第9話 余計な気遣いしかできない男
雨の翌朝、街道はまだ柔らかかった。
土は水を含み、馬の蹄が踏むたびに低い音を立てる。
空には薄い雲が広がっていたが、東の端だけが淡く明るい。
森の葉から滴る水が、時おり荷馬車の幌を叩いた。
シルヴィアは荷台の奥で、母の料理帳を膝に置いていた。
昨夜の豆スープの匂いが、まだ衣に残っている。
貴族の屋敷なら、すぐに着替えさせられただろう。
厨房の匂い、煙の匂い、豆の匂い。
令嬢に似合わないと、誰かが眉をひそめる。
けれど今、誰も眉をひそめなかった。
ヴィンツェンスは御者台で欠伸をしている。
「眠そうね」
「眠いので」
「もう少し気の利いた答えをなさい」
「眠い時に気の利いたことを言う人間は信用できません。たいてい詐欺師です」
「あなた、起きていても似たようなものじゃない」
「なら一貫性があります」
シルヴィアは帳面を閉じた。
昨夜、雨宿りの小屋で眠ることになった。
眠るといっても、彼女はほとんど眠れなかった。
雨音、馬の鼻息、薪のはぜる音、足の痛み。
それから、鍋を挟んで向かいに座るヴィンツェンスの横顔が、どうにも目に残った。
あの男は、自分を憐れまない。
それは腹立たしいほど珍しいことだった。
やがて、低い丘を越えると、小さな町が見えた。
石壁に囲まれた町ではない。
木の柵と浅い堀があり、その内側に赤い屋根と灰色の煙突が固まっている。
町の中央には市場が立っていた。
ヴィンツェンスは手綱を緩めた。
「リントハーフェンです。宿場町というより、市場町ですね」
「宿はあるの」
「あります。高くなければ」
「あなたの人生は、いつも値札から始まるのね」
「値札を見ずに人生を始めた方々の末路を、私は一つ知っています」
「グラウベルク家の悪口なら、もう少し詩情を加えなさい」
「破産に詩情を加えると、貴族の演説になります」
町に入ると、朝の市場はもう騒がしかった。
鶏の声。荷車の音。魚を売る女の太い声。針を売る老人。桶を修理する職人。
湿った土と野菜と獣脂の匂いが混じっている。
シルヴィアは幌の隙間から外を見た。
人が多い。
そして誰も、自分のことなど知らない。
それは少し恐ろしく、少し自由だった。
ヴィンツェンスは市場の端に荷馬車を止めた。
手慣れた様子で布を広げ、商品を並べていく。
塩。豆。針。布。干し肉。蝋燭。安い香草。鍋の取っ手。小さな陶器。
シルヴィアは荷台から降りようとして、昨日と同じ木箱が足元に置かれていることに気づいた。
「また木箱?」
「彼も働きたがっています」
「持ち主に似て、余計なところで気が利くのね」
「私は余計なところでしか気が利きません」
彼女は木箱を使って降りた。
市場の何人かが、彼女を見た。
杖。片目。外套の質。歩き方。
人は新しい獣を見るように、悪気なく見る。
シルヴィアは顔を上げた。
見るなら見ればいい。
ただし、見物料は取る。
そう思ったが、まだ店を出したわけではないので黙っていた。




