表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/11

第1話 欠けた令嬢でも構わない

 グラウベルク伯爵家の客間には、午後の光が静かに沈んでいた。


 窓辺の白い薄絹は、風もないのにわずかに震えていた。

 冬の名残を含んだ春の空気が、古い館の石壁を冷やしている。

 磨かれた卓の上には銀の茶器が置かれ、薄い茶の湯気が上がっていたが、誰もその香りを楽しんではいなかった。


 シルヴィア・フォン・グラウベルクは、肘掛椅子に深く腰かけていた。


 右手には黒木の杖。

 左足は、長く立つと痛む。今日は痛む日だった。雨は降っていないが、空が重い。そういう日は骨が先に天気を知る。


 彼女は片目を閉じていた。


 開いている右目は、父に似た冷たい灰青色。

 閉じている左目は、亡き母エリーゼと同じ琥珀色だった。


 向かいの長椅子に、コンラート・フォン・アルトシュタインが座っている。濃い葡萄酒色の上着を着た、よく手入れされた男だった。年はシルヴィアより一回りほど上に見える。髭は整えられ、指には重い指輪が光っていた。


 彼は笑う時、必ず相手より先に自分の笑顔を確認するような顔をした。


 父オットフリートは、暖炉のそばに立っていた。

 継母マルガレーテは、その隣で静かに微笑んでいる。

 腹違いの弟レオンハルトは、部屋の端で所在なげに膝の上の手を握っていた。


 誰もが、今日という日が無事に済むことを願っていた。

 シルヴィアを除いて。


「シルヴィア様」


 アルトシュタインが、柔らかな声を出した。


「このたびのお話、私は大変光栄に思っております。グラウベルク家のような古い御家と縁を結べるなど、私には過分なことです」


「それはよかったわ。過分なものを好む方は、たいてい食べ過ぎて腹を壊すものだけれど」


 オットフリートが眉を寄せた。


「シルヴィア」


「何かしら、お父様。私は相手の健康を案じただけよ」


 アルトシュタインは、少しも怒らなかった。むしろ、その寛大さを見せる好機を得たように、口元をゆるめた。


「ご気性の鋭い方だと伺っておりました。ですが、私はそういうところも、魅力の一つだと考えております」


「便利な考えね。相手の欠点を魅力と呼べば、自分の忍耐が美徳に見えるもの」


「いえ、私は本心から申しております」


 彼は少し身を乗り出した。


 その動きが、シルヴィアには気に入らなかった。

 近づく許可を出した覚えはない。

 だが男というものは、親切な言葉を持つと、相手の境界を越えてよいと勘違いする。


「お身体のことも、お目のことも、私は気にしません」


 客間の空気が、ほっと緩んだ。


 父は、ほんのわずかに肩を落とした。

 マルガレーテは、口元に品よく安堵を浮かべた。

 レオンハルトだけが、姉の顔を見て、すぐに目を伏せた。


 シルヴィアは、閉じた左目の奥で、古い痛みが小さく鳴るのを感じた。


 お身体。

 お目。


 この男は、彼女を二つに分けた。足と目。それから残りの、名札のような女。


「気にしない」


 シルヴィアは、ゆっくり繰り返した。


「はい」


「気にしない、という言葉は便利ね。見る気がない人間にも使えるもの」


 アルトシュタインの笑顔が、一瞬だけ固まった。


 オットフリートが低く咎める。


「シルヴィア、失礼だ」


「失礼? ではお父様は、この方が私の何を見たとお思い?」


「コンラート殿は、お前を受け入れるとおっしゃっている」


「受け入れる」


 シルヴィアは小さく笑った。


「まるで、私は壊れた椅子か、欠けた皿みたいね。置き場に困るけれど、捨てるには惜しい。広い屋敷なら、物置の奥に入れても邪魔にはならないでしょう」


「そんな意味ではありません」


 アルトシュタインが言った。声はまだ柔らかい。だが目だけが少し冷えた。


「私は、あなたの不自由も含めて――」


「含めないで」


 シルヴィアは杖の頭を指で叩いた。乾いた音がした。


「私の足も目も、あなたの寛大さを飾る花ではないわ」


 沈黙が落ちた。


 銀の茶器から上る湯気だけが、場違いに優しかった。


 マルガレーテが、穏やかな声で割って入った。


「シルヴィア。コンラート様は、あなたを気遣ってくださっているのです」


「ええ、見事な気遣いね。私の身体を話題にして、私の気持ちだけ置き忘れた」


「そのように意地を張っては、あなたが損をします」


「損得で結婚を測るのは、そちらの得意分野でしょう。私から匙を奪わないで」


 マルガレーテは黙った。


 この人は怒鳴らない。泣かない。

 いつも品よく、正しく、静かに人を追いつめる。

 シルヴィアはその静けさが嫌いだった。

 濁った水の方がまだましだ。濁っていると分かるから。


 オットフリートが疲れたように言った。


「少し、休みなさい」


「ええ。そうするわ。これ以上ここにいると、私の礼儀作法が息絶えるもの」


 シルヴィアは杖をつき、立ち上がった。


 左足に痛みが走る。

 顔には出さない。

 痛いと知られるくらいなら、相手を怒らせた方がいい。

 怒っている者は、憐れまない。


 扉へ向かう途中、レオンハルトと目が合った。

 少年は何か言いたそうに唇を開いたが、すぐに閉じた。


 シルヴィアは彼に言った。


「口を開けて黙るのは、魚の仕事よ」


 レオンハルトは赤くなった。


 その顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。

 けれどシルヴィアは、それも無視した。


 客間を出ると、廊下は冷えていた。


 背後で、マルガレーテの声が小さく聞こえた。


「気難しい子で、申し訳ございません」


 誰のための謝罪なのだろう、とシルヴィアは思った。


 私のためではない。

 それだけは確かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ