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第25話 戻れと言う男

 ヴィンツェンスは、鍛冶場から来た。


 手にはまだ鉄粉がついていた。外套の袖も汚れている。客間や食堂には似合わない姿だった。

 だから、少し安心した。


 彼は状況を見ると、すぐに帽子を取った。


「これはまた、朝から立派な面倒ですね」


 シルヴィアは言った。


「あなた、私を誘惑したそうよ」


「それは初耳です。ずいぶん無謀な商売を始めたものですね、私は」


 アルトシュタイン家の使者が、不快そうに眉を動かした。


「冗談では済みません」


「ええ。私も冗談で済ませたい」


 ヴィンツェンスはシルヴィアを見た。


 その目に、いつもの緩い皮肉はあった。けれど奥に、別のものもあった。恐れに似たものだった。


「シルヴィア様」


「何」


「戻る理由はあります」


 彼女は、しばらく何も言わなかった。


 耳に入った言葉を、心が拒んでいる。そんな感じだった。


「あなたがそれを言うの」


「私が言わなければ、誰が言います。あなたの家の人間は、自分に都合のいいことしか言わない」


「あなたも都合が悪いから、私を戻したいのね」


「ええ」


 あっさりと認めた。


 胸のどこかが、静かに冷えた。


「非常に悪い。あなたがこのまま来ると、私はたぶん困ります」


 その言葉は、奇妙に柔らかかった。


 困る。


 彼の声の中で、その言葉だけが妙に重い。

 まるで、落とせば割れる皿を両手で持っているようだった。


 シルヴィアは笑った。


「困るから、戻れと?」


「戻れるうちは、戻る道を残すべきです」


「誰のために?」


「あなたのために」


「その言葉、今日で何度目かしら」


「私の言い方も、あなたの家の言い方と同じに聞こえますか」


「聞こえるわ」


 ヴィンツェンスは黙った。


 シルヴィアは一歩、杖を突いた。


「父もそう言った。継母もそう言った。アルトシュタインもきっとそう言うわ。みんな、私のため。私のために、私を動かす。私のために、私を黙らせる。私のために、私の行き先を決める」


「私は黙らせたいわけではありません」


「でも戻れと言う」


「戻ることも、選択です」


「違うわ。私の場合、戻ることは、選ばなかったふりをして選ばされることよ」


 食堂の空気が張りつめた。


 ハルデンベルク男爵夫妻は、息を潜めている。

 家令は顔を動かさない。使者は不快そうだった。


 シルヴィアは、それらを全部見た。


 見たうえで、ヴィンツェンスだけを見た。


「あなたは、私が戻った方が楽なのね」


「楽です」


「正直ね」


「嘘をつくには疲れています」


「それで、私を楽な方へ押すの」


「違います」


「何が違うの」


 ヴィンツェンスは、少しだけ顔を伏せた。


「あなたがこのまま来れば、戻れる家も、名も、庇護も失うかもしれない」


「知っているわ」


「知っているだけと、失ってから知るのは違います」


「商人らしい言い方ね。損をする前に帳簿を見ろと」


「そうです」


「でも私の人生は、あなたの帳簿ではないわ」


 彼は返事をしなかった。


 シルヴィアは、食堂を出ようとした。

 ヴィンツェンスが一歩動く。


「どこへ」


「息をしに」


「一人で?」


「ええ。あなたが戻れと言うなら、道案内は要らないでしょう」


「シルヴィア様」


「ついて来ないで」


 声が、思ったより低く出た。


 ヴィンツェンスは止まった。


 その一瞬が、また痛かった。


 止めてほしかったのか。

 止めないでほしかったのか。


 自分でも分からない。


 分からないことが、何より腹立たしかった。


 シルヴィアは食堂を出た。


 廊下は長く、よく磨かれていた。杖の音が響く。

 一歩ごとに、左足が痛む。

 痛みは確かだった。自分がまだ自分の身体の中にいることだけは、教えてくれる。


 外へ出ると、空は白く晴れていた。


 屋敷の庭を抜ける。

 馬場の脇を通る。

 小道へ出る。


 どこへ行くつもりなのか、考えていなかった。


 ただ、歩いた。


 戻れと言われた場所から、少しでも離れたかった。


 杖の先の革が、乾いた土を噛む。

 昨日より歩きやすい。

 それがまた、あの男の仕業だと思うと、胸が詰まる。


「馬鹿な男」


 小さく呟いた。


「馬鹿な女ね、私も」


 足の痛みは、少しずつ鋭くなった。


 それでも歩いた。


 歩けるうちは、歩いた。


 やがて小道は、屋敷の外れの果樹園へ入った。

 若い林檎の木が並んでいる。

 まだ花は少ない。

 白い蕾が、寒さに耐えるように枝先で固まっていた。


 シルヴィアは一本の木の下で立ち止まった。


 息が苦しい。

 足が熱い。

 膝から下が、自分のものではないようだった。


 そのまま、立っていられなくなった。


 杖が滑ったわけではない。

 足が、ただ終わった。


 身体が傾く。


 今度は泥ではなく、乾いた草の上だった。


 空が見えた。

 白い空だった。


 シルヴィアは歯を食いしばった。


 泣くものか。


 戻れと言われて泣くなど、あまりに安い。


 そう思ったのに、目の奥が熱かった。


 閉じていた琥珀色の目の方が、先に熱くなった。

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