表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
24/31

第24話 銀の匙の音

 ハルデンベルク家の朝は、銀の匙の音で始まった。


 それはグラウベルク家の朝とよく似ていた。

 皿は白く、卓布は硬く糊づけされ、窓から入る光まで行儀よく磨かれているようだった。


 シルヴィアは食堂に座っていた。


 昨夜より左足が重い。

 階段を避け、客間を避け、厨房へ降りたせいだろう。

 鍋の前にいる時は、痛みが少し遠ざかる。だが夜が明ければ、痛みは律儀に戻ってくる。

 借金取りに似ているとシルヴィアは思った。

 逃げたつもりでも、翌朝には扉の前にいる。


 男爵夫人が、上品に微笑んだ。


「シルヴィア様、昨夜はよくお休みになれまして?」


「ええ。寝台が柔らかすぎて、罪悪感に沈みそうでした」


「まあ」


「冗談よ。沈むほど良心は残っていないわ」


 夫人は微笑んだまま、困った目をした。


 この食卓は息が詰まる。

 パンは白く、バターはなめらかで、果物は銀皿に整えられている。何も悪くない。何も間違っていない。だから余計に味が遠い。


 シルヴィアは窓の外を見た。


 鍛冶場の方で、ヴィンツェンスが馬車の車輪を確かめているのが見えた。遠くて表情は分からない。けれど、あの怠そうな背中は分かる。


 夫人が声を潜めた。


「その、シルヴィア様。ご事情は存じませんけれど……お家の方には、お知らせを?」


「私の家は、たいてい私より先に私の事情を知りたがるわ」


「ご心配なさっているでしょう」


「そうでしょうね。箱の中身が勝手に歩けば、誰でも慌てるわ」


「箱?」


「こちらの話よ」


 その時、食堂の扉が開いた。


 家令が入ってきて、男爵に耳打ちした。

 男爵の顔色が変わる。

 夫人も、すぐに何かを察した顔になった。


 シルヴィアは匙を置いた。


「何かしら」


 男爵はぎこちなく笑った。


「いえ、その。お客様が」


「私宛て?」


「おそらくは」


「グラウベルク家?」


「……はい」


 シルヴィアは、妙に落ち着いていた。


 来るだろうとは思っていた。

 むしろ遅いくらいだった。


 父ではない。

 継母でもない。

 来るのは、家令か使者だろう。家というものは、決定的な場面ほど本人ではなく代理人を出す。責任が少し薄まるからだ。


「通して」


 男爵夫人が慌てた。


「ですが、お食事中ですし」


「冷めた食事は温められるわ。冷めた用件は、腐るだけよ」


 しばらくして、二人の男が食堂へ入ってきた。


 一人はグラウベルク家の家令、エーベルハルトだった。

 細い顔、灰色の髪、隙のない黒服。

 幼いころから屋敷にいた男だ。

 彼はシルヴィアが転んでも、手を貸す前に周囲の目を確認する種類の人間だった。


 もう一人は、アルトシュタイン家の紋章をつけた使者だった。


 使者は礼をした。


「シルヴィア様。お迎えに上がりました」


「早いわね。私を腐りやすい魚か何かだと思っているの?」


 家令エーベルハルトが口を開く。


「お嬢様。旦那様も奥様も、大変ご心配でございます」


「そう。では心配を木箱に詰めて送って。今は荷台に余裕がないけれど」


「お戯れを」


「戯れに見えるなら、あなたの目は節穴として立派に成熟しているわ」


 ハルデンベルク男爵夫妻は、青ざめて黙っていた。


 使者は穏やかに言った。


「アルトシュタイン様は、今回のことを大事にはなさらないとおっしゃっています」


「今回のこと?」


「一時のご混乱と」


「便利ね。女が自分で歩くと、混乱と呼べるのだから」


「シルヴィア様のお立場を守るためでございます」


「私の立場は、私の足より不自由なのね」


 家令は眉を寄せた。


「お嬢様。このままでは、レンテンハイマーにも疑いがかかります」


 その名が出た瞬間、シルヴィアは家令を見た。


「疑い?」


「お嬢様を連れ去った、あるいは誘惑したと見られても仕方がございません」


「私を誘惑? レンテンハイマーが?」


 シルヴィアは小さく笑った。


「彼にそんな勤勉さがあると思う?」


 使者は笑わなかった。


「アルトシュタイン様は寛大なお方です。今お戻りになれば、行商人の男にも罪は問わないよう取り計らうと」


「寛大。あの方は本当にその言葉がお好きね。皿に盛って毎朝食べていらっしゃるのかしら」


 エーベルハルトが一歩進んだ。


「お嬢様、馬車をご用意しております。まずはグラウベルク家へ。旦那様がお待ちです」


「父が?」


「はい」


「自分で来なかったのね」


 エーベルハルトは黙った。


 それだけで答えは十分だった。


 シルヴィアは立ち上がった。

 杖を取る。足が痛む。

 だが、いま椅子に座ったままではいられなかった。


「ヴィンツェンスを呼んで」


「お嬢様」


「呼びなさい。あなたの耳は、階段の上に置いてきたわけではないでしょう」


 家令は硬い顔で頭を下げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ