表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/16

第7話 雨宿りの豆スープ

 昼を過ぎるころ、空は鉛の色になった。


 グラウベルク家の屋根はとうに見えなくなっていた。

 街道は西へ伸び、左右にはまだ芽吹ききらない畑と、低い森が続いている。

 風は湿り、遠くの丘に雨の線が垂れていた。


 シルヴィアは荷台の奥に座っていた。


 座る、と言っても優雅なものではない。

 豆袋と布包みの間に身を押し込み、揺れるたびに箱の角が背中を打つ。

 貴族の馬車ならば柔らかな座席があるが、行商人の荷馬車にそんな贅沢はない。


 しかも左足が痛んでいた。


 朝から動きすぎた。

 階段を下り、厨房へ行き、裏庭へ出て、荷台に上がった。

 普段なら一日の終わりにまとめて請求される痛みが、今日は昼過ぎにはすでに取り立てに来ている。


 シルヴィアは顔をしかめた。


 幌の隙間から、御者台のヴィンツェンスの背が見える。


 彼はときどき手綱を緩め、馬を休ませた。

 最初は追手を避けるために急いでいたくせに、昼を越えてからは妙に休憩が多い。


 腹立たしい男だ。


「レンテンハイマー」


「はい」


「馬が老いているの?」


「ええ」


「その馬、さっき私より元気に坂を上ったわ」


「では御者が老いたのでしょう」


「嘘が下手ね」


「あなたほど上手くなるには、貴族に生まれる必要があります」


 シルヴィアは鼻を鳴らした。


「私の足を気にしているなら、そう言いなさい」


「気にしています」


 あっさり言われたので、シルヴィアは少し黙った。


 ヴィンツェンスは続けた。


「荷台に壊れやすいものを積んでいる時は、車輪を気にするものです」


「私を荷物扱い?」


「壊れやすい、の部分に感謝していただきたい」


「私は壊れないわ」


「それはよかった。荷馬車の修理費だけで手一杯です」


 雨の匂いが強くなった。


 やがて、ぽつりと幌を叩く音がした。

 次の瞬間、雨粒は増えた。

 ぱらぱらと乾いた音が、すぐに重く湿った音へ変わる。

 街道の土が黒くなり、車輪が鈍く沈み始めた。


 ヴィンツェンスは馬を止めた。


「少し先に炭焼き小屋があります。そこで雨を避けます」


「宿ではないの」


「宿まで行くと、あなたの足より車輪が先に死にます」


「私の足を基準にするのはやめて」


「では車輪を基準にしましょう。少なくとも文句は少ない」


「あなた、いつか車輪と結婚すればいいわ」


「持参金が期待できません」


 荷馬車は、ぬかるむ脇道へ入った。


 小さな炭焼き小屋は、森の入り口にあった。

 壁は粗い丸太ででき、屋根には黒ずんだ藁がのっている。

 中は狭いが、雨をしのぐにはこと足りた。

 古い炉があり、隅には乾いた薪が少し積まれていた。


 ヴィンツェンスが荷台の後ろを開けた。


「降りられますか」


「質問が失礼ね」


「では落ちられますか」


「もっと失礼よ」


 シルヴィアは杖を先に下ろし、荷台の縁に手をかけた。


 地面が遠い。

 上がる時は木箱があった。今は雨で滑る。


 ヴィンツェンスは手を差し出さなかった。


 代わりに、さっきと同じ木箱を黙って置いた。


 シルヴィアは彼を睨んだ。


「木箱に頼まれたの?」


「ええ。再登場を望んでいました」


「舞台俳優気取りの箱ね」


 彼女は木箱に足を置き、ゆっくり降りた。


 左足が地面についた瞬間、痛みが膝まで走った。

 顔には出さない。

 出していないつもりだった。


 だがヴィンツェンスは、荷物を肩に担ぎながら言った。


「馬が休みたがっています」


「まだ言うの」


「馬は口が堅いので」


 雨は強くなっていた。


 二人は小屋へ入った。


 中は炭の匂いがした。

 乾いた黒い匂い。窓は小さく、雨の薄暗さがそのまま入り込んでいる。

 シルヴィアは炉のそばに腰を下ろし、足を少し伸ばした。


 痛む。


 痛みは、いつも腹立たしい。

 自分の身体の中に、自分の命令を聞かない召使いがいるようなものだ。

 しかもそいつは、どれほど叱っても居座る。


 ヴィンツェンスは荷袋を開けた。


「夕方まで雨は続きそうです」


「天気まで仕入れているの?」


「雨は無料で配られます。商売には向きません」


「なら、何をするの」


「食べます」


「ずいぶん原始的な解決ね」


「人間の悩みは、大半が空腹で悪化します」


 彼は豆袋を取り出し、干し肉を少し、硬いパンを一つ、小さな塩袋を並べた。


 シルヴィアはそれを見た。


「まさか、それで料理と呼ぶつもり?」


「呼び名にこだわるほど裕福ではありません」


「豆と干し肉を水に投げるだけなら、雨水でもできるわ」


「雨水は火を起こしません」


 ヴィンツェンスは平然と炉に薪を入れ、火をつけた。

 手際はよかった。無駄がない。火打ち石を使う動きも、鍋を吊るす手つきも、道で暮らす者のものだった。


 シルヴィアは黙って見ていた。


 彼は豆を水に入れ、干し肉を切り、硬いパンを割った。

 塩を少し。

 あとは待つだけという顔をしている。


 耐えられなかった。


「貸しなさい」


「何を」


「鍋を。あなたの暴力から豆を救う」


「豆に人格を認める令嬢は初めて見ました」


「人格ではないわ。可能性よ」


「哲学的な豆ですね」


 シルヴィアは杖を支えに立ち上がり、鍋に近づいた。


 ヴィンツェンスは場所を譲った。

 その譲り方がまた腹立たしかった。まるで、彼女が立てることを最初から知っていたようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ