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第18話 味を決めるものが一番偉い

 厨房脇の小部屋は、たしかに物置だった。


 壁には古い桶が積まれ、床には麦袋が置かれている。

 窓は小さく、寝台はない。

 だが広間の騒がしさからは離れていたし、一階だった。


 シルヴィアは椅子に座り、左足を少し伸ばした。


 足は怒っていた。

 自分の身体の一部のくせに、他人のように言うことを聞かない。


 ヴィンツェンスは桶を動かし、寝られるだけの場所を作っている。


「見ないで」


「桶を見ています」


「私の足の話よ」


「足より桶の方が片づけやすい」


「あなた、本当に腹が立つわ」


「よく言われます」


「誰に」


「最近は主にあなたに」


 シルヴィアは言い返そうとして、やめた。


 厨房から女将の声が飛んできた。


「仕込みだよ。口の悪いお嬢さん、動けるかい」


「足は悪いけれど、舌は動くわ」


「なら十分だ」


 シルヴィアは杖を取り、立ち上がった。


 厨房は熱かった。


 大きな竈が三つ。鍋が二つ。焼き台が一つ。

 壁には鍋、匙、皿、乾いた香草、肉を吊るす鉤。

 床は古く、ところどころ水で濡れている。屋敷の厨房より粗いが、こちらの方が生きていた。


 女将は大鍋の前に立ち、玉ねぎを刻んでいた。


「名前は」


 シルヴィアが聞くと、女将は振り返らずに答えた。


「グレータ」


「そう。グレータ、鍋が煮立ちすぎているわ」


「挨拶より先に鍋かい」


「鍋は待ってくれないもの。人間は怒らせておけば勝手に喋るわ」


 グレータは笑った。


「お嬢さん、名前は」


「シルヴィア」


「家名は?」


「今は煮込みに入れないわ」


「わかった。聞かないでおく」


 ヴィンツェンスが横から言った。


「珍しく分別のある方で助かります」


「うちの客は、名前より支払いが大事だからね」


「よい宿です」


「支払いが遅れたら追い出すよ」


「厳しい宿です」


 シルヴィアは鍋を見た。


 中身は肉と根菜の煮込みだった。

 悪くない。

 だが火が強すぎる。

 肉が硬くなりかけている。

 塩はまだ早い。

 香草を入れるなら後だ。


「火を落として」


「客が多いんだ。早く出さないと怒る」


「硬い肉を早く出しても怒るわ」


「旅人は腹が膨れりゃいいんだよ」


「それは、料理人が負けた時の言い訳ね」


 グレータの手が止まった。


 怒るかと思った。

 だが彼女は、しばらくシルヴィアを見てから、ふっと笑った。


「面白いね。あんた、鍋には容赦ない」


「鍋は嘘をつかないもの」


「人は?」


「だいたい嘘をつくわ」


「そりゃそうだ」


 グレータは火を少し落とした。


 シルヴィアは玉ねぎの炒め直しを指示し、ヴィンツェンスには硬いパンを薄く切らせた。

 ヴィンツェンスは手際よく動く。

 商人のくせに、厨房で足を引っ張らない。


 それが少し、気に入らなかった。


「パンが厚いわ」


「紙のように薄くしろとは聞いていません」


「聞かなくても察しなさい」


「貴族の命令はいつも余白が多い」


「商人の言い訳はいつも厚い」


 グレータが大声で笑った。


「いいねえ、あんたたち。夫婦漫才かい」


「違うわ」


「違います」


 二人の声が重なった。


 厨房の下働きの娘が、くすっと笑った。


 シルヴィアはその娘を睨んだ。


「笑う暇があるなら皿を温めなさい。冷たい皿は料理への裏切りよ」


「は、はい」


 娘は慌てて皿を運んだ。


 グレータは感心したように言った。


「怖いねえ」


「仕事が遅い人間には優しくできないの」


「仕事が早い人間には?」


「文句を言うわ。早すぎると雑になる」


「結局言うんじゃないか」


「黙っていると舌が鈍るもの」


 煮込みは、少しずつ形を変えた。


 肉は硬くなりすぎる前に火が落ち、根菜は崩れずに柔らかくなる。

 玉ねぎの甘みが戻り、パンが汁を受ける。

 香草は最後に。

 塩は、客の汗を考えて少し強め。


 グレータが味見して、目を細めた。


「悔しいね。うまい」


「悔しがる暇があるなら、覚えなさい」


「あんた、本当に貴族の娘なのかい」


「今は鍋の前にいるわ」


「そうか。なら料理人だ」


 その言葉に、シルヴィアは少しだけ黙った。


 料理人。


 令嬢ではなく。

 傷物でもなく。

 欠けた女でもなく。


 ただ、料理人。


 グレータは何気なく言ったのだろう。

 けれど、その何気なさがよかった。


 夕食時、広間には煮込みが運ばれた。

 客たちは匙を取り、麦酒を飲み、声を上げて笑う。

 誰もシルヴィアの足の話をしなかった。目の話もしなかった。


 ただ、一人の客が叫んだ。


「今日の煮込み、うまいぞ!」


 グレータが厨房から怒鳴った。


「いつももうまいよ!」


「今日は特にだ!」


「うるさいね、黙って食べな!」


 シルヴィアは鍋の前で、少し笑いそうになった。


 グレータが隣で言った。


「客はね、こっちが美人かどうかなんて腹が膨れたら忘れるよ。不味けりゃ一生覚えてるけどね」


 シルヴィアは鍋を見た。


「いい言葉ね。少し下品だけれど」


「うちは上品を売ってないんでね」


「賢いわ。上品は腹にたまらない」


 グレータは、シルヴィアの杖をちらりと見た。

 今度は、憐れむ目ではなかった。


「あんた、鍋の前なら立てるんだね」


「長くは無理よ」


「長く立つだけが仕事じゃない。座って味を決める女将もいる」


 シルヴィアは顔を上げた。


「女将?」


「何だい、その顔。宿でも料理屋でも、鍋の味を決める奴が一番偉いんだよ。足が速いかどうかなんて、客は勘定の時には忘れてる」


 シルヴィアは黙った。


 女将。

 料理屋。

 鍋の味を決める者。


 その言葉は、胸のどこかに小さく置かれた。

 まだ熱くはない。まだ形もない。

 けれど、火にかければ何かになりそうだった。


 夜、客が引いた後、シルヴィアは厨房脇の小部屋へ戻った。


 足は痛んだ。

 ひどく痛んだ。


 だが今日の痛みも、昨日の痛みと似ていた。


 ただ奪われた痛みではない。

 何かをした後の痛みだった。


 ヴィンツェンスは床に毛布を敷いていた。


「どうでした、料理人殿」


「誰が料理人よ」


「グレータさんがそう呼んでいました」


「耳がいいのね。余計なことだけ」


「商売には必要です」


「なら聞いておきなさい。今日のあなたのパンの切り方は、ぎりぎり許せる範囲だったわ」


「それは光栄です」


「光栄に思うほどではない」


「難しい評価ですね」


 シルヴィアは杖を壁に立てかけ、椅子に座った。


 閉じていた左目を、少し開けたままにしていることに気づいた。


 ヴィンツェンスも気づいたかもしれない。

 だが、何も言わなかった。


 代わりに、彼は小さな布袋を彼女に投げた。


「何」


「温めた豆です。足に当てると少しはましです」


「誰が頼んだの」


「豆が自発的に」


「最近、あなたの周囲の物はよく喋るのね」


「あなたの影響でしょう」


 シルヴィアは布袋を受け取った。

 温かかった。


 膝の上に置くと、じんわりと熱が広がる。


「悪くないわ」


「豆に伝えておきます」


「あなたには言っていない」


「分かっています。傷つかずに済みました」


 小部屋の外では、グレータが下働きの娘を叱る声がしていた。

 広間では、最後の客が笑っている。

 竈の火は落とされ、厨房はまだ温かい。


 シルヴィアは目を閉じた。

 左目だけではなく、両方を。


 暗闇の中で、鍋の湯気が見えた気がした。


 遠いどこかに、自分の台所がある。


 まだ名前もない。

 場所もない。

 けれど、今日初めて、それが絵空事ではない気がした。

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