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第17話 宿場の女将

 その日の夕方、二人は次の宿場へ入った。


 町というほどのものではない。

 山道へ向かう分かれ道に、古い旅籠と馬小屋が寄り添うように建っている。

 看板には、剥げかけた白い鳥の絵が描かれていた。


 白鳥亭、と書かれている。


 だが看板の鳥は、白鳥というより年老いた鶏に見えた。


「趣味のある看板ね」


 シルヴィアが言うと、ヴィンツェンスは馬を止めながら答えた。


「旅人は疲れているので、鳥の種類までは気にしません」


「私は気にするわ」


「あなたは旅人としての修行が足りない」


「看板を見分けられなくなる修行なら、したくないわね」


 白鳥亭の戸を開けると、中から熱と匂いが押し寄せた。


 麦酒。汗。煮込み。濡れた外套。馬の革具。煙。

 旅籠の匂いは、いくつもの人生を一つの鍋で煮たようなものだった。


 広間には旅人が多かった。

 商人、巡礼、荷運び、傭兵らしき男たち。

 ほとんどの卓が埋まっている。


 奥から女将が出てきた。


 大柄な女だった。年は四十を少し越えたくらい。

 腕は太く、腰には大きな鍵束を下げている。

 髪は赤茶け、顔には笑いシワと怒りシワが同じくらい刻まれていた。


「泊まりかい」


「できれば」


 ヴィンツェンスが言う。


「できればって顔じゃないね。泊まらなきゃ野宿だろう」


「商売上、選択肢があるように見せています」


「宿賃は先払いだよ」


「信用がない」


「旅人に信用を売っても、朝にはいなくなるからね」


 女将はそう言って、シルヴィアを見た。


 目が杖に落ちる。

 足に落ちる。

 閉じかけた左目に触れる。


 シルヴィアは顎を上げた。


「何か?」


「いや。部屋は一つだけ空いてる。二階だ」


 ヴィンツェンスがわずかに眉を動かした。


「一階は」


「満室。馬小屋なら空いてるけどね」


「馬と交渉してみます」


「馬の方があんたより礼儀正しそうだ」


 シルヴィアは言った。


「二階でいいわ」


「シルヴィア様」


「何。私の足が階段を見ただけで気絶するとでも?」


「階段の方が気絶するかもしれません」


「なら先に進みなさい。踏まれる覚悟をさせるわ」


 ヴィンツェンスはそれ以上言わなかった。


 女将は鍵を取った。


「ついておいで」


 階段は、広間の奥にあった。


 狭く、急で、古い。中央がすり減り、ところどころ木が歪んでいる。

 手すりはあるが、頼るには少し心細い。


 シルヴィアは杖を突いた。


 一段目。

 問題ない。


 二段目。

 革を巻いた杖の先が木を噛む。悪くない。


 三段目。

 左足が重い。


 四段目。

 膝の奥に痛みが来た。


 広間の音が遠くなる。

 息が浅い。

 女将は先で待っている。

 ヴィンツェンスは後ろにいる。

 手を貸さない。貸さないでいてくれる。

 だからこそ、ここで止まるのが腹立たしかった。


 五段目で、足が動かなくなった。


 ほんの一瞬だった。

 だが、階段の上では一瞬が長い。


 左足が、命令を聞かない。


 シルヴィアは手すりを掴んだ。

 指に力が入る。杖を持つ手が汗ばむ。


 女将が振り返った。


 その顔に、悪気はなかった。


「まあ、おかわいそうに」


 言葉が落ちた。


 シルヴィアの中で、何かが硬く鳴った。


「誰が?」


 声は冷たかった。


 女将は戸惑った。


「いや、その足じゃ大変だろうって」


「あなたの宿の階段が貧相なだけよ。客の足に責任を押しつけるなんて、ずいぶん便利な商売ね」


「何だって?」


「聞こえなかったの? 耳まで二階に置いてきたのかしら」


 広間が静かになった。


 階段下の客たちが見ている。

 女将の顔が赤くなる。


「こっちは心配して言ったんだよ」


「心配は、相手の上に置く荷物ではないわ。重くて邪魔よ」


「ずいぶん口の悪いお嬢さんだね」


「ええ。足も悪いわ。ほかに品評するところは?」


 女将が言い返そうとした。


 その前に、ヴィンツェンスが下から言った。


「女将さん」


「何だい」


「厨房脇の小部屋は空いていますか」


「客室じゃないよ」


「承知しています。こちらは階段に対して、やや批評精神が強すぎるようなので」


「あなたも煮込まれたいの?」


「できれば塩は控えめで」


 女将は鼻を鳴らした。


「あそこは物置だよ。寝台もない」


「寝台を使うほど裕福な旅ではありません」


「宿賃はまけないよ」


「代わりに夕食の仕込みを手伝います。鍋の一つくらいは救えるかもしれません」


 女将はシルヴィアを見た。


「この口の悪いお嬢さんが?」


「口が悪い分、舌はまともです」


「それ、褒めているの?」


「かなり努力しています」


 シルヴィアは階段の途中で、息を整えた。


 腹が立っていた。

 女将にも。自分の足にも。階段にも。ヴィンツェンスにも。


 だが、これ以上上れば、たぶん足が壊れる。

 それを認めるのが、何より腹立たしかった。


「厨房脇でいいわ」


 彼女は言った。


「ただし、寝る前にその階段を直しておきなさい。客より先に宿が老いているわ」


 女将は目を丸くし、それから大きく笑った。


「本当にひどい口だね」


「よく言われるわ」


「いいよ。小部屋を使いな。だけど仕込みは手伝ってもらうよ」


「あなたの鍋が耐えられるならね」


 シルヴィアは、ゆっくり階段を下りた。


 ヴィンツェンスはそこにいた。

 手を差し出さずに。

 ただ、階段下で人がぶつからないように立っていた。


 それがまた、腹立たしいほどありがたかった。

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