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第2話 鍋は嘘をつかない

 厨房には、よく知った匂いがあった。


 玉ねぎを炒める匂い。煮詰まった肉汁。湿った薪。石床にこぼれた水。皿を洗う灰汁。

 貴族の客間より、こちらの方がずっと正直だった。


 鍋は嘘をつかない。


 火が弱ければ煮えない。

 塩が足りなければ不味い。

 腐った肉は、どんな香草でも最後には正体を現す。


 人間よりよほど信じられる。


「ブルーノ」


 シルヴィアが呼ぶと、老料理長は大鍋の前から振り向いた。白い髭の下で、口が少し動いた。


「お嬢様。客間はお済みで」


「ええ。あそこはよく冷えているわ。肉を吊るすには向いている」


「それは何よりでございます」


「何よりではないわ。今日のスープ、塩が鈍い」


 ブルーノは、困ったように棚の方を見た。


「納められた塩が少々湿っておりまして」


「少々? あなたの少々は、棺に入った人間を『少し寝ている』と言うのと同じ程度ね」


「耳が痛うございます」


「耳で味を見るからよ」


 シルヴィアは鍋に近づき、小皿に少し取って舐めた。


 やはり鈍い。海の味ではなく、倉の湿気の味がする。


「誰がこんな塩を持ってきたの」


「レンテンハイマーでございます」


 その名を聞いて、シルヴィアは一瞬だけ手を止めた。


 レンテンハイマー。


 父の代から出入りしている行商の家だ。

 子供の頃、父親に連れられて、よく痩せた少年が屋敷へ来ていた。

 荷車の陰で干し果物を盗み食いして、母に見つかっていた。

 母は叱らず、彼に温かいスープを出した。


 そんな記憶が、湯気のように立ちのぼる。


 厨房の外から、車輪の音と男たちの声がした。


「ちょうど到着したようでございます」


「返品して」


「もう開けております」


「では本人を鍋に入れなさい。少しは塩気が出るかもしれない」


 ブルーノが何か言う前に、裏口が開いた。


 入ってきた男は、埃をかぶった外套を着ていた。

 背は高いが、姿勢にどこか怠けたような緩さがある。

 黒に近い茶の髪を後ろで雑に結び、荷の帳面を片手に持っていた。


 ヴィンツェンス・レンテンハイマー。


 少年の頃より背が伸びた。

 痩せた顔つきはそのままだが、目元に薄い皮肉が住みついていた。

 人を見下す皮肉ではない。

 何かを諦めて、それでも笑わずにはいられない者の皮肉だった。


 彼はシルヴィアを見た。


 その視線は、彼女の杖を見た。閉じた左目を見た。

 だが、そこで止まらなかった。見なかったことにもしなかった。


 ただ、少しだけ黙った。


「お久しぶりです、シルヴィア様」


「久しぶりね。まだ荷物を運んでいるの」


「ええ。幸い、荷物の方は昔より口数が少ない」


「では今日は不運ね。私は喋るわ」


「災害は天候だけにしてほしいものです」


 ブルーノが咳払いした。

 厨房の若い者たちは、皿を洗う手を止めている。


 シルヴィアは、台の上に置かれた塩袋を指で叩いた。


「ひどい塩ね」


「安い塩ですから」


「安いことと、ひどいことは同義ではないわ。もっとも、あなたの人生では近い棚に並んでいるのかもしれないけれど」


「人生はまだそこまで安く仕入れていません」


「商人にしては、口が遅いのね」


「早口で喋ると賢そうに聞こえます。詐欺師と貴族がよく使う手です」


「喧嘩を売っているの?」


「今日は塩だけです。喧嘩は仕入れていません」


 シルヴィアは彼を見た。片目だけで。


 ヴィンツェンスも、目を逸らさなかった。


 多くの者は、彼女の閉じた目を見ないふりをする。

 もっと悪い者は、見ないふりをしている自分の優しさに酔う。


 この男は違った。

 見た。

 そして、何も言わなかった。


 それが少し、腹立たしかった。


「あなたの塩のせいで、スープが眠っているわ」


「起こすには?」


「香草を少し。あと火を強める。肉汁が弱い。玉ねぎを焦がす寸前まで戻して」


「塩を返品するより難しそうですね」


「難しいことを覚えなさい。人生よりは簡単よ」


 ヴィンツェンスは小さく笑った。


「では、人生は相当まずい料理らしい」


「ええ。しかも作り手が多すぎる」


 その時、厨房の扉の向こうから、遠く客間の笑い声が聞こえた。


 アルトシュタインの声だった。

 父の弱い笑い声も混じっている。


 シルヴィアは、鍋に向き直った。


 スープはまだ鈍い。

 だが、直せる。少なくとも料理は、直そうとすれば直る。


「ブルーノ、香草を」


「はい」


 ヴィンツェンスが台の上の袋を開けた。


「こちらの香草なら、湿った塩の罪を少しはごまかせます」


「罪はごまかすものではなく、火にかけて味に変えるものよ」


「物騒な料理哲学ですね」


「あなたの塩よりまし」


 シルヴィアは鍋をかき混ぜた。湯気が上がり、頬に触れた。


 厨房の窓から、庭が見えた。

 客間の窓とは違う低い窓だった。

 そこから見える空は狭い。

 けれど、狭い空の方がいくらか正直だった。


 ここではないどこか。


 その言葉が、ふと胸の底に沈んだ。


 けれど彼女は、それを誰にも言わなかった。


 ただ鍋に香草を落とした。

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