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第23話 貴族の食卓

 客間は暖かかった。


 壁には狩猟の絵がかかり、暖炉には火が入っている。

 窓辺には白い花が置かれていた。

 椅子は柔らかく、茶は香り高い。

 まるでグラウベルク家へ戻ったようだった。


 夫人は、シルヴィアに毛布を勧めた。


「お足が冷えてはいけませんわ」


 シルヴィアは笑った。


「冷える前から悪いので、ご心配なく」


 夫人は笑顔をこわばらせた。


 こういう部屋では、言葉はすぐ壁に当たる。

 厨房なら湯気に混じって消える皮肉も、客間では銀の皿に載って返ってくる。


 夕食には、館の食堂へ案内された。


 長い卓に白布がかかり、銀器が並ぶ。

 蝋燭の火は高く、皿の縁には紋章が入っている。

 料理は立派だった。

 鹿肉の赤葡萄酒煮、白いパン、川魚の香草焼き、根菜のクリーム煮、澄んだスープ。


 どれも整っていた。


 整いすぎていた。


 シルヴィアは匙を取った。


 スープは澄んでいる。塩も正しい。香草も控えめ。何も間違っていない。


 なのに、味がしなかった。


 鹿肉は柔らかい。魚も焼きすぎていない。パンは白く、手触りもよい。

 だが口の中を通り過ぎるだけだった。


 夫人が微笑んだ。


「お口に合いまして?」


「ええ。欠点の少ない料理ね」


「まあ」


「褒めているのよ。欠点が少ないというのは、覚えづらいという意味でもあるけれど」


 男爵が咳をした。


「シルヴィア様は、相変わらず率直でいらっしゃる」


「相変わらずをご存じなの?」


「お噂は」


「噂は便利ね。会わずに人を知った気になれる」


 食卓が静かになった。


 その静けさの中で、シルヴィアはふと思った。


 ヴィンツェンスは今、どこで食べているのだろう。


 裏手の鍛冶場か、使用人の食堂か、馬小屋の脇か。

 粗末な椀で、熱いものを急いで飲んでいるのかもしれない。


 その方が、うまそうだと思った。


 シルヴィアは自分の皿を見た。


 白い皿。

 銀の匙。

 柔らかな肉。


 これは、自分のいるべき食卓なのだろうか。


 そう問うと、胸の奥がひどく冷えた。


 食後、夫人は客間で茶を勧めた。

 シルヴィアは足が痛むと言って断った。


 足は実際に痛んでいた。

 便利な真実だった。


 だが部屋へ戻る途中、彼女は客室へは向かわなかった。

 廊下の角を曲がり、灯りの少ない方へ進んだ。


 厨房の匂いがした。


 湯気。灰。肉汁。焼けたパン。

 その匂いを追えば、迷わなかった。


 厨房は、食後の片づけで忙しかった。


 使用人たちは、シルヴィアを見て驚いた。

 銀の食堂から客人が降りてくる場所ではないのだろう。

 彼女はその驚きを無視し、奥へ進んだ。


 裏の小部屋で、ヴィンツェンスは木椀を持っていた。


 彼の前には、使用人たちのまかないがあった。

 黒パン、残り野菜の煮込み、硬いチーズ、薄い麦酒。


 彼はシルヴィアを見ると、少し眉を上げた。


「上の食卓はお気に召しませんでしたか」


「味がしなかったわ」


「それは料理人が気の毒ですね」


「違うわ。私の舌の問題よ」


 ヴィンツェンスは椀を置いた。


「座りますか」


「そこは使用人の席でしょう」


「あなたは今、客人の廊下から逃げてきた人です。分類が難しい」


「では、難しいまま座るわ」


 彼は椅子を一つ空けた。


 シルヴィアは座った。

 椅子は固かった。だが、食堂の柔らかすぎる椅子より落ち着いた。


 ヴィンツェンスは自分の椀を少し押した。


「食べますか」


「残り物?」


「残り物をどう扱うかで、厨房の品性が分かります」


「偉そうね」


「さっき聞いた言葉を再利用しました」


 シルヴィアは匙を取った。


 野菜の煮込みは、見た目は悪い。切り方も揃っていない。塩は少し強い。だが、温かかった。

 黒パンは硬いが、煮込みに浸すと食べられる。


 シルヴィアは一口食べた。


「こっちの方がましね」


「上の料理人が泣きます」


「泣けば塩分が足されるわ」


「料理人に厳しい」


「泣いている暇があるなら鍋を見なさい、という話よ」


 ヴィンツェンスは少し笑った。


 厨房の奥では、皿の音がしている。

 誰かが小声で歌っている。

 食堂の銀器の音より、こちらの方がずっと気楽だった。


「あなたは」


 シルヴィアは匙を止めた。


「ここに座っていて、腹が立たないの?」


「何にです」


「私が上で、あなたが下にいることよ」


「よくあることです」


「よくあるから、腹が立つのよ」


「腹を立てるには体力が要ります。今日は車輪で使いました」


「あなたはいつも逃げるのね」


「逃げ足は商人の基本技能です」


「私は逃げ足が悪いわ」


「知っています」


「否定しないの?」


「否定したら怒るでしょう」


「ええ。怒るわ」


「では正解です」


 シルヴィアは煮込みを見た。


 湯気がゆっくり上がる。

 食堂の皿には、湯気まで礼儀正しく見えた。ここでは、湯気が勝手に立っている。


「私は、上の食卓に戻れるのかしら」


 自分で言ってから、少し驚いた。


 そんなことを、ヴィンツェンスに聞くつもりはなかった。


 彼はしばらく黙っていた。


「戻ることはできます」


「ずいぶん簡単に言うのね」


「戻るだけなら、道はあります。まだ」


「まだ」


「ええ」


 その「まだ」が、シルヴィアの胸に冷たく落ちた。


 ヴィンツェンスは、窓の外を見た。

 鍛冶場の方で、誰かが車輪を打つ音がしている。

 金属音は遠く、夜の中で硬かった。


「戻るなら、早い方がいい」


 シルヴィアは彼を見た。


「あなたがそれを言うの」


「私が言わなければ、誰が言います」


「父や継母と同じことを言うのね」


「たぶん、違う理由で」


「理由が違えば、言葉の味も変わるとでも?」


「料理なら変わります」


「人間の言葉は、もっと性質が悪いわ」


 ヴィンツェンスは返事をしなかった。


 その沈黙が、先ほどまでの心地よい沈黙とは違っていた。

 冷たい隙間がある。向こう側に何かが見えるが、まだ名前が分からない。


「私を戻したいの?」


「戻れるなら、戻る道を残すべきだと思っています」


「それは私のため?」


「あなたのためであり、私のためでもあります」


「正直ね」


「嘘をつくには疲れています」


「なら、私がこのまま戻らなかったら、あなたは困るのね」


「ええ」


 シルヴィアは匙を置いた。


「どのくらい」


 ヴィンツェンスは苦笑した。


「帳簿に書けないくらいには」


「商人にしては重い答えね」


「だから困っています」


 厨房の外から、使用人が顔を出した。


「レンテンハイマーさん、車輪の留め金、鍛冶が見たいって」


「すぐ行きます」


 ヴィンツェンスは立ち上がった。


 シルヴィアは座ったまま、彼を見た。


「逃げるのね」


「車輪が呼んでいます」


「最近、あなたの周りの物は本当によく喋る」


「あなたの影響でしょう」


 彼はそう言って、出ていった。


 残された煮込みは、まだ温かかった。


 シルヴィアは匙を取った。

 もう一口食べる。


 味はした。


 けれど、その味は少し苦かった。


 その夜、ヴィンツェンスは鍛冶場で車輪を見ながら、冷えた金具の光を眺めていた。


 シルヴィアは、あの食堂へ戻れなくなり始めている。

 それは彼にも分かった。


 そして、自分はそれを喜んではいけない。


 彼女が戻る場所を失うことと、自分の隣へ来ることは、同じではない。


 同じにしてはいけない。


 金槌の音が、夜に響いた。


 ヴィンツェンスは目を閉じ、深く息を吐いた。


 困ったことになった。

 それだけは、もう帳簿に書くまでもなかった。

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