第九十三話 村の板は、村の手で掛ける
水火約束板。
その名前を伊三郎が口にした瞬間、清洲蔵の中にいた者たちは、そろって微妙な顔をした。
板は便利だ。
高畑砦の水札も、川道の渡し場不買板も、文字にしたからこそ揉め事を減らせた。
飲み水。
味噌片用。
非常用。
そう分けて見せれば、井戸番ひとりの腹に水の文句を背負わせずに済む。
清洲は渡し場を買い取らない。
飯荷は客の後ろを渡る。
そう書いて見せれば、市松たち商人の不安も少しは落ち着いた。
だから、山裾にも板を置く。
水火約束板。
井戸に近づかない。
水桶に触れない。
火種を借りない。
薪は持ち込み。
男衆だけで決めない。
理屈としては正しい。
だが、俺はその板の名前を聞いた瞬間、腹の奥が引っかかった。
「清洲の板を、山裾の村に置くのか」
作兵衛が腕を組んで言った。
「それ、清洲が村に約束を押しつけてるように見えねえか」
その通りだった。
川道の渡し場不買板は、清洲が噂に答えるための板だった。
清洲は渡し場を買わない。
それは清洲が言うべきことだ。
しかし山裾の水火約束は、少し違う。
村の水。
村の火。
村の水桶。
村の火種。
それを守る約束だ。
清洲が勝手に板を書いて村へ掛ければ、針売りにこう言われるだろう。
――ほら、清洲が村の水と火の決まりまで作り始めた。
そんな噂になれば、約束板そのものが毒になる。
「板は必要です」
伊三郎は静かに言った。
「ただし、清洲の板として置くのは危険です」
「じゃあ、どうする?」
権六が聞く。
今日は権六も蔵にいる。
山裾にはまだ連れていけないが、文句の相手としては役に立つ。
「村の板にする」
かやが先に答えた。
伊三郎が頷く。
「はい。清洲が命じる板ではなく、村が自分たちの水と火を守るために掲げる板です」
「でも、字は誰が書くんだ」
太助が言った。
「とめ婆様が書けるのか?」
「書けるかもしれませんが、字が読める者が村にいるか確認します」
伊三郎が答える。
「ただ、字だけでは駄目です。女衆にも子どもにも伝わるように、絵印も必要です」
水桶の絵。
火種の絵。
薪の絵。
井戸の絵。
子どもの道の絵。
そして、針。
針売りが噂を縫い込むなら、こちらは針で破れない約束を作らなければならない。
「清吉」
佐助が、針包みを見ながら言った。
「約束板を置くなら、針包みの言葉と喧嘩しすぎないほうがいいかもしれません」
「どういうことだ?」
「針包みは、怖がらせる言葉です。こちらが強い言葉で返すと、余計に怖くなるかもしれません」
かやが頷いた。
「『清洲は絶対に水を使わない』みたいな言い方は危ないね。もし本当に緊急で使う時が来たら嘘になる」
「なら?」
「村の水と火は、村で決める。清洲は勝手に触れない。これくらいがいい」
短い。
だが、強い。
清洲が守る約束でありながら、村の主導を奪わない。
権六が腕を組みながら言った。
「つまり、清洲が『使わない』って言うんじゃなくて、村が『勝手に使わせない』って言うのか」
「そうです」
伊三郎が答えた。
「いいな、それ」
権六は少しだけ感心したように言った。
「文句の置き場が村にある」
「文句の置き場?」
太助が聞き返す。
「清洲が勝手に触ったら、村が板を指して文句を言える。文句の根っこがあるってことだ」
思わず、皆が権六を見た。
権六は少し居心地悪そうにした。
「何だよ」
「今のは良い」
俺が言うと、権六は顔を赤くした。
「いちいち褒めるな」
伊三郎は、すでに書いていた。
約束板は、文句の根っこ。
また残る。
権六の文句は、とうとう約束板の考え方にまでなった。
その日の昼前、俺たちは山裾の村へ向かった。
今日は飯荷を持たない。
持っていくのは、白木の板の見本。
水桶、火、薪、井戸、針の簡単な絵印。
それから、とめ婆様たちに見せるための文案。
かや、きぬ、佐助、作兵衛、太助、小平。
いつもの一行だ。
権六は、また留守番。
出る時、権六は不満そうだったが、今日は少しだけ胸を張っていた。
「俺の言葉、持っていけよ」
「文句の根っこか?」
「そうだ。間違えるなよ」
「分かった」
山裾の村では、惣右衛門ととめ婆様が待っていた。
今回は、最初から二人とも同じ場にいる。
その後ろには、おきよたち女衆が数人。
男衆も二人ほど離れて立っている。
前より空気が硬くない。
だが、安心しきってもいない。
山裾は、まだ清洲を見ている。
とめ婆様が開口一番に言った。
「板を置く話だって?」
「はい。ただ、清洲の板として置くのは違うと思っています」
とめ婆様の目が少し細くなる。
「へえ」
「村の水と火を、村が守る板にしたいです。清洲は、その板に従う側です」
惣右衛門が驚いた顔をした。
「清洲が従うのか」
「はい。村の水と火ですから」
とめ婆様は、すぐには返事をしなかった。
代わりに、かやが板の見本を広げた。
大きすぎない。
だが、井戸の近くや寄り合いの場に置けば見えるくらい。
文字は短い。
村の水と火は、村で決める。
外の荷は、勝手に水桶へ触れない。
火種は貸さない。
薪は勝手に使わせない。
困った時は、とめ婆と惣右衛門へ言う。
とめ婆様は、じっと読んだ。
「短いね」
「長いと読まれません」
伊三郎の代わりに、俺が言った。
「それに、細かい決まりは別に残します。板は、誰でも見てすぐ分かるようにしたいです」
おきよが板を覗き込んだ。
「絵もあるんですね」
「字が読めない人や子どもにも分かるように」
かやが、水桶の絵を指差した。
「これは水桶。これは火。これは薪。これは井戸。これは針」
「針?」
おきよが聞いた。
きぬが答える。
「針売りの言葉を隠さないためです。針の包みに変な言葉があったら、とめ婆様へ持っていく」
とめ婆様が鼻を鳴らした。
「針まで板に載るとはね」
「針は小さいですが、噂を縫い込みますから」
かやが言うと、とめ婆様は少しだけ笑った。
「その言い方、嫌いじゃないよ」
惣右衛門は板を見て、少し困った顔をした。
「困った時は、とめ婆と惣右衛門へ言う、か」
「嫌ですか?」
俺が聞くと、惣右衛門は苦笑した。
「嫌ではない。だが、婆様と並べて書かれると、俺が勝手に決められん」
「それが目的です」
とめ婆様が即答した。
男衆の二人が吹き出しかけて、慌てて咳払いをした。
惣右衛門は少し耳を赤くしたが、怒らなかった。
「まあ、昨日で懲りた。水と火は、男だけで決めるもんじゃない」
その一言に、女衆の空気が少し緩んだ。
おきよが小さく言った。
「この板があれば、針売りに言えますね」
「何を?」
俺が聞くと、おきよは板を見ながら言った。
「水と火は、村で決めるって。清洲が勝手に触らないって」
その言葉が、何より強かった。
清洲が言うのではない。
村の女が、自分の言葉として言える。
それが大事なのだ。
きぬが針箱を開き、おきよに言った。
「針売りがまた来たら、針を見て、包み紙も見て。怖い言葉があったら隠さず持ってきてください」
「買っても怒られませんか」
とめ婆様が先に答えた。
「怒らない。ただし、隠したら怒る」
おきよは、少し笑った。
「はい」
その時、男衆の一人が口を開いた。
「だが、この板を置いたら、清洲と村が組んだと思われないか」
いい問いだった。
とめ婆様も、俺を見た。
村の板にする。
だが、それでも清洲が関わったことは見える。
そこをどうするか。
俺は少し考え、正直に言った。
「見えると思います」
男衆の顔が曇る。
「でも、清洲と組む板ではなく、清洲にも守らせる板にしたいです。板の最初に、村の水と火は村で決める、と書いています。清洲は、その下に入る形です」
「下?」
「はい。村の約束が先。清洲の飯荷は後です」
とめ婆様が頷いた。
「それならいい。清洲の名は小さくていい」
「そうしましょう」
かやがすぐ言った。
「清洲の名を大きく書かない。最後に、『外の荷も清洲の荷も、この約束に従う』とだけ入れる」
惣右衛門が板を見て、深く頷いた。
「それがいい。清洲だけでなく、他の荷にも言える」
確かに。
針売りも外の荷だ。
薬売りも外の荷だ。
清洲だけの約束にすると、針売りが「自分は関係ない」と逃げる。
村の水と火を守る約束なら、外から来る者すべてに言える。
「板は、どこに置きますか」
俺が聞くと、とめ婆様が即答した。
「井戸の横は駄目だ」
「なぜですか」
「水場に板を置くと、板を見に人が集まる。邪魔だよ」
なるほど。
また一つ見落としていた。
水を守る板を、水場に置くと水場が混む。
かやが感心したように言う。
「じゃあ、寄り合いの軒下?」
「男衆だけ見ることになる」
おきよが小さく言った。
とめ婆様は頷いた。
「なら、共同の糸干し場の横だね。女も男も通る。子どもも見る。水場からは少し離れている」
糸干し場。
俺たちには見えていなかった場所だ。
針仕事に関わる場所でもあり、水場ではない。
女衆の目が届く。
子どもも通る。
そこがいい。
「では、糸干し場の横で」
惣右衛門も頷いた。
「板は村で掛ける。清洲が打ちつけると目立つ」
「はい」
俺は答えた。
これも大事だ。
板は村の手で掛ける。
清洲が持ってきて、清洲が打ちつければ、清洲の板になる。
村の者が掛ければ、村の約束になる。
とめ婆様が、若い男衆の一人を呼んだ。
「夕方までに板を掛ける場所を整えな」
「はい」
「あと、字は誰が書く」
惣右衛門が咳払いした。
「俺が書ける」
とめ婆様がじろりと見た。
「字が曲がるだろ」
「曲がらん」
「去年の祭り札、曲がってたよ」
「……あれは板が悪かった」
女衆が笑った。
惣右衛門は困ったように頭をかいた。
結局、字は惣右衛門が書き、とめ婆様が横で見張ることになった。
絵印は、おきよが描きたいと言った。
「私でいいんですか」
「水桶と針は、あんたが描きな」
とめ婆様が言う。
「買った針のことを隠さず言ったのは、あんただからね」
おきよは顔を赤くした。
でも、嬉しそうだった。
その顔を見て、俺は思った。
山裾仮線は、少しずつ村自身のものになっている。
清洲の飯荷を入れるためだけの約束ではない。
村が、外から来る荷と言葉に対して、自分たちの水と火を守るための約束を作っている。
これなら、針売りの言葉に返せる。
清洲が怒鳴るより、ずっと強い。
話し合いの終わりに、とめ婆様が俺を見た。
「清洲の飯荷は、まだ入れないよ」
「分かっています」
「板を掛けたからといって、すぐに入れると思うな」
「はい」
「まず村の者が板に慣れる。それからだ」
俺は深く頭を下げた。
「それでお願いします」
惣右衛門が少し驚いた顔をした。
「本当に急がないんだな」
「急ぐと、閉じる道なので」
「誰の言葉だ?」
「太助の言葉です。道は人の腹で閉じる」
太助が後ろで小さく「また出た」と呟いた。
とめ婆様は笑った。
「いい言葉だ。ここの道も、腹で閉じるよ」
帰り道、きぬがぽつりと言った。
「今日は良かったですね」
「何が?」
「おきよさんが絵を描くことになったことです」
かやも頷いた。
「うん。あれで板は、清洲のものじゃなくなる」
「そうか」
「そうだよ。自分で描いた水桶なら、ちゃんと守る」
なるほど。
板は、字だけではない。
誰が描いたか。
誰が掛けたか。
誰が見張るか。
それで意味が変わる。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎は報告を聞きながら目を輝かせた。
「村自身の約束板ですか」
「はい」
「水火約束板ではなく、村水火板としましょう」
「また名前が」
「大事です」
伊三郎は清書した。
山裾仮線、村水火板。
清洲の板ではなく、村の水と火を村が守る板。
清洲名は小さく。外の荷も清洲の荷も従う形。
場所は井戸横不可。水場混雑を避け、共同糸干し場横。
板は村の手で掛ける。
字は惣右衛門、とめ婆様が確認。
絵印はおきよ。水桶、火、薪、井戸、針。
清洲飯荷はまだ入れない。村が板に慣れてから。
約束板は文句の根っこ。
最後の一行を見て、権六が胸を張った。
「俺の言葉だ」
「そうだな」
今日は素直に認めた。
弥助殿へ報告すると、彼は静かに頷いた。
「よい。清洲の影を薄くしたな」
「はい」
「薄くすることが、強くすることもある」
その言葉は、腹に落ちた。
清洲が前へ出すぎれば、村は清洲の影に覆われる。
すると、針売りの噂が効く。
清洲が村を取る。
清洲が水と火を決める。
そう言われてしまう。
だから、清洲の影を薄くする。
村の約束を前に出す。
そのほうが、結果として清洲の飯線は強くなる。
夜、清洲蔵では山裾用の火なし飯を食べた。
昨日より少しだけ味が近い。
でも、匂いは控えめだ。
村の台所の匂いと喧嘩しない飯。
権六が噛んで言った。
「今日の飯は、村の板の端っこにいる味だな」
「清洲が?」
「そう。真ん中じゃない。端っこで約束を守ってる」
かやが笑った。
「いいね、それ」
佐助も頷いた。
「山裾用の飯も、そういう味がいいかもしれません。主張しすぎない。けれど、ちゃんと腹には残る」
きぬが針を一本手に取り、灯りにかざした。
「板に針の絵が入るの、少し嬉しいですね」
「なぜ?」
「針売りに使われた針を、村が取り返した感じがするから」
その言葉に、皆が少し黙った。
針を取り返す。
噂を縫い込まれた針を、村の約束を描く針に変える。
それは、今日の山裾にふさわしい言葉だった。
俺は火なし飯を噛んだ。
遠慮した味。
だが、昨日より少し腹に近い。
山裾仮線は、まだ飯荷を入れていない。
でも、村水火板ができる。
村の手で掛けられる。
おきよが水桶と針の絵を描く。
飯を運ぶ前に、村が自分の水と火を守る。
その形ができてから、ようやく次の一歩だ。




