第3話 閉じた琥珀と母の料理帳
夜になると、グラウベルク家はひどく大きくなる。
昼のあいだは使用人の足音や客の声で満たされている廊下も、夜には石と木と古い絵だけのものになった。
壁にかかった先祖の肖像は、燭台の火に揺られて、眠れぬ老人のようにこちらを見ていた。
シルヴィアは杖をつき、北棟の奥へ向かった。
母エリーゼの部屋は、今では物置に近かった。
誰もそう呼ばない。
だが、置かれた箱、古い布、使われなくなった小椅子、蓋の欠けた陶器。
そういうものが、部屋の名を勝手に変えていた。
鍵は、壊れてはいない。
ただ、長く使われていないために少し重い。
シルヴィアは鍵を回し、扉を開けた。
淡い埃の匂いがした。
昔、この部屋には乾いた花と焼き菓子の匂いがあった。
母は香水をあまり好まなかった。
代わりに、厨房から戻るといつも衣の袖に小麦粉や香草の匂いをつけていた。
貴婦人らしくない、と叔母たちは言った。
けれどシルヴィアは、その匂いが好きだった。
今はもう、何も残っていない。
残っているようで、何もない。
机の引き出しを開けると、古いリボンや便箋が出てきた。母の字は細く、柔らかい。だが、どこか芯があった。
何枚かをめくるうちに、奥に布で包まれた厚い帳面を見つけた。
表紙は革で、角は擦り切れ、紐は色褪せている。
シルヴィアは燭台を近づけ、表紙を開いた。
最初の頁に、母の字があった。
『台所覚え。けれど、台所は家の奥ではなく、世界の入口でもあります』
シルヴィアは、息を止めた。
頁をめくる。
豆を柔らかく煮る方法。
硬いパンをスープで戻す方法。
湿った塩を焼いて使う方法。
安い葡萄酒の酸味をごまかす方法。
旅人に出す塩スープ。
港町で食べた魚の煮込み。
修道院の台所で教わった菓子。
料理の横に、短い文章が添えられていた。
『空腹の人には、まず温かいものを。説教はその後でも遅くありません』
『よい肉ばかりが料理を作るのではありません。よい手間が、悪い肉を食べられるものにします』
『シルヴィアがいつか、自分の台所を持てますように』
その一文の前で、指が止まった。
自分の台所。
母は何を考えて、これを書いたのだろう。
娘が伯爵家の奥で、美しい皿に盛られた料理を選ぶ未来ではなく、火と塩と鍋に向かう未来を、少しでも考えていたのだろうか。
シルヴィアは帳面を閉じようとした。
だが、できなかった。
代わりに、閉じていた左目が、まぶたの裏で熱を持った。
「馬鹿みたい」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「今さら、こんなものを残して」
母の字は答えない。
優しい人だった。
優しすぎる人だった。
シルヴィアは母に似ていない。
母なら、客間でアルトシュタインにあんな言葉は返さなかっただろう。
父を責めず、弟を刺さず、継母を冷たく見なかっただろう。
母と同じ目を持っているのに。
母と同じ色を、閉じているのに。
扉が静かに叩かれた。
「シルヴィア」
マルガレーテの声だった。
シルヴィアは帳面を腕に抱いたまま、扉を見た。
「夜に先妻の部屋を訪ねる趣味がおありなの、奥様」
扉が開き、マルガレーテが入ってきた。
夜着ではない。まだ昼の装いに近い服を着ている。
家の女主人は、夜であっても隙を見せないらしい。
「灯りが見えたものですから」
「親切ね。泥棒なら、もっと上手く隠すわ」
「その帳面を見つけたのですね」
マルガレーテの目は、すぐに料理帳へ落ちた。
シルヴィアは抱える手に力を込めた。
「母のものよ」
「ええ。知っています」
「なら話は早いわ。私が持っていく」
「どこへ?」
「私の部屋へ。まさか帳面にも持参金の査定が必要なの?」
マルガレーテは、少し困ったように微笑んだ。
その微笑みが、シルヴィアは嫌いだった。
刃物の鞘のように、綺麗で、冷たい。
「嫁ぎ先へ、そのような古い台所の覚書をお持ちになる必要はありません」
「必要は、私が決めるわ」
「シルヴィア。あなたは伯爵家の娘です。厨房に入り浸ることも、料理人の真似をすることも、本来ならば望ましいことではありません」
「本来。本来。本来。便利な言葉ね。死んだ人間と古い家だけが好む言葉だわ」
「あなたのためを思って言っているのです」
シルヴィアは笑った。
「その言葉、今日はよく聞くわ。私のため。お父様のため。家のため。アルトシュタイン様のため。皆、言葉の皿だけは立派ね。中身は冷えた脂みたいだけれど」
「意地を張っても、あなたが苦しむだけです」
「苦しむことまで管理してくださるの?」
「あなたは、守られなければならない立場です」
シルヴィアは杖を突いた。石床が硬く鳴る。
「守る、というのは便利ね。閉じ込める時にも使えるもの」
マルガレーテの目が、わずかに細くなった。
「アルトシュタイン様とのお話は、よいお話です。あなたを受け入れるとおっしゃっている」
「受け入れるのは荷物。人間なら、まず尋ねるものよ。どこへ行きたいのかと」
沈黙。
マルガレーテは一歩だけ近づいた。
「その帳面は、明日、私が預かります」
「嫌よ」
「これはお願いではありません」
「なら命令ね。よかったわ。善意の顔をされるより、ずっと味がいい」
シルヴィアは料理帳を胸に抱いたまま、マルガレーテの横を通った。
足が痛む。
だが、今日は痛みが腹立たしさに負けていた。
扉を出る直前、マルガレーテの声が追った。
「嫁ぎの日取りが早まるかもしれません」
シルヴィアは振り向かなかった。
「そう。腐りかけの料理を急いで出す店は、たいてい潰れるわ」
そう言って、部屋を出た。




