第1話 欠けた令嬢でも構わない
グラウベルク伯爵家の客間には、午後の光が静かに沈んでいた。
窓辺の白い薄絹は、風もないのにわずかに震えていた。
冬の名残を含んだ春の空気が、古い館の石壁を冷やしている。
磨かれた卓の上には銀の茶器が置かれ、薄い茶の湯気が上がっていたが、誰もその香りを楽しんではいなかった。
シルヴィア・フォン・グラウベルクは、肘掛椅子に深く腰かけていた。
右手には黒木の杖。
左足は、長く立つと痛む。今日は痛む日だった。雨は降っていないが、空が重い。そういう日は骨が先に天気を知る。
彼女は片目を閉じていた。
開いている右目は、父に似た冷たい灰青色。
閉じている左目は、亡き母エリーゼと同じ琥珀色だった。
向かいの長椅子に、コンラート・フォン・アルトシュタインが座っている。濃い葡萄酒色の上着を着た、よく手入れされた男だった。年はシルヴィアより一回りほど上に見える。髭は整えられ、指には重い指輪が光っていた。
彼は笑う時、必ず相手より先に自分の笑顔を確認するような顔をした。
父オットフリートは、暖炉のそばに立っていた。
継母マルガレーテは、その隣で静かに微笑んでいる。
腹違いの弟レオンハルトは、部屋の端で所在なげに膝の上の手を握っていた。
誰もが、今日という日が無事に済むことを願っていた。
シルヴィアを除いて。
「シルヴィア様」
アルトシュタインが、柔らかな声を出した。
「このたびのお話、私は大変光栄に思っております。グラウベルク家のような古い御家と縁を結べるなど、私には過分なことです」
「それはよかったわ。過分なものを好む方は、たいてい食べ過ぎて腹を壊すものだけれど」
オットフリートが眉を寄せた。
「シルヴィア」
「何かしら、お父様。私は相手の健康を案じただけよ」
アルトシュタインは、少しも怒らなかった。むしろ、その寛大さを見せる好機を得たように、口元をゆるめた。
「ご気性の鋭い方だと伺っておりました。ですが、私はそういうところも、魅力の一つだと考えております」
「便利な考えね。相手の欠点を魅力と呼べば、自分の忍耐が美徳に見えるもの」
「いえ、私は本心から申しております」
彼は少し身を乗り出した。
その動きが、シルヴィアには気に入らなかった。
近づく許可を出した覚えはない。
だが男というものは、親切な言葉を持つと、相手の境界を越えてよいと勘違いする。
「お身体のことも、お目のことも、私は気にしません」
客間の空気が、ほっと緩んだ。
父は、ほんのわずかに肩を落とした。
マルガレーテは、口元に品よく安堵を浮かべた。
レオンハルトだけが、姉の顔を見て、すぐに目を伏せた。
シルヴィアは、閉じた左目の奥で、古い痛みが小さく鳴るのを感じた。
お身体。
お目。
この男は、彼女を二つに分けた。足と目。それから残りの、名札のような女。
「気にしない」
シルヴィアは、ゆっくり繰り返した。
「はい」
「気にしない、という言葉は便利ね。見る気がない人間にも使えるもの」
アルトシュタインの笑顔が、一瞬だけ固まった。
オットフリートが低く咎める。
「シルヴィア、失礼だ」
「失礼? ではお父様は、この方が私の何を見たとお思い?」
「コンラート殿は、お前を受け入れるとおっしゃっている」
「受け入れる」
シルヴィアは小さく笑った。
「まるで、私は壊れた椅子か、欠けた皿みたいね。置き場に困るけれど、捨てるには惜しい。広い屋敷なら、物置の奥に入れても邪魔にはならないでしょう」
「そんな意味ではありません」
アルトシュタインが言った。声はまだ柔らかい。だが目だけが少し冷えた。
「私は、あなたの不自由も含めて――」
「含めないで」
シルヴィアは杖の頭を指で叩いた。乾いた音がした。
「私の足も目も、あなたの寛大さを飾る花ではないわ」
沈黙が落ちた。
銀の茶器から上る湯気だけが、場違いに優しかった。
マルガレーテが、穏やかな声で割って入った。
「シルヴィア。コンラート様は、あなたを気遣ってくださっているのです」
「ええ、見事な気遣いね。私の身体を話題にして、私の気持ちだけ置き忘れた」
「そのように意地を張っては、あなたが損をします」
「損得で結婚を測るのは、そちらの得意分野でしょう。私から匙を奪わないで」
マルガレーテは黙った。
この人は怒鳴らない。泣かない。
いつも品よく、正しく、静かに人を追いつめる。
シルヴィアはその静けさが嫌いだった。
濁った水の方がまだましだ。濁っていると分かるから。
オットフリートが疲れたように言った。
「少し、休みなさい」
「ええ。そうするわ。これ以上ここにいると、私の礼儀作法が息絶えるもの」
シルヴィアは杖をつき、立ち上がった。
左足に痛みが走る。
顔には出さない。
痛いと知られるくらいなら、相手を怒らせた方がいい。
怒っている者は、憐れまない。
扉へ向かう途中、レオンハルトと目が合った。
少年は何か言いたそうに唇を開いたが、すぐに閉じた。
シルヴィアは彼に言った。
「口を開けて黙るのは、魚の仕事よ」
レオンハルトは赤くなった。
その顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。
けれどシルヴィアは、それも無視した。
客間を出ると、廊下は冷えていた。
背後で、マルガレーテの声が小さく聞こえた。
「気難しい子で、申し訳ございません」
誰のための謝罪なのだろう、とシルヴィアは思った。
私のためではない。
それだけは確かだった。




