第10話 市場の一皿
午前の商いは、あまりよくなかった。
雨の後で道が悪く、町へ来る客が少ない。
野菜は地元の農家が持ってきている。塩は別の商人が安値で出していた。
ヴィンツェンスの持ってきた豆は質が悪くないが、昨日の雨で袋の端が少し湿ってしまっていた。
「売れないわね」
「観察力に優れていますね」
「感想を述べただけよ。観察なら、もう少し痛いところを突くわ」
「勘弁してください。売上だけで十分痛い」
ヴィンツェンスは帳面に小さく数字を書き込んだ。
その顔は、困っているというより、困ることに慣れている顔だった。
「この豆、どうするの」
「値を下げます」
「下げても売れ残るわ」
「では、さらに下げます」
「あなた、坂道で転がる石を商売の師にしているの?」
「石は税を払わないので羨ましいですね」
シルヴィアは豆袋を見た。
玉ねぎがいくつか転がっている。
昨日の干し肉の残り。硬いパン。塩は少し荒い。香草はある。
鍋もある。
シルヴィアは言った。
「煮ましょう」
「何を」
「豆を」
「市場で?」
「ほかにどこで煮るの。教会の祭壇?」
「行商人は鍋を売るのであって、鍋の中身までは売りません」
「なら今日から覚えなさい。あなたの商売は進化が遅いわ」
「進化はたいてい不幸な環境から生まれます」
「今がそれよ」
ヴィンツェンスは少し黙った。
それから市場の端を見た。
古い井戸と、火を使える共同の炉がある。
旅人や行商人が湯を沸かす場所らしい。
「売れなかったら」
「あなたの豆が死ぬだけよ」
「仕入れ値も死にます」
「葬式代を節約するためにも、煮なさい」
ヴィンツェンスは、深い息をついた。
「分かりました。鍋を出します」
「最初からそう言いなさい」
「抵抗は商人の礼儀です」
彼は大きめの鉄鍋を運び、共同炉の火を借りた。
水を汲む。豆を洗う。湿った豆は、煮る前に少し広げて悪いものをはじく。
シルヴィアは杖を椅子代わりの樽に立てかけ、袖をまくった。
その姿を、通りすがりの女が見た。
「まあ。お嬢さんが料理を?」
シルヴィアは顔を上げた。
「ええ。鍋は身分証を要求しないので」
女はきょとんとしてから、笑った。
ヴィンツェンスが小声で言う。
「客を減らす才能がありますね」
「減る前に増やしなさい。商人でしょう」
「無理を言うなぁ」
豆はまだ硬い。
干し肉を細かく切り、玉ねぎを炒める。
少し焦げる手前で火を落とし、水を加える。
塩は慎重に、昨日と同じ失敗はしない。
香草は最後に。
市場の空気の中に、少しずつ匂いが立ちはじめた。
安い豆と干し肉。
だが、火が入ると人は振り向く。
特に腹の減った人間は、香りに対して正直だった。
最初に来たのは、荷運びの男だった。
肩に縄の跡があり、腕は太い。彼は鍋を覗き込んだ。
「いくらだ」
ヴィンツェンスが言った。
「一椀、銅貨一枚」
「高いな」
シルヴィアは男を見た。
「なら匂いだけ嗅いで行きなさい。匂いは無料よ。あなたの腹は納得しないでしょうけれど」
男は口を開け、それから笑った。
「口の悪い女だな」
「味がよければ、口まで甘い必要はないわ」
男は銅貨を置いた。
ヴィンツェンスが椀を出し、シルヴィアが豆の煮込みをよそう。
男は立ったまま一口食べた。
何も言わない。
ただ、食べる速度が少し変わった。
早くなった。
椀を空にして、彼は鍋を見た。
「もう一杯」
「銅貨一枚」
「分かってるよ」
二枚目の銅貨が、ヴィンツェンスの手に落ちた。
その音は、小さかった。
けれどシルヴィアには、客間の拍手よりもはっきり聞こえた。




