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第4話 何を運ぶことになるのか

 翌朝、ヴィンツェンスは屋敷の裏門で荷を積んでいた。


 空は薄く曇っていた。庭の木々はまだ葉を持ちきれず、枝の先に春を迷わせている。

 馬は退屈そうに鼻を鳴らし、荷馬車の車輪には、昨日の泥が乾いてこびりついていた。


 シルヴィアは外套を羽織り、料理帳を布に包んで持っていた。


「レンテンハイマー」


 ヴィンツェンスは振り向いた。


「朝から災害とは、今日は天気が荒れますね」


「あなたの顔を見る限り、すでに荒れているわ」


「それで、何のご用でしょう」


「手紙を運んで」


 シルヴィアは封をした手紙を差し出した。


 宛名は、母の料理帳に書かれていた修道院の名だった。

 古い山間の修道院。

 エリーゼが若い頃、料理を学んだ場所だという。


 ヴィンツェンスは宛名を見て、眉を上げた。


「修道院ですか」


「読めるのね。商人も字を覚える時代になったのかしら」


「値段表を読めない商人は、貴族より早く破産します」


「それは残念。貴族は字が読めても破産するのに」


「身近な例は説得力がありますね」


 シルヴィアは手紙を押しつけた。


「届けて」


「お断りします」


 返事が早かった。


 シルヴィアは片目で彼を睨む。


「理由は」


「貴族の家庭問題は、湿った薪より煙が出ます。近づくと服に匂いがつく」


「安心して。あなたの服は最初から商人の匂いしかしないわ」


「これは商売道具です」


「ではこの手紙も商売にしなさい。運賃は払う」


「金額の問題ではありません」


「商人がその台詞を吐くと、少し神聖ね。墓石に刻んであげたいわ」


 ヴィンツェンスは、手紙を受け取らないまま、荷紐を締め直した。


「シルヴィア様。あなたの家の揉め事に、私が首を突っ込む理由はありません」


「母にスープをもらったくせに」


 ヴィンツェンスの手が止まった。


 風が、裏門のあたりを通り過ぎた。馬のたてがみが揺れる。


 シルヴィアは言ってから、少しだけ後悔した。

 だが後悔というものは、たいてい遅れてくる。遅れてくるものは役に立たない。


 ヴィンツェンスはゆっくり振り向いた。


「覚えていたんですか」


「忘れるほど、私の頭は上品にできていないわ」


「あれは、奥様が私にくださったものです。あなたが取り立てる借金ではない」


「分かっているわ」


「なら、その言い方はあまりよくない」


「ええ。私はあまりよくない人間だから」


 ヴィンツェンスは彼女を見た。


 いつものように、憐れまなかった。

 怒りもしなかった。


 ただ、少し疲れた顔をした。


「その修道院に、何があるんです」


「母の知人がいる。たぶん。料理帳に書いてあった」


「たぶん、ですか」


「人生なんて、だいたいたぶんで動くものよ。確実なのは、焦げた鍋と期限の来た借金くらい」


「嫌な確実性ですね」


「だから手紙を運んで」


「あなたは?」


「私は屋敷にいるわ。少なくとも、今は」


 ヴィンツェンスは、彼女の手にある布包みを見た。


「それは?」


「母の料理帳」


「持ち出していいものなんですか」


「いいわけがないでしょう」


「でしょうね」


「だから今、私が持っているの」


 ヴィンツェンスは小さく息をついた。


「やはり煙が出る」


「あなた、煙に弱いの?」


「煙より、その後に来る火事が嫌いです」


「怠け者ね」


「ええ。生き延びるには有用な性質です」


 彼は手を出した。


 シルヴィアは手紙を渡した。


 その時、指先が少し触れた。

 冷たい手だった。自分の手か、彼の手か、分からなかった。


「届けるだけです」


「ええ」


「あなたは乗せません」


「頼んでいないわ」


「念のためです。貴族の方は、頼んでいないことを後で命じたと言い張ることがありますので」


「それはいい知恵ね。貴族に近づかない方がいいわ」


「手遅れですね」


 ヴィンツェンスは手紙を内ポケットに入れた。


 それだけのことなのに、シルヴィアは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。

 腹立たしいことだった。自分の胸の重さが、他人の手一つで変わるなど。


 その時、屋敷の方からマルガレーテの侍女が小走りにやって来た。


「シルヴィア様。奥様がお呼びです」


「朝食ならいらないわ。客間の空気で胸がいっぱい」


「いえ、その……アルトシュタイン様より、先ほどお使いが。お迎えの日取りが、三日後に決まったと」


 シルヴィアは黙った。


 三日。


 早い。

 料理帳を預かるという昨夜の言葉。縁談の日取りが早まるという言葉。

 それらが一本の紐になって、首にかかった。


 ヴィンツェンスも黙っていた。


 侍女は困った顔で続けた。


「奥様が、お支度のご相談をと」


「分かったわ」


 シルヴィアはそう言った。


 声は静かだった。自分でも驚くほど。


 侍女が戻っていく。


 裏門に、少しの沈黙が残った。


「三日後だそうですよ」


 ヴィンツェンスが言った。


「耳は悪くないわ」


「それは何より」


「何よりではないわ。人を箱詰めにするには、少し急ぎすぎよ」


「箱詰めには向いていない性格ですしね」


「褒めているの?」


「かなり努力しています」


 シルヴィアは彼を見た。


 閉じた左目が、かすかに疼いた。

 母の目。

 自分が閉じている目。


 料理帳の重みが、腕にあった。


「ヴィンツェンス」


「はい」


「あなた、今日の午後には出るの?」


「その予定です」


「行き先は」


「西の宿場を回って、山道へ。修道院のある方角にも、まあ、遠くはありません」


「そう」


 シルヴィアは頷いた。


 それ以上は言わなかった。


 言えば、何かが決まってしまう気がした。

 だが言わなくても、もう何かは動き始めていた。


 ヴィンツェンスは荷台に最後の袋を積み、紐を締めた。


「シルヴィア様」


「何」


「料理帳は、隠すなら厨房の粉袋の中はやめた方がいい。誰でも思いつきます」


「ではどこがいいの」


「私なら、いちばん見られたくない場所に置きます」


「あなたの帳簿?」


「そこまで恐ろしい場所ではありません」


 シルヴィアは、初めて少し笑った。


 自分でも、笑ったことに気づくのが遅れた。


 ヴィンツェンスはそれを見ても、何も言わなかった。


 ただ、馬の首を軽く叩いた。


「では、手紙は預かります」


「落としたら許さないわ」


「落とすなら、もっと軽いものにします。人生とか」


「それはもう、だいぶ落としている顔ね」


「商人は低いところから始めた方が、転げ落ちる距離が短くて済みます」


 荷馬車が動き出す。


 シルヴィアはその背を見送った。


 車輪の音が石畳を離れ、裏門の外へ遠ざかっていく。


 三日後。

 アルトシュタイン。

 母の料理帳。

 荷馬車。


 それらの言葉が、彼女の中で、まだ形にならない一皿の材料のように並んでいた。


 どれもそのままでは食べられない。

 火がいる。

 塩がいる。

 そして、決める手がいる。


 シルヴィアは杖をつき、屋敷へ戻った。


 廊下は相変わらず冷えていた。


 けれどその冷たさは、昨日よりも少しだけ、他人のものに思えた。

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