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第6話 母の包丁

 厨房は、まだ朝の忙しさの中にあった。


 竈には火が入り、鍋が三つ並んでいる。

 パンを焼く匂いと、煮立つ骨の匂いが交じっていた。

 召使いたちはシルヴィアの顔を見ると、少しだけ動きを止めた。

 すぐにまた手を動かす。

 触れれば火傷すると知っている者の動きだった。


 ブルーノは黙っていた。


 シルヴィアは台の端に料理帳を置いた。


「ブルーノ」


「はい」


「母の料理帳を見つけたわ」


「左様でございましたか」


「知っていたのね」


「奥様から、いずれお嬢様が見つけるかもしれないと」


「みんな、いずれ、が好きね。いずれと言っているうちに人は死ぬのよ」


 ブルーノは返事をしなかった。


 彼は棚の奥から、小さな布包みを出した。台の上に置き、紐を解く。


 中には、小ぶりの包丁が一本あった。柄は古いが、手入れはされている。

 刃は細く、台所用というより、旅先で野菜や肉を切るのに向いている。


 もう一つ、革袋に入った乾燥香草。


「何」


「奥様が使っておられたものです」


「母の?」


「はい。大きな包丁は屋敷のものですが、こちらは奥様の私物でございました」


 シルヴィアは包丁に触れた。


 冷たかった。

 だが、握ると不思議に手に馴染んだ。


「私に人を刺せと?」


「料理にお使いください」


「退屈な返答ね」


「お嬢様が刺激的すぎるだけでございます」


 シルヴィアは鼻で笑った。


 ブルーノは、香草袋を料理帳の上に置いた。


「奥様の料理帳には、まだ空白がございます」


「私に続きを書けと?」


「お嬢様は、文句を言いながら書くのがお上手ですので」


 胸の奥が、わずかに詰まった。


 シルヴィアはその感覚を嫌った。

 感動など、扱いにくい食材だ。少し火を入れると涙になる。

 涙など出せば、周りの人間が急に優しくなってしまう。

 それは最悪だった。


「あなた、昔から余計なことを言うのが下手ね」


「精進いたします」


「しなくていいわ。これ以上上手くなられたら、私が困る」


 シルヴィアは包丁と香草を料理帳と一緒に布で包んだ。


 そこへ、廊下の方から足音が近づく。


 マルガレーテの侍女だった。


「シルヴィア様。奥様がお支度の件で――」


「今、鍋を見ているの」


「ですが」


「私をアルトシュタイン家へ送るなら、焦げ臭い花嫁でもいいのかしら。先方の寛大さを試すにはよい機会ね」


 侍女は困惑し、頭を下げて戻っていった。


 ブルーノが低く言った。


「お嬢様」


「何」


「裏庭に、レンテンハイマーの荷馬車が来ております。西の宿場へ向かうと」


「知っているわ」


「左様で」


「何も言っていないわよ」


「はい。何も伺っておりません」


 老料理長は鍋に向き直った。

 それ以上、何も言わなかった。


 シルヴィアは布包みを抱えたまま、少しの間立っていた。


 自分が何をしようとしているのか、まだ名前をつけてはいなかった。

 逃亡。家出。錯乱。反抗。

 どれも似ているが、どれも違う。


 ただ、明後日には箱に詰められる。

 そう思うと、足の痛みより先に胸が苦しくなった。


 厨房の裏口から、外の空気が入ってきた。


 春先の風。

 まだ冷たい。

 だが、屋敷の廊下の冷たさとは違った。

 外の冷たさには、行き先がある。


 シルヴィアは杖を取った。


「ブルーノ」


「はい」


「今日の昼のスープ、火を弱めすぎないで。父は柔らかい味を好むけれど、あの人には少し塩が必要よ」


「承知いたしました」


「弟にはパンを焦がさないものを。あの子は苦いものにまだ弱い」


「はい」


 ブルーノは、そこで初めて顔を上げた。


「お嬢様は」


「私は」


 シルヴィアは言いかけて、やめた。


 言葉にすれば、戻れなくなる。

 しかし戻れる場所が、そもそもあっただろうか。


「私は、味見をしに行くの」


「どちらへ」


「遠くの鍋よ」


 ブルーノは深く頭を下げた。


 シルヴィアは裏口へ向かった。


 杖の音が、石床に響く。

 いつもと同じ音だった。

 だが今日は、その音が少しだけ、馬車の車輪に似て聞こえた。


 裏庭では、ヴィンツェンスが荷馬車に麻袋を積み込んでいた。


 荷は多かった。

 塩袋、豆、干し肉、布、針、安い蝋燭、鉄鍋、小さな陶器、古本。

 暮らしに必要だが、貴族の客間では名前も出ないようなものばかりだった。


 シルヴィアはそれらを見て、少しだけ気分がよくなった。


 世の中は、客間の茶器だけでできているわけではない。

 むしろ人は、針と塩と豆で生きている。


「レンテンハイマー」


 ヴィンツェンスは振り向いた。


「今日はお早い。災害にも勤勉なものがあるんですね」


「荷馬車は出るの?」


「出ます」


「西へ?」


「ええ」


「修道院の方角にも?」


「遠回りにはなりますが、まあ」


「そう」


 シルヴィアは荷台を見た。


 幌がかけられ、奥には布袋が積まれている。

 人一人が隠れられないほどではない。

 むしろ、隠れようと思えば隠れられる。

 そう思った自分に、シルヴィアは少し呆れた。


 ヴィンツェンスは目を細めた。


「何を考えているんです」


「あなたの商売がいつ潰れるか」


「よく考えますが、まだ結論は出ていません」


「残念ね」


「ええ。潰れる時は、もっと静かな客に見送られたい」


 屋敷の方で、鐘が鳴った。

 昼の支度を告げる鐘だった。


 シルヴィアは握った布包みを胸に寄せた。


 その時、表門の方から馬のいななきが聞こえた。

 アルトシュタイン家の使いだろうか。

 あるいは、婚礼支度の品を運ぶ馬車か。


 体が、勝手に強張った。


 ヴィンツェンスはその音を聞き、シルヴィアを見た。


「戻られた方がいい」


「命令?」


「助言です。命令ほど高価ではありません」


「安物ね」


「私の商品ですから」


 シルヴィアは笑わなかった。


「少しだけ」


「何が」


「少しだけ、隠れるわ」


 ヴィンツェンスの顔が、明らかに嫌そうになった。


「どこに」


「あなたの荷馬車」


「お断りします」


「早いわね」


「命が惜しいので」


「商人なら、もう少し交渉しなさい」


「では交渉します。お断りします」


「同じじゃない」


「結論が安定しているのは美徳です」


 表門の方の声が近づいてきた。


 誰かがシルヴィアを探している。

 侍女の声。家令の声。

 マルガレーテの名前も聞こえた。


 シルヴィアは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


 閉じている左目ではない。

 開いていた右目も、閉じた。


 真っ暗になった。


 その暗さの中で、母の字が浮かんだ。


『シルヴィアがいつか、自分の台所を持てますように』


 目を開ける。


「一刻だけよ」


 ヴィンツェンスは何か言おうとした。


 その前に、シルヴィアは荷台の踏み板に手をかけた。

 左足に痛みが走る。

 踏み板は高い。

 腕に力を入れるが、身体がうまく持ち上がらない。


 その背後に、ヴィンツェンスの手が来た。


 触れなかった。

 ただ、踏み台代わりの木箱を黙って置いた。


 シルヴィアは彼を睨んだ。


「頼んでいないわ」


「木箱に頼まれました」


「木箱は喋らない」


「あなたよりは静かです」


 シルヴィアは木箱に足をかけ、荷台に上がった。


 幌の中は、乾いた豆と布と古い木の匂いがした。

 貴族の馬車の香水臭さより、ずっとましだった。


 彼女は荷袋の陰に身を寄せた。


「一刻だけよ」


 外でヴィンツェンスが低く言った。


「その言葉、後で裁判になった時に使わせていただきます」


「あなたを訴えるほど暇ではないわ」


「貴族の暇は信用できません」


 荷台の幌が下りた。


 薄暗くなる。


 シルヴィアは料理帳を抱え、息を殺した。


 すぐ近くで、屋敷の者の声がした。


「レンテンハイマー、シルヴィア様を見なかったか」


 ヴィンツェンスの声は、いつも通りだった。


「今朝、厨房で。塩について罵倒されました」


「今はどこに」


「私が知っていたら、まず耳を塞いでおります」


「真面目に答えろ」


「真面目に答えると商売になりませんので」


 荷台の中で、シルヴィアは唇を噛んだ。


 笑いそうになったわけではない。

 たぶん。

 そういうことにしておく。


 やがて、足音が遠ざかった。


 馬が鼻を鳴らす。

 車輪がわずかに軋む。


 ヴィンツェンスが御者台に上がる気配がした。


「レンテンハイマー」


 シルヴィアは幌の中から小さく言った。


「何でしょう」


「一刻だけよ」


「ええ」


 馬車が動いた。


 石畳の振動が、荷台を通して身体に伝わる。屋敷の裏庭を出る。門を抜ける。


 シルヴィアは布袋の隙間から外を見た。


 グラウベルク家の屋根が遠ざかっていく。


 振り返るつもりはなかった。

 けれど、目は勝手にそれを見た。


 古い屋敷。

 母のいた部屋。

 父の沈黙。

 継母の静かな声。

 弟の言いかけた言葉。

 厨房の火。


 それらが、車輪の音にまぎれて遠くなる。


 ヴィンツェンスが御者台から言った。


「次の曲がり角で降ろします」


「ええ」


「本当に降ろしますよ」


「ええ」


「聞いていますか」


「聞いているわ。商人は同じ商品を何度も見せたがるのね」


 曲がり角に差しかかった。


 その時、後ろから馬の蹄の音が聞こえた。速い。誰かが追ってくる。


 ヴィンツェンスが舌打ちした。


「早いですね」


「誰が?」


「あなたを箱に詰めたい方々です」


「箱の趣味が悪いわ」


「同感です」


 馬車の速度が少し上がった。


 シルヴィアは荷袋に手をつき、揺れに耐えた。

 左足に響く。

 痛む。

 けれど痛みより、胸の奥で何かが熱くなる。


「ヴィンツェンス」


「はい」


「一刻を少し延長するわ」


「やはり貴族の時間感覚は信用ならない」


「返品不可よ」


「貴族の娘は腐りやすい。保存に向かない」


「安心して。性格はもう十分に干からびているわ」


 ヴィンツェンスは、御者台で小さく笑ったらしかった。


 荷馬車は西へ向かった。


 その先に何があるのか、シルヴィアは知らなかった。


 だが少なくとも、アルトシュタイン家の客間ではなかった。

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