まれたみたいだった。
どう見ても場違い。
でも、なぜかはまる。
私は舌打ちして、ドア口を少し空けた。
「最初に言っとくけど、」彼女を見て言った、「今でもまだ上院に送り返したい気持ちはある。」
「わかっています。」
「それと、もし後で遊び半分だったとか、観察素材が欲しかっただけとか、うちの班を社会実験に使おうとしてたって発覚したら、」私は丁寧な笑顔を作った、「直接下まで送り届ける。一番早い方法で。」
「理解できます。」
「今は理解できても、中に入って宿舎を見たら考えが変わるかもよ。」ジェスがのんびり補足した。「上院とは違うから、心の準備をしておいて。ここの文明レベルは気合いで維持されてるから。」
九島真紀は部屋の中を少し見た。
「大丈夫です。」
「なんで?」私は眉を上げた。
返ってきた答えは、平坦だった。
「入るのは班であって、内装じゃないので。」
……よし。
この一言は、覚えておく。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




