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第29話 杖と匙亭

 港町ヴィルトハーフェンは、潮の匂いでできていた。


 海。魚。濡れた縄。樽。古い酒。船底の油。汗。乾かない洗濯物。朝の市場に並んだ鱈と鰯。

 春の風は、内陸の丘で感じるものとは違っていた。

 ここでは風がいつも塩を含んでいる。


 シルヴィアは、最初の朝、その匂いに顔をしかめた。


「町全体が塩漬けね」


 ヴィンツェンスは、荷馬車から樽を下ろしながら言った。


「保存には向いています」


「人間を保存してどうするの」


「税吏は腐っていますが、長持ちします」


「それは保存に失敗しているわ」


 港の外れ、石畳が少し崩れた通りに、その店はあった。


 もとは小さな食堂だったらしい。

 扉は軋み、壁は煤で黒ずみ、窓枠は傾いていた。

 床も少し沈む。厨房は狭い。

 竈は古く、鍋を吊るす鉤は錆びている。

 二階には寝られるだけの小部屋が二つ。

 雨が降れば、どこかから水が入るだろう。


 ヴィンツェンスが、やや気まずそうに言った。


「安い理由は、ご覧の通りです」


 シルヴィアは杖で床を叩いた。

 鈍い音がする。


「床が死にかけているわ」


「生前契約を結べそうですか」


「直せば使える。竈は?」


「煙突が少し詰まっています」


「掃除。窓は?」


「立てつけが悪い」


「直す。壁は?」


「見なかったことに」


「あなた、料理人なら殺されているわよ」


「商人で助かりました」


 シルヴィアは厨房へ入った。


 狭い。

 ひどく狭い。


 けれど、鍋を置く場所はある。

 火を入れる場所もある。

 水場も遠くない。

 裏口から市場へも出やすい。


 悪くない。


 彼女は母の料理帳を台の上に置いた。

 古い帳面は、旅のあいだに少し傷んでいた。

 頁の端は曲がり、表紙には小さな擦り傷がある。

 けれど、それは汚れではなく、道の跡だった。


「店の名は」


 ヴィンツェンスが聞いた。


「決めていないの?」


「私は物件と税吏の悪口で手一杯でした」


「役に立つようで立たない男ね」


「よく言われます」


 シルヴィアは、自分の杖を見た。


 黒木の杖。

 先には、ヴィンツェンスが巻いた不格好な革。

 旅の泥を吸い、川の水を浴び、果樹園の土を噛んだ杖。


 それから、台の上の匙を見た。

 前の店主が残していった、古い木の匙だった。少し欠けているが、磨けば使える。


「杖と匙亭」


 彼女は言った。


 ヴィンツェンスは、少しだけ目を細めた。


「直球ですね」


「何か文句が?」


「いいえ。看板が描きやすい」


「そこ?」


「店は看板から始まります」


「料理から始まるのよ」


「客は看板を見てから料理を食べます」


「では看板も食べられるものにしなさい」


「難題ですね」


 そうして、杖と匙亭は始まった。


 始まったと言っても、最初の数日は店ではなかった。修理場だった。


 ヴィンツェンスは床板を外し、釘を打ち、煙突を掃除し、港の古道具屋から椅子を安く買ってきた。

 シルヴィアは竈を磨き、鍋を洗い、壁の煤を削り、使える皿と捨てる皿を分けた。


 初日の夕方には、二人とも煤だらけになった。


 シルヴィアは自分の袖を見た。


「伯爵令嬢の死体みたいね」


「死体にしてはよく喋ります」


「あなた、葬儀でも帳簿をつけそう」


「香典は重要です」


「最低」


「経営者ですから」


 経営者。


 その言葉は、まだ似合わなかった。

 けれど、嫌ではなかった。



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