32. 臨時補員 1
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
翌朝、私は下院混宿のあのボロいベランダで目を覚ました。
厳密に言えば、文字どおりそこで寝てたわけじゃない。身体はちゃんとベッドで起きた。でも、魂のほうは、ベランダで冷たい風と現実にまとめて叩き起こされた、って感じだ。
早朝の空気には少し湿り気があって、遠くのグラウンドではもう誰かが走っている。足音のリズムが規則正しすぎて、青春の葬送行進曲でもやってるみたいだ。私はジャージのハーフパンツだけ穿いてベランダに立ち、上半身は裸のまま、肩にタオルを引っかけて、校舎の裏から顔を出したばかりの太陽に向かって両手を高く伸ばす。
「太陽に感謝〜……」
脚を伸ばしながらぼそっとつぶやく。自分でも、メンタルの状態が微妙な新興宗教の信者みたいだと思う。
仕方ない。この数日、いろいろありすぎた。流言の大爆発、申訴の失敗、リンデ・ホフマンとの交渉、班の再編成——そして今は、あと三日で、七十二時間ごとに火炎嵐で地表が洗い流される熱帯雨林惑星に、きれいに梱包されて送られていく予定。人間、自分で自分を笑わせる余裕くらい持ってないと、そのうちこの学校に「感情のない教材」に仕立て直される。
二セット目のストレッチを終えたところで、寮のドアの外から、やたらせわしないノックの音が響いた。
ドン、ドンドン、ドンドンドン。
ノックというより、指の関節で精神汚染してくるタイプのリズムだ。
私は眉をひそめて、部屋の中を振り返る。
「誰よ、朝っぱらから訃報でも持ってきたわけ?」
ノックが一瞬止まり、その直後、最近は声を聞くだけで血圧が上がる相手が口を開いた。
「ほ……星野霜さん、いますか?」
動きが止まる。
……は?
リンデ。
自分の格好を見下ろして、ようやく思い出す。今の私はまだ上を何も着ていなくて、肩にタオルを引っかけているだけ、髪は小型爆発に巻き込まれた直後みたいなありさまだ。
このクソ真面目、タイミングだけは妙に礼儀正しいな?
私は表情を引き締めて、椅子の背にかけてあったTシャツをつかみ、頭からかぶりながらドアへ向かう。扉を引くと、案の定、リンデ・ホフマンがタブレットを抱えて突っ立っていた。制服は一応きちんと着ているが、よく見ると第一ボタンをひとつ掛け間違えているし、こめかみには汗。まるで教官室からここまで、何かに追い立てられて全力で逃げてきました、という顔だ。
総務長が早朝から一年の混宿フロアの前にいる——この絵面だけで十分おかしい。
もっとおかしいのは、そいつが、私のことをちょっと怖がっているように見えることだ。
「納得できる理由があるんでしょうね。」
私はドア枠に肩を預けて、彼をじっと見る。
「なかったら、今日ここで公傷休暇コースにしてやるけど。」
リンデの口元がぴくりと引きつり、いつもの事務的で死んだ顔に戻そうとして……失敗した。
「き、君の班のサイラスが、入れ替えになった。」
一秒、理解が遅れる。
「は?」
次の瞬間、頭に血が上った。
「もう一回言ってみろ。」
一歩前に踏み出すと、リンデが反射的に半歩下がり、タブレットを落としそうになる。こいつもなかなか肝が据わっている。昨日、編成と機能ラベルの件でようやく譲歩したばかりで、今朝いきなり「やっぱ班に不具合出ました」って報告しに来るとは。私のこと、情緒安定した優等生だとでも思ってるのか。
背後で、ベッドのスプリングが小さくきしんだ。
「星野、先に半殺しにするのはやめときな。」
上段ベッドの端から、ジェス・マッカロウが頭を出した。髪は爆発してるのに、目だけはもう半分以上起きていて、声は妙にクリアだ。
「話聞いてから殴んな。」
……この女のほうが私より物騒だ。
リンデの喉仏が上下し、腹をくくったらしい顔で続きを口にする。
「サイラスは昨夜、持病が再発して、夜中に医療棟へ運ばれた。検査の結果、今回の林間学校への参加は不可能と診断された。」
私は二秒ほど、彼を見つめる。
「いいタイミングで倒れるわね。」
冷たく笑ってみせる。
「普段は倒れないくせに、なんで今なの。」
口が悪いのは自覚してる。でも今の私は機嫌が悪い。教養なんて、起き抜けのコーヒーより優先順位が低い。
出発まであと三日。こんな時期に班員が突然入院——どう聞いても、まともな知らせには思えない。ましてこの学校には、「一番困るタイミングで起きる事案は、だいたい偶然じゃない」という、不愉快な伝統芸がある。
私は腕を組み、目を細める。
「それで?」
「それで……」
リンデは一度言葉を切ってから、続けた。
「もし君たちが三人編成を受け入れるなら——」
「根性あるじゃない。」
私はそっと手を伸ばして、彼の頭にぽんと触れた。今にも処置室送りになりそうな不運な小動物をあやすみたいな、やさしい声で。
「いっそ私ら三人を、ひとりずつバラして別々の班に放り込めば? そのほうが効率いいでしょ。足引っ張り合う時間も節約できるし。」
「理論上は……」
リンデは、そこで本気で考えはじめた。
殴りかけた拳が、その場で固まりかける。
「理論上、不可能とは——」
「はいアウト。」
私はジェスのほうを振り返り、ドアを親指で指す。
「閉めて。犬、放していいよ。」
「了解。」
ジェスは上体を起こし、布団をはねのけてベッドから降りる体勢に入る。その顔は、本気で「死体の片付けまで付き合う」覚悟を決めた人間のものだった。
「ちょ、ちょっと待った——!」
さすがに危機感を覚えたらしく、リンデがようやく取りつくろう余裕もなく後ずさる。タブレットを胸の前に盾みたいに掲げて、早口で叫んだ。
「そういう意味じゃない! 補充要員の申請者が一名いるって話だ!」
動きが止まった。
ジェスも片足をベッドの梯子にかけたまま、眉をひそめる。
リンデは私たちが次の瞬間また手を出すんじゃないかと恐れているのか、早口でまくしたてた。
「今朝、医務部から正式通知を受け取ったのと同時に、この補充申請を確認した。相手は自発的に第144班への補充を希望している。だから先に君たちへ知らせに来た。」
「自発的?」
私は眉をひそめる。
「誰よ、頭のネジが飛んでなきゃ、うちの班に自分から飛び込もうなんて思わないでしょ。」
「その言い方は失礼だけど、」後ろからジェスが付け加える、「私も知りたい。」
リンデはその突っ込みを受け流し、タブレットを二度三度スワイプした。緊張しすぎたのか手が滑って画面が傾き、慌てて引き戻してから、結局そのまま私の個人端末にデータを転送してきた。
端末が震える。
私は画面を開き——一秒も経たないうちに、眉間の皺が深くなった。
「……本気?」
リンデはドア口に突っ立ったまま、夜明け前から公文書の爆撃で叩き起こされた不運なサラリーマンみたいな声で言った。
「データに問題はない。」
「データの話じゃなくて。」
私は顔を上げて彼を見る。
「こういうお嬢様って、そもそも私たちみたいなクソみたいな活動に参加しなくていいんじゃないの?」
今度ばかりはリンデの返答が早かった。頭の中で何度もリハーサルした台詞みたいに、よどみなく出てきた。
「上院生の林間学校参加は任意制だ。大多数は艦隊実習、参謀見学、あるいは行政システムの短期研修を選ぶ。地上生存課程は必修ではない。」
「だから聞いてるんだけど。」
私は端末を軽く振る。
「じゃあ、なんで彼女は正気を失ったの?」
リンデは一瞬黙った。どの言葉を選べば殴られずに済むか、頭の中で必死に計算しているみたいだった。
「申請書の理由欄には——下院混成の実地試験に参加したい、と記載されている。」
ジェスはもうベッドから飛び降りていた。外套を引っつかんで肩に引っかけながら私の隣に来て、私が端末の画面をそのまま渡すと、一目見た瞬間、感電したみたいに顔を上げた。
「上院?」
声が半音上がっている。
「九島家? マジで?」
もう一度画面を見直す。自分がまだ寝ぼけていないか確認するみたいに。
「ちょっと待って、九島家クラスの人って、普通は学院の広報誌の表紙か、学院スポンサーリストか、私たちが一生払えない寄付者名簿にしか出てこないんじゃないの?」
「それ、けっこう刺さるよ、ジェス。」私は言った。
「でも現実だし。」即答。
私は無視して、端末の画面に戻る。
白地に黒文字、規格統一、フォーマットは死亡通知並みに冷たい。
それでも、その数文字は目に飛び込んできた。
上院 艦隊管理学科
九島真紀
その名前を見つめていると、胃の中に氷の塊を突っ込まれたみたいな感覚がした。
相手の家柄が大きすぎるからじゃない。最初から最後まで、この話の全体が、どこかおかしい。
今の私に一番いらないのは、人手が足りないことじゃない。
まったく知らない人間が——しかも高確率でとんでもなく面倒くさい人間が——私の生存圏に強引に割り込んでくることだ。
しかも上院の人間が。
上院の白制服連中と私たち下院は、最初から同じ空気を吸って生きていない。あっちは教室のグレードが上で、寮はきれいで、廊下の照明は明るくて、廊下を歩く足音まで私たちより高くついてそうだ。そんな中から、九島家のお嬢様が自分から志願して、私たちみたいな混成サバイバル班に補充申請を出してきた?
頭がおかしくなったか。
この学校がまたやらかしたか。
どっちかだ。
私は顔を上げて、リンデを見る。
「私を舐めてるんじゃないでしょうね。」
リンデの顔色が一瞬こわばり、すぐに首を振った。
「こういう件で虚偽の報告をする理由がない。補充申請の手続きは既に完了している。君たちの班が正式に拒否しない限り——」
「拒否できるの?」私はすぐ聞いた。
「……理論上は異議申し立てが可能だ。」
「理論上?」ジェスが笑った。薄い笑いだった。「そういう言い方、だいたい翻訳すると『申請書は受け付けます、その後は丁寧に無視します』ってことでしょ。」
リンデは口元を引きつらせたが、否定しなかった。
つまり、ジェスの翻訳は正確だったということだ。
私はひとつ舌打ちして、端末を閉じ、ドア枠に背中を預けた。
「つまり結論は、サイラスが倒れて、あなたたちが上院のお嬢様を一人ねじ込んで、私に穏やかに受け入れろと?」
「『私たちが』じゃない。」リンデが小声で訂正した。「『彼女が自発的に申請した』。」
「同じでしょ。」
「……手続き上は、違う。」
本当に蹴り飛ばしたかった。
ジェスもそれを察して、自然な動作で私の隣に半歩進み出た。「もし動くなら私が廊下を塞ぐ」という体勢だ。
「リンデ、」彼女はゆっくり口を開いた、「これから話すときはもう少し言葉を選んだほうがいいと思う。星野は起きてからまだ何も食べてなくて、感情の安定性が著しく低い。私はもう食べたけど、星野側に立ってる。」
「私は通知しに来ただけだ。」
「ほら、」私はジェスに言う、「それが総務の本質。爆弾を手渡しておいて、自分は運搬担当だって言い張る。」
「言い得て妙。」ジェスが頷く。「この台詞、メモしとく。遺書に使えそう。」
リンデは目を閉じた。堪えているのか、自分でここまで来たことを後悔しているのか、たぶん両方だ。
それでも最後に、声を落として一言付け加えた。
「彼女は、押し込まれたんじゃない。」
私とジェスは同時に彼を見た。
リンデは今にも滑り落ちそうなタブレットを押さえ直して、さっきより少し険しい顔で続けた。
「第144班を、自分で指定した。」
部屋の中が、一秒静かになった。
ジェスでさえ、すぐには返せなかった。
私は眉をひそめる。
「……は?」
「申請書の希望欄に、直接君たちの班番号を書いた。」リンデは言った。「理由欄は空白だ。」
今度ばかりは、どこから先に罵倒すればいいかわからなかった。
上院。九島家。艦隊管理学科。自発的に林間学校に参加。しかも第144班を名指しで補充申請。
「お嬢様が庶民の生活を体験したかった」なんかで説明できるレベルじゃない。
どう見ても、私たちを目的にして来ている。
いや、正確には——
私を目的にして来ている。
消えた端末の黒い画面を見つめながら、今日の太陽はもうそんなに讃える気になれないと思った。
「リンデ。」
「……何だ?」
「もしこれがまたどこかの部署の頭のおかしい思いつきなら、」私は顔を上げて、丁寧な笑顔を向けた、「あなたが最初にその結果を知ることになるから、そのつもりで。」
リンデの顔が青ざめた。
「今回は本当に私じゃない。」
「そうであることを願う。」
言い終わる前に、ジェスが隣でごく平静に付け加えた。
「星野、まだ動かないで。」
私が横を見ると、彼女は腕を組んで、私の端末に表示されたデータを眺めながら、ゆっくりと目を細めていた。
「その九島さんとやらが実際に来てから、まず何がしたいのか見てみなよ。」少し間を置いて、口の端が上がった。「話を聞いてから、誰を殴るか決める。」
……それは正しい。
しかも、かなり正しい。
よし。
林間学校まで、あと三日。
そして私の班は、もう新しい問題を生やしはじめていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




