第27話 足の痛みとアルトシュタイン
屋敷の方から、馬車の音がした。
それはグラウベルク家の使いの馬車より重く、整っていた。車輪の軋みまで金持ちの音がする。嫌な音だった。
ヴィンツェンスが振り向いた。
「来ます」
「誰が」
「たぶん、もっと面倒な方です」
果樹園の入口に、男が現れた。
コンラート・フォン・アルトシュタインだった。
灰色の外套をまとい、手袋をはめている。
従者が二人、少し後ろに控えていた。
彼は泥一つつけていない。山道の果樹園へ来たというのに、靴まで綺麗だった。
そういう男なのだ、とシルヴィアは思った。
汚れに近づいても、自分は汚れないと信じている男。
「シルヴィア様」
アルトシュタインは、柔らかく言った。
「お探しいたしました」
「私は落とし物ではないわ」
「ご気分がすぐれないと伺いました」
「誰から?」
「皆が心配しております」
「便利ね、皆。名前を出さずに人を縛れる」
アルトシュタインは微笑んだまま、ヴィンツェンスを見た。
「レンテンハイマー殿。あなたにも迷惑をかけましたね」
「迷惑は日々の仕事ですので」
「寛大なお言葉だ」
「いえ、諦めです」
アルトシュタインの目が、一瞬だけ冷えた。
だがすぐに、彼はシルヴィアへ向き直った。
「お戻りください。あなたの家も、私も、あなたを責めるつもりはありません」
「それはありがたいわ。責められないことを、こんなに苦痛に感じる日が来るとは思わなかった」
「シルヴィア様」
彼は少し近づいた。
ヴィンツェンスが、ごく自然にその横へ立った。
前ではない。
盾のように庇う位置でもない。
ただ、同じ線の上に。
アルトシュタインはそれを見た。
「あなたは、誤解しておられる」
「何を」
「私は、あなたを縛りたいわけではありません」
「縛る人間は、縄を花で飾るものよ」
「私はただ、あなたを受け入れたいのです」
シルヴィアは笑った。
痛みのせいで、立っているのも難しい。
だがその言葉は、彼女を立たせた。
杖を地面に突く。
革の先が土を噛む。
ヴィンツェンスが少し動きかけたが、止まった。
シルヴィアは自分で立った。
「その言葉、好きね」
アルトシュタインは穏やかに言う。
「本心です。あなたの欠けたところも含めて、私は受け入れるつもりでした」
風が止まったようだった。
欠けたところ。
足。
瞳。
口の悪さ。
痛み。
母に似ていないこと。
母と同じ目を閉じていること。
この男は、それらを一つの籠に入れた。
そして、その籠を持ち上げる自分の姿に満足している。
シルヴィアは、ゆっくり息を吸った。
「あなたが欲しいのは、私ではないわ」
アルトシュタインの笑みが固まった。
「何を」
「私を受け入れるあなた自身よ。足の悪い令嬢を、異色の目の女を、気性の難しい娘を、それでも許す寛大な男。あなたはそれが欲しいの」
「ひどい誤解です」
「ええ、ひどいわね。誤解であってほしかった」
「私はあなたを思って」
「私の足を気にしないと言う人間は多いわ」
シルヴィアは杖に体重を預けた。
足は焼けるように痛む。
だが、声は出た。
「けれど、私がどこへ行きたいかを尋ねた人間は、一人もいなかった」
アルトシュタインは黙った。
その沈黙が、答えだった。
「あなたも尋ねなかった。父も。継母も。皆、私をどこへ置けば丸く収まるかだけを考えた」
「あなたは興奮している」
「便利ね。女の言葉が都合悪くなると、すぐ興奮にできる」
「シルヴィア様」
「名前を呼ばないで」
声が鋭くなった。
「私を受け入れると言うなら、まず私を見なさい。足でも、目でも、欠けたところでもなく、私を。できないなら、その寛大さを持ってお帰りなさい。飾る壁なら、あなたのお屋敷にいくらでもあるでしょう」
アルトシュタインの頬が、わずかに赤くなった。
初めてだった。
彼の礼儀正しい顔に、ひびが入った。
「後悔なさいますよ」
「もうしているわ」
シルヴィアは言った。
「あなたと顔合わせをした日から」
従者の一人が動いた。
ヴィンツェンスが半歩前へ出る。
それだけで、従者は止まった。
ヴィンツェンスは穏やかに言った。
「ここはハルデンベルク家の敷地です。力ずくは、少々帳尻が悪い」
「行商人が口を出すことではない」
「ええ。ですから、今のは商人としての忠告です。揉め事は高くつきます」
アルトシュタインはヴィンツェンスを睨んだ。
「君は、自分の立場を分かっているのか」
「分かっているつもりです。分かりすぎていて、時々嫌になります」
「なら退きなさい」
「それはできません」
「なぜ」
ヴィンツェンスは、少しだけシルヴィアを見た。
「荷物を途中で捨てる商売はしていませんので」
「誰が荷物よ」
「返品不可の方です」
シルヴィアは、こんな時なのに笑いそうになった。
アルトシュタインはもう笑っていなかった。
「グラウベルク家は、このままならあなたを守れなくなる。家名も、持参金も、庇護も失いますよ」
「そう」
「それでもよいと?」
シルヴィアは、果樹園の向こうを見た。
若い林檎の蕾が、白く固いまま枝に付いている。
まだ咲いていない。
けれど、咲かないとは誰にも言えない。
「よいかどうかは、私が決めるわ」
アルトシュタインは、深く息を吸った。
そして、礼をした。
「では、正式なご返答として承ります」
「ようやく話が通じたわね」
「後日、グラウベルク家より通告があるでしょう」
「手紙なら読めるわ。料理帳ほど面白くはないでしょうけれど」
彼は答えず、従者を連れて去った。
馬車の音が遠ざかる。
果樹園には、また風が戻った。
シルヴィアは、立っていた。
立っている。
けれど、もう限界だった。
膝から力が抜ける。
今度は、倒れる前にヴィンツェンスが外套を差し出した。
身体には触れなかった。
シルヴィアは、その外套を掴むようにして、ゆっくり座った。
「触らないのね」
「殺されたくないので」
「馬鹿ね」
「ええ」
「少しは、支えなさい」
ヴィンツェンスは一瞬だけ目を見開いた。
それから、慎重に、彼女の背中を支えた。
シルヴィアは、彼の腕に体重を少しだけ預けた。
ほんの少しだけ。
「勘違いしないで」
「何を」
「足が痛いだけよ」
「分かっています」
「本当に?」
「ええ」
「嘘ね」
「少し」
シルヴィアは目を閉じた。
左目も、右目も。
痛みはひどかった。
失うものも、これから増えるのだろう。
けれど、さっき自分は立っていた。
誰かに受け入れられるためではなく。
誰かに許されるためでもなく。
自分の言葉で、立っていた。
それだけは、痛みよりも確かだった。




