第5話 荷馬車の令嬢
三日というものは、長いようで短い。
煮込みならば味がしみる。パン種ならば膨らむ。傷ならば、表だけは乾く。
けれど人間の運命を詰め替えるには、三日は少し足りなかった。
グラウベルク家の朝は、いつもより静かだった。
静かすぎる家というものは、たいてい悪事をしている。
あるいは、悪事に名前を与えないまま、それを上品に進めている。
シルヴィアは食堂へ降りた。
左足は、昨夜より重かった。階段を一段ずつ下りるたび、骨の奥に針が触れる。
だが痛みは、いつものことだった。
いつものことだから、他人が慣れてよい理由にはならない。
けれど人は慣れる。自分以外の痛みには、誰でも早く慣れる。
食堂には父オットフリートがいた。
彼は皿の上のパンを割っていたが、食べてはいなかった。
パンくずだけが白い皿に散っている。
顔色は悪い。
昨夜、遅くまでマルガレーテと話していたのだろう。
「シルヴィア」
「おはようございます、お父様。死人のようなお顔ね。朝食に棺でもお望み?」
「そういう言い方はやめなさい」
「では、もう少し生きた顔をなさればいいわ」
オットフリートはため息をついた。
父のため息は、シルヴィアが幼い頃から変わらない。
叱る前。逃げる前。何かを決めなければならないのに、決めたくない時。
父はいつも、そのため息で自分を赦した。
「アルトシュタイン家から、正式な迎えが来る」
「三日後と聞いたわ」
「明後日だ」
シルヴィアは椅子に手をかけたまま、しばらく黙った。
食堂の窓から、曇った庭が見える。
石の噴水は水を止められていた。
家計が苦しいと、まず水が止まり、次に花が減り、最後に人間の心が乾く。
「ずいぶん急ぐのね。私が熟れすぎる前に出荷するつもりかしら」
「シルヴィア」
「何」
「これは、お前のためでもある」
その言葉は、もう何度も聞いた。
耳に慣れてしまった言葉ほど、心には鋭い。
「お父様の“私のため”は、いつもお父様が楽になる方へ向かうのね」
オットフリートは顔を歪めた。
「私は、お前を不幸にしたいわけではない」
「ええ。お父様はいつも、私を不幸にしたいわけではなかった。ただ、私が不幸になる時に、別の方を見ていただけ」
「……家には、事情がある」
「私にも足があるわ。悪いけれど」
父は黙った。
シルヴィアは椅子に座らなかった。
座ってしまえば、動き出すのが難しくなる。
身体も、心も。
「お母様なら、どうしたかしらね」
言ってから、父の顔を見た。
その言葉は卑怯だった。
だがシルヴィアは、自分が卑怯なことを知っていた。
知っていて使った。
毒というものは、使う者の舌も焼く。
オットフリートは、ひどく老いた顔になった。
「エリーゼの名を、そういうふうに使うな」
「では、使わずに済むようにしてくださればよかったのに」
食堂の扉が開いた。
レオンハルトが立っていた。
薄い金髪が寝癖で跳ねている。
まだ子供のくせに、最近は無理に大人の顔をしようとする。
そういう顔は、たいてい似合わない。
「姉上」
「魚みたいに口を開けるのはやめなさい。今朝はまだ水槽を見たくないの」
レオンハルトは口を閉じた。
それから、勇気を出すように言った。
「本当に、アルトシュタイン様のところへ行かれるのですか」
「私に聞くの?」
「え」
「この家では、私の行き先は私以外の人間が決めるものらしいわ。あなたもその作法を覚えておきなさい。将来、立派な伯爵になれる」
少年の顔が赤くなった。
傷ついたのだろう。
シルヴィアは、それを見て胸の奥が鈍く痛んだ。
弟を憎んでいるわけではない。
けれど彼の存在が、自分の居場所を少しずつ押しやったことも確かだった。
「僕は……」
「何」
「姉上が、嫌なら」
レオンハルトはそこで言葉を詰まらせた。
シルヴィアは待った。珍しく、待った。
だが少年は続けられなかった。
彼はまだ、母の影から出るには幼すぎる。
父の沈黙を破るには、弱すぎる。
「いいわ」
シルヴィアは言った。
「あなたに期待した私が悪かった」
レオンハルトは青ざめた。
オットフリートが立ち上がる。
「シルヴィア、弟にまで――」
「弟?」
シルヴィアは笑った。
「ええ。弟ね。私が姉でいられるうちに、一度くらい姉らしいことを言ってあげるわ。黙っていると、人は勝手にあなたの人生を畳む。畳まれたくなければ、口を開きなさい。魚みたいでも、黙った肖像画よりはましよ」
それだけ言って、食堂を出た。
廊下の冷気が頬に触れる。
背後で、レオンハルトが何か言った気がした。
だがシルヴィアは振り返らなかった。




