第20話 母のスープ
昼を過ぎると、道は山へ向かい始めた。
なだらかな登りだったが、荷馬車にはこたえる。
馬はゆっくり歩き、車輪は石を噛んで跳ねた。
森は深くなり、枝のあいだから陽が細い針のように落ちていた。
シルヴィアは母の料理帳を開いていた。
昨日グレータにもらった豆をどう使うか考えていたのだが、頁をめくる手が、あるところで止まった。
『白豆の塩スープ。雨の日、寒い日の旅人に。肉は少なくてよい。玉ねぎは焦がさない。塩は一度に入れないこと。ヴィンツェンス少年は熱いものを急いで食べるので、少し冷ましてから出すこと』
シルヴィアは、その行をしばらく見た。
ヴィンツェンス少年。
母の字で、そう書かれていた。
荷馬車が石に乗り上げ、帳面が揺れた。
「どうかしましたか」
御者台から声がした。
「あなた、熱いものを急いで食べる子供だったの?」
ヴィンツェンスの背が、わずかに固まった。
「……何を読んでいるんです」
「母の料理帳。あなたの悪癖まで記録されているわ」
「奥様は、余計なことをよく覚えておられた」
「余計なことに救われる人間もいるのでしょう」
彼は返事をしなかった。
シルヴィアは帳面を閉じた。
「今夜はこれを作るわ」
「私の過去を煮るわけですか」
「安心して。あなたの過去だけなら味が薄そうだから、豆も入れる」
「豆に感謝します」
夕方、二人は森の中の古い休憩小屋に泊まることにした。
修道院へ向かう道は、ここからさらに北西へ折れる。
だが日が暮れてから山道へ入るのは危ない、とヴィンツェンスは言った。
小屋には石の炉があり、壁には古い旅人の落書きが残っていた。
誰かの名前。祈り。悪口。日付。
人間はどこへ行っても、自分がそこにいた証を残したがるらしい。
シルヴィアは鍋を出し、豆を水に浸した。
白鳥亭でもらった豆は悪くない。少し古いが、煮れば柔らかくなる。
玉ねぎは小ぶり。燻製肉は少し。塩は、ヴィンツェンスの荷から出したもの。以前よりましな塩だった。
「今日は塩がまともね」
「私の名誉が少し回復しましたか」
「塩の名誉だけね」
「私に到達するには、まだ距離がありますね」
「山より遠いわ」
ヴィンツェンスは薪を割り、火を起こした。
シルヴィアは玉ねぎを薄く切った。
母の包丁は手によく馴染む。
刃が小さい分、細かな仕事に向いていた。
豆を煮る。
玉ねぎをゆっくり炒める。焦がさない。燻製肉を小さく切る。塩は少しずつ。母の字の通りだった。
煮立つ匂いが、小屋に広がる。
ヴィンツェンスは炉の向こう側で、火を見ていた。
その顔が、いつもより静かだった。
「覚えているの」
シルヴィアが聞いた。
「何をです」
「このスープ」
「覚えています」
「どんな味だった?」
「熱かった」
「それだけ?」
「子供でしたから」
「子供でも味は分かるわ」
「では、温かかった」
シルヴィアは鍋をかき混ぜた。
温かかった。
それは味の感想ではない。
だが、料理の感想としては間違っていない。
ヴィンツェンスは少し間を置いて言った。
「父に叱られた日でした」
「何をしたの」
「塩袋を一つ落として、湿らせました」
「昔から塩に罪があるのね」
「私に罪がありました」
彼は火を見たまま続けた。
「父は厳しい人でした。商売には当然ですが。私はまだ子供で、荷は重く、手は小さかった。けれど塩を落とせば損が出る。損が出れば、食べるものが減る。そういう家でした」
「それで母がスープを?」
「ええ。厨房の端で、これを出してくれました。父に見つからないようにというほどではありませんが、父が怒鳴る前に、少し食べなさいと」
「母らしいわ」
「そうですね」
シルヴィアは、鍋の湯気を見つめた。
母らしい。
その一言は、胸の奥に細い針のように入った。
母はそういう人だった。
腹を空かせた子供を見ると、身分など忘れる。
叱る前に食べさせる。
相手が行商人の子でも、厨房の端に座らせる。
シルヴィアはそうではない。
彼女なら、塩袋を落とした子供に、まず皮肉を言っただろう。
損を計算し、手際の悪さを指摘し、それから、たぶん、ようやく椀を出す。
母と同じ目を持っているのに。
「私は母に似ていないわ」
言葉は、鍋の湯気に混じって出た。
ヴィンツェンスは、あまりにも早く答えた。
「そうですね」
シルヴィアは木匙を止めた。
「少しは慰めなさい」
「慰めるところでしたか」
「人が母に似ていないと言ったら、普通は『そんなことはない』くらい言うものよ」
「普通の返事が必要なら、普通の人間に言うべきでしたね」
「本当に腹の立つ男ね」
「努力はしています」
シルヴィアは彼を睨んだ。
ヴィンツェンスは、困ったようでもなく、からかうようでもなく、ただ静かにこちらを見た。
「奥様に似ていない方がいいこともあります」
「どういう意味」
「奥様は、たぶんあなたほど客に文句を言わせない料理人ではなかった」
「褒めているの?」
「かなり努力しています」
「努力の跡が見えづらいわ」
「商人は原価を隠すものです」
シルヴィアは、言葉を返そうとして、できなかった。
母の代わりではない。
母の影でもない。
この男は、そう言っているのだろうか。
そうだとしたら、ずいぶん遠回しで、愛想がなく、下手な言い方だった。
けれど、シルヴィアには、その下手さが少しだけありがたかった。




