表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/31

第31話 片目はもう閉じない

 その少年が店に現れたのは、開店からひと月ほど経った日のことだった。


 昼の忙しさが過ぎ、鍋の火を弱めていた時、扉の鈴が鳴った。


 シルヴィアは顔を上げた。


 入り口に、レオンハルトが立っていた。


 旅装をしている。

 供は一人、店の外に控えているようだった。少年の顔には、疲れと緊張と、少しの意地があった。


 前より背が伸びたように見える。

 けれど、まだ子供だった。


「姉上」


「魚みたいに口を開けていないだけ、成長したわね」


 レオンハルトは、少しだけほっとしたような顔をした。


「来てはいけませんでしたか」


「もう来た後に聞く質問ではないわ。座りなさい」


「はい」


 少年は椅子に座った。


 ヴィンツェンスは奥から出てきて、レオンハルトを見ると、軽く頭を下げた。


「遠いところを」


「レンテンハイマーさん」


「今は帳簿係です」


「帳簿係?」


「ええ。女将に酷使されています」


「嘘を教えないで。酷使されるほど働いていないわ」


 レオンハルトは、少し笑った。


 その笑い方は父に似ていた。

 けれど父より、少しだけ若く、少しだけ正直だった。


「何を食べるの」


 シルヴィアが聞くと、レオンハルトは迷った。


「おすすめは」


「弱い人間の注文ね」


「では、姉上が一番自信のあるものを」


「もっと弱いわ。責任を料理人に押しつけるなんて、立派な貴族になれそうね」


「すみません」


「謝るほどではないわ。港魚と豆の煮込みでいい?」


「はい」


 シルヴィアは鍋に向かった。


 レオンハルトの視線を背中に感じる。

 彼は何を見ているのだろう。


 杖か。

 目か。

 姉が鍋を振っている姿か。

 伯爵家を出た女が、港町の小さな料理屋で働いていることか。


 シルヴィアは皿に煮込みをよそった。パンを添え、匙を置く。


 レオンハルトの前に出す。


「熱いから、急いで食べないこと」


 言ってから、ヴィンツェンスの方を見た。


「何です」


「別に。昔、熱いものを急いで食べる子供がいたと思って」


「嫌な記録ですね」


 レオンハルトは匙を取った。


 一口食べる。


 シルヴィアは黙って見ていた。

 客の感想を待つ時は、いつも少しだけ落ち着かない。相手が弟なら、なおさらだった。


 レオンハルトは、しばらく黙って食べた。


 そして言った。


「姉上の料理は、思ったより辛いです」


 シルヴィアは片眉を上げた。


「人生よりは薄味よ」


 レオンハルトは少し笑った。


「でも、おいしいです」


「最初からそう言いなさい」


「はい」


 少年はまた食べた。


 その途中で、彼はシルヴィアの顔を見た。


 シルヴィアは、左目を閉じていなかった。


 琥珀色の目で、弟を見ていた。


 レオンハルトは、それに気づいた。

 目がわずかに揺れた。


 だが彼は何も言わなかった。


 姉弟の間で、それは珍しくよい沈黙だった。


「父は」


 シルヴィアが聞いた。


「時々、塩を強めにしています」


「そう」


「意味は分かっていないと思います」


「でしょうね」


「でも、そうしています」


 シルヴィアは少し黙った。


 それから言った。


「なら、死ぬほど薄味な人生からは少し遠ざかるわ」


「父上に伝えます」


「伝えなくていい。あの人は言葉を受け取るのが下手だから」


「はい」


「あなたは?」


「僕は」


 レオンハルトは匙を置いた。


「姉上が、ここにいるのを見に来ました」


「見物料を取ればよかったわ」


「払います」


「冗談よ。半分は」


「半分……」


「もう半分は、次に来た時に豆を持ってきなさい。グラウベルク領の豆は煮ると悪くない」


 レオンハルトの顔が、少し明るくなった。


「また来ても?」


「豆があるなら」


「なくても?」


「その時の料理人の機嫌によるわ」


 ヴィンツェンスが横から言った。


「機嫌は変動相場です。豆より高い」


「黙りなさい、帳簿係」


「はい、女将」


 レオンハルトは笑った。


 それは、屋敷では聞いたことのない笑い方だった。


 夕方、レオンハルトは帰っていった。


 シルヴィアは店の前で見送った。

 港の風が吹いている。少年の背は、まだ少し頼りない。

 だが、来た時よりはまっすぐだった。


 彼は一度だけ振り返り、頭を下げた。


 シルヴィアは手を振らなかった。

 ただ、杖の先で石畳を一度叩いた。


 それで十分だった。


 店へ戻ると、ヴィンツェンスが厨房の壁に彼女の杖を立てかけていた。


「勝手に触ったわね」


「杖に聞きました」


「杖は喋らない」


「最近は、少し無口になりました」


「持ち主に似たのかしら」


「それはないでしょう」


「あなた、今日の夕食」


「抜かれますか」


「いいえ。味見係にするわ。南の塩を使う」


「高かったので慎重に」


「私の機嫌よりは安いのでしょう」


「比較が難しい」


「正解は、私の機嫌の方が高い、よ」


「覚えています」


「仕入れは?」


「していません」


「賢明ね」


 シルヴィアは鍋の前に立った。


 足は痛む。

 今日も痛む。

 この先も、たぶん痛む。


 それでも、ここに立てる。

 長く立てない日は座ればいい。

 座って味を決めてもいい。

 客は皿を見て、匙を取る。


 左目は開いていた。


 世界はまだ広すぎる。

 港の空は特に広い。海まである。目に余るほどだ。


 けれど、その広さの中に、狭い厨房があった。

 杖を立てかける壁があった。

 鍋があり、匙があり、帳簿を抱えた皮肉屋がいた。


 シルヴィアは塩をつまみ、鍋へ落とした。


「少ないですね」


 ヴィンツェンスが言った。


「あなた、私に意見するほど偉くなったの」


「共同経営者ですから」


 シルヴィアは手を止めた。


 湯気が二人の間に上がる。


「……なら、味見なさい。共同経営者」


「はい」


 ヴィンツェンスは匙を取り、鍋の中身をすくった。


 熱いはずなのに、少し急いで口に運ぶ。


 シルヴィアは眉を寄せた。


「熱いものを急いで食べる癖、まだ直っていないのね」


「記録の長い欠点です」


「欠点は直すものよ」


「あなたが言いますか」


「何か?」


「いいえ」


 彼は少し考え、言った。


「うまいです」


「当然よ」


「塩は、もう少しだけ」


「生意気ね」


「共同経営者ですから」


「その言葉、便利に使いすぎると値下がりするわよ」


「では、大事に使います」


 シルヴィアはもう一つまみ、塩を入れた。


 外では、港の鐘が鳴っていた。


 客の足音が近づいてくる。

 扉の鈴が揺れる。


 杖と匙亭の夜が始まる。


 シルヴィアは杖を壁に預けたまま、鍋の前に立っていた。

 琥珀色の目を閉じずに。

 灰青色の目も逸らさずに。


 そして、最初の客へ向かって言った。


「座りなさい。空腹なら、まず食べることね。人生の話は、その後でも遅くないわ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ