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第28話 何者でもなくなる

 アルトシュタインの馬車が去ったあと、ハルデンベルク家の果樹園には、しばらく誰も声を出さなかった。


 春の風だけが、若い林檎の枝を撫でている。

 蕾はまだ固い。

 白い花になりきれないまま、枝先で小さく震えていた。


 シルヴィアは、ヴィンツェンスの外套の上に座っていた。


 足の痛みは、波のように寄せては返した。

 強い波が来るたび、膝の奥で白い火が散る。

 けれど顔には出さない。

 出していないつもりだった。


 ヴィンツェンスは彼女の少し横に膝をついていた。


 近すぎず、遠すぎず。

 手を伸ばせば届くが、勝手には触れない距離。


「まだ立てませんか」


「立てるわ」


「では、いつ立ちますか」


「あなたが腹の立つ質問をやめたら」


「今日は座ったままになりそうですね」


「あなたを椅子にしてもいいなら、少し早まるかもしれない」


「私は家具としての耐久性に不安があります」


「商人としても似たようなものよ」


 ヴィンツェンスは小さく笑った。


 その笑い方が、さっきまでと少し違っていた。

 軽い皮肉の皮を被っているが、中に疲れがある。

 いや、疲れだけではない。

 怖れもある。

 彼は怖いのだ。シルヴィアが戻れなくなることが。


 シルヴィアはそれをもう理解していた。


 だから腹が立った。


 自分より先に、自分の帰る場所を心配するな、と言いたかった。

 けれど、それが完全な侮辱ではないことも分かっていた。


 分かることが、余計に腹立たしかった。


 屋敷の方から、男爵夫人と家令エーベルハルトが歩いてきた。

 少し後ろに、ハルデンベルク家の下男がいる。彼は盆を持ち、その上に封書を載せていた。


 エーベルハルトは、果樹園の入口で足を止めた。


「お嬢様」


「まだいたの」


「グラウベルク家より、奥様のお手紙をお預かりしております」


「早いわね。私が倒れるより先に手紙が用意されているなんて、手際だけはよい家だわ」


 エーベルハルトは答えなかった。


 ヴィンツェンスが立ち上がり、封書を受け取った。

 だが、シルヴィアに渡す前に少しだけ躊躇した。


「読みますか」


「読めないと思う?」


「読みたくないものを読むのは、字が読めることとは別です」


「余計な区別を覚えたのね」


「あなたのおかげで」


 シルヴィアは封書を取った。


 封蝋にはグラウベルク家の紋章が押されている。

 山道と古い塔。

 子供の頃から見てきた印だった。

 閉じられた門のようにも、棺の蓋のようにも見えた。


 彼女は封を切った。


 字はマルガレーテのものだった。


 整った、隙のない字。

 礼儀正しく、冷たい字。


『シルヴィア様。

 このたびの件につき、グラウベルク家は深く憂慮しております。旦那様も大変心を痛めておられます。

 今お戻りになるならば、すべては一時のご体調の乱れ、ならびに旅路における誤解として収めることができます。アルトシュタイン様とのお話も、なお修復の余地がございます。

 しかし、これ以上お戻りにならない場合、当家としてもあなたを庇護し続けることは困難となります。あなたの名誉、持参金、将来の縁組、そしてグラウベルク家の名を名乗ることについて、重大な支障が生じます。

 あなたはこのままでは、何者でもなくなります。

 どうか賢明なご判断を。

 マルガレーテ・フォン・グラウベルク』


 読み終えて、シルヴィアはしばらく手紙を見つめていた。


 紙は白い。

 字は黒い。

 その間に、自分の人生が押し込められている。


 何者でもなくなる。


 なるほど、と彼女は思った。

 継母らしい言葉だ。家名、持参金、名誉、縁組。

 ひとつずつ皿に並べて、どれも失うぞと示している。

 毒は入っていない。毒を入れる必要がないほど、よくできた料理だった。


 ヴィンツェンスが、低く言った。


「何と」


「何者でもなくなるそうよ」


 声に出すと、その言葉は思ったより軽かった。


 男爵夫人が、気遣わしげに言う。


「シルヴィア様……」


「慰めは不要よ。今は噛む力が残っているから」


 夫人は黙った。


 エーベルハルトは、淡々と続ける。


「馬車はまだお待ちしております。旦那様は、お戻りを望んでおいでです」


「望んでいるのに、自分では来ないのね」


「旦那様はご体調が」


「ええ。父は昔から、決めなければならない時に具合が悪くなるのが上手だったわ」


 エーベルハルトの顔が、わずかにこわばった。


「お嬢様。お言葉が過ぎます」


「まだ足りないくらいよ」


 シルヴィアは手紙を畳んだ。


 手が少し震えていた。

 痛みのせいか、怒りのせいか、少しだけ残った悲しみのせいか。

 分からない。

 分からないものは、今は全部痛みのせいにしておけばいい。


 ヴィンツェンスは黙っていた。


 彼が何も言わないことが、シルヴィアには分かった。

 今度は戻れと言わない。言いたいのかもしれない。言えば楽なのかもしれない。

 それでも言わない。


 それが、少しだけ嬉しくて、やはり腹立たしかった。


「ヴィンツェンス」


「はい」


「私は、あなたと逃げたいから戻らないんじゃないわ」


「それは安心しました」


「最後まで聞きなさい。本当に腹の立つ男ね」


「努力しています」


 シルヴィアは手紙を膝の上に置いた。


 左目を開けた。

 琥珀色の目に、春の光が入る。

 世界が少し広くなる。

 広すぎて、まだ怖かった。

 けれど今日は閉じなかった。


「私は、私の皿を出せる場所へ行きたいの」


 声は、思ったより静かだった。


「母の娘でも、グラウベルクの傷物でも、アルトシュタインの寛大さを飾る女でもなく。足が悪いとか、目の色が違うとか、そういう話より先に、味で人を黙らせられる場所へ行きたい」


 ヴィンツェンスは、彼女を見ていた。


 エーベルハルトが口を開く。


「お嬢様、それはあまりに――」


「黙りなさい」


 シルヴィアは家令を見た。


「私は今、初めて自分の行き先を話しているの。あなたの許可は要らない」


 エーベルハルトは言葉を失った。


 男爵夫人は、胸の前で手を組んでいる。

 ハルデンベルク男爵は、いつの間にか果樹園の入口に立っていた。彼も黙っていた。


 シルヴィアは、もう一度手紙を見た。


「何者でもなくなる」


 小さく呟く。


 その言葉は、さっきより少し違って聞こえた。


 何者でもない。

 それは、恐ろしいことだ。


 グラウベルクの娘でない。

 伯爵令嬢でない。

 婚約者でない。

 保護されるべき傷物でない。

 母の面影でもない。


 恐ろしい。


 けれど、空いている皿のようでもあった。


 そこに何を盛るかは、自分で決められる。


「ようやく何者でもなくなれるのね」


 シルヴィアは言った。


「悪くないわ」


 風が、果樹園を通った。


 若い蕾が揺れた。


 ヴィンツェンスは、少し長く黙っていた。

 それから、帽子を取り、髪をかき上げた。


「遠い港町に、空いた店があります」


 シルヴィアは彼を見た。


「急に何」


「知り合いの船具商が、古い食堂跡を持っています。場所は悪い。床は傾いている。潮の匂いは強い。税吏は腐っています」


「魚は新鮮?」


「魚は悪くない」


「では合格ね」


「簡単に決めますね」


「人生の大事なことは、たいてい腹が減っている時か、足が痛い時に決まるのよ」


「不安な格言です」


「あなたの帳簿よりは信用できるわ」


 ヴィンツェンスは小さく笑った。


 その笑みは、疲れていた。

 けれど、もう逃げてはいなかった。


「行くなら、今夜には出た方がいい。ハルデンベルク家にも迷惑がかかります」


 男爵が慌てたように言った。


「いや、迷惑など」


「かかるわ」


 シルヴィアが言った。


「私の面倒は、湿った薪より煙が出るそうだから」


 ヴィンツェンスが肩をすくめた。


「引用されると痛いですね」


「便利な言葉は使い回すものよ。商人から学んだわ」


 エーベルハルトが、硬い声で言った。


「では、お戻りにはならないと」


「ええ」


「旦那様へは、そのように」


「伝えなさい。私は料理帳を持っていく、と」


「それだけでよろしいのですか」


 シルヴィアは少し考えた。


 父。

 母の部屋。

 継母の整った字。

 弟レオンハルトの言いかけた言葉。


 全部を斬り捨てるには、まだ少し重かった。


「レオンハルトには」


 シルヴィアは言った。


「あの子が魚みたいに口を開けた時、今度は少しくらい言葉を出しなさい、と伝えて」


 エーベルハルトは、わずかに目を伏せた。


「承知いたしました」


「それから、父には」


 シルヴィアは手紙を見下ろした。


「塩を少し強めにして食べなさい、と」


「……それは」


「伝えれば分かるわ。分からなければ、それまでよ」


 エーベルハルトは深く一礼した。


 彼の背中が遠ざかっていく。


 グラウベルク家の馬車も、やがて屋敷を出ていった。


 その音を聞きながら、シルヴィアは杖を握った。


 ヴィンツェンスが言う。


「立てますか」


「立つわ」


「手を」


 彼はそこで言葉を止めた。


 シルヴィアは彼を見た。


「今日は許すわ」


 ヴィンツェンスは手を差し出した。


 シルヴィアは、その手を取った。


 大きな手だった。少し硬く、鉄粉と革と馬の匂いがした。貴族の手ではない。皿を運び、荷を積み、手綱を握る手だった。


 彼女はその手を借りて立った。


 左足は痛む。

 世界は揺れる。

 けれど立った。


「勘違いしないで」


「何を」


「足が痛いだけよ」


「分かっています」


「本当に?」


「少しだけ、分かっていません」


「正直ね」


「嘘をつくには、これからの道が長すぎます」


 シルヴィアは、遠く西の空を見た。


 港町など、見たこともない。

 海の匂いも知らない。

 魚が新鮮かどうかも、まだ分からない。


 けれど、そこには客間がない。

 アルトシュタインもいない。

 グラウベルクの古い肖像画もない。


 あるのは、たぶん、汚れた床と狭い厨房と、鍋だ。


 なら、悪くない。


 シルヴィアは手紙を火に入れた。


 果樹園の端で、小さな炎が紙を舐める。

 グラウベルクの紋章が黒く縮み、灰になった。


 その灰は、思ったより軽かった。

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