第24話 銀の匙の音
ハルデンベルク家の朝は、銀の匙の音で始まった。
それはグラウベルク家の朝とよく似ていた。
皿は白く、卓布は硬く糊づけされ、窓から入る光まで行儀よく磨かれているようだった。
シルヴィアは食堂に座っていた。
昨夜より左足が重い。
階段を避け、客間を避け、厨房へ降りたせいだろう。
鍋の前にいる時は、痛みが少し遠ざかる。だが夜が明ければ、痛みは律儀に戻ってくる。
借金取りに似ているとシルヴィアは思った。
逃げたつもりでも、翌朝には扉の前にいる。
男爵夫人が、上品に微笑んだ。
「シルヴィア様、昨夜はよくお休みになれまして?」
「ええ。寝台が柔らかすぎて、罪悪感に沈みそうでした」
「まあ」
「冗談よ。沈むほど良心は残っていないわ」
夫人は微笑んだまま、困った目をした。
この食卓は息が詰まる。
パンは白く、バターはなめらかで、果物は銀皿に整えられている。何も悪くない。何も間違っていない。だから余計に味が遠い。
シルヴィアは窓の外を見た。
鍛冶場の方で、ヴィンツェンスが馬車の車輪を確かめているのが見えた。遠くて表情は分からない。けれど、あの怠そうな背中は分かる。
夫人が声を潜めた。
「その、シルヴィア様。ご事情は存じませんけれど……お家の方には、お知らせを?」
「私の家は、たいてい私より先に私の事情を知りたがるわ」
「ご心配なさっているでしょう」
「そうでしょうね。箱の中身が勝手に歩けば、誰でも慌てるわ」
「箱?」
「こちらの話よ」
その時、食堂の扉が開いた。
家令が入ってきて、男爵に耳打ちした。
男爵の顔色が変わる。
夫人も、すぐに何かを察した顔になった。
シルヴィアは匙を置いた。
「何かしら」
男爵はぎこちなく笑った。
「いえ、その。お客様が」
「私宛て?」
「おそらくは」
「グラウベルク家?」
「……はい」
シルヴィアは、妙に落ち着いていた。
来るだろうとは思っていた。
むしろ遅いくらいだった。
父ではない。
継母でもない。
来るのは、家令か使者だろう。家というものは、決定的な場面ほど本人ではなく代理人を出す。責任が少し薄まるからだ。
「通して」
男爵夫人が慌てた。
「ですが、お食事中ですし」
「冷めた食事は温められるわ。冷めた用件は、腐るだけよ」
しばらくして、二人の男が食堂へ入ってきた。
一人はグラウベルク家の家令、エーベルハルトだった。
細い顔、灰色の髪、隙のない黒服。
幼いころから屋敷にいた男だ。
彼はシルヴィアが転んでも、手を貸す前に周囲の目を確認する種類の人間だった。
もう一人は、アルトシュタイン家の紋章をつけた使者だった。
使者は礼をした。
「シルヴィア様。お迎えに上がりました」
「早いわね。私を腐りやすい魚か何かだと思っているの?」
家令エーベルハルトが口を開く。
「お嬢様。旦那様も奥様も、大変ご心配でございます」
「そう。では心配を木箱に詰めて送って。今は荷台に余裕がないけれど」
「お戯れを」
「戯れに見えるなら、あなたの目は節穴として立派に成熟しているわ」
ハルデンベルク男爵夫妻は、青ざめて黙っていた。
使者は穏やかに言った。
「アルトシュタイン様は、今回のことを大事にはなさらないとおっしゃっています」
「今回のこと?」
「一時のご混乱と」
「便利ね。女が自分で歩くと、混乱と呼べるのだから」
「シルヴィア様のお立場を守るためでございます」
「私の立場は、私の足より不自由なのね」
家令は眉を寄せた。
「お嬢様。このままでは、レンテンハイマーにも疑いがかかります」
その名が出た瞬間、シルヴィアは家令を見た。
「疑い?」
「お嬢様を連れ去った、あるいは誘惑したと見られても仕方がございません」
「私を誘惑? レンテンハイマーが?」
シルヴィアは小さく笑った。
「彼にそんな勤勉さがあると思う?」
使者は笑わなかった。
「アルトシュタイン様は寛大なお方です。今お戻りになれば、行商人の男にも罪は問わないよう取り計らうと」
「寛大。あの方は本当にその言葉がお好きね。皿に盛って毎朝食べていらっしゃるのかしら」
エーベルハルトが一歩進んだ。
「お嬢様、馬車をご用意しております。まずはグラウベルク家へ。旦那様がお待ちです」
「父が?」
「はい」
「自分で来なかったのね」
エーベルハルトは黙った。
それだけで答えは十分だった。
シルヴィアは立ち上がった。
杖を取る。足が痛む。
だが、いま椅子に座ったままではいられなかった。
「ヴィンツェンスを呼んで」
「お嬢様」
「呼びなさい。あなたの耳は、階段の上に置いてきたわけではないでしょう」
家令は硬い顔で頭を下げた。




