表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
92/160

第九十二話 針売りは、水桶の数を知っていた

 針売りが戻ってきたのは、水火約束を作った翌々日の昼前だった。


 最初に知らせをくれたのは、おきよだった。


 村の女衆の中で一番若く、昨日まで「買った自分が悪いのではないか」と不安そうにしていた娘だ。


 そのおきよが、茶屋まで走ってきた。


 茶屋の女将は、後でこう言った。


「あの子、息を切らしてたけど、逃げてきた顔じゃなかったよ。知らせに来た顔だった」


 そこが大きかった。


 隠さなかった。


 針売りが来た。

 また針を売っている。

 今度は前より丈夫な針だと言っている。

 そして、水と火の話をしている。


 おきよは、それをとめ婆様へ伝え、とめ婆様はすぐ惣右衛門へ伝えた。


 惣右衛門は男衆を集めかけたが、とめ婆様に止められたらしい。


「騒ぐんじゃない。まず清洲へ知らせる」


 その一言で、村は針売りを取り囲まなかった。


 追いもしなかった。


 責めもしなかった。


 ただ、聞くことにした。


 清洲蔵へ連絡が届いた時、俺たちは山裾用の火なし飯を試作しているところだった。


 薄い味噌片。

 小さな握り飯。

 匂いの弱い乾燥菜。


 村の火を借りず、台所の匂いと喧嘩しないための飯。


 権六が食べて、ちょうど文句を言っていた。


「この飯、遠慮しすぎて腹に挨拶だけして帰る」


「それは遠いのか近いのか」


 佐助が真面目に聞き返す。


「近くに来たけど、座らない」


「なるほど……」


 佐助が本気で考え込んだ瞬間、太助が茶屋からの連絡札を持って飛び込んできた。


「針売り、来たって!」


 蔵の空気が変わった。


 弥助殿もすぐ呼ばれた。


 報告を聞いた弥助殿は、短く言った。


「追うな」


「はい」


「囲むな」


「はい」


「買うなとも言うな」


「はい」


 もう、何度も繰り返したことだ。


 薬売りの時もそうだった。


 敵かもしれない者を、すぐ捕まえない。


 逃がすのではない。


 糸を切らずに見る。


「今日は、とめ婆様たちの目を借ります」


 俺は言った。


「清洲の者が前に出すぎると、針売りは口を閉じる。村の女衆が聞いた言葉を、そのまま拾います」


 きぬが針箱を持った。


「私も行きます。針そのものを見たほうがいい」


 かやも頷く。


「私は女衆の話を聞く。清吉はあまり前に出ないほうがいい」


「分かってる」


「本当に?」


「……今日は、分かってる」


 かやは少し疑う目をしたが、それ以上は言わなかった。


 山裾へ向かう道中、太助がぽつりと言った。


「おきよさん、知らせに来たんだな」


「ああ」


「昨日まで、責められると思ってた顔だったのに」


「責めなかったからだと思う」


 きぬが静かに言った。


「買った人を責めたら、次は隠す。隠されたら、針売りの言葉は家の中で育つ」


 家の中で育つ噂。


 嫌な響きだった。


 山裾の村に着くと、惣右衛門が村の入口で待っていた。


 顔は険しい。


 だが、男衆を大勢集めてはいない。


 約束を守ってくれている。


「針売りは?」


 俺が聞くと、惣右衛門は顎で村の奥を示した。


「とめ婆の家の前だ。女たちが針を見ている。俺は近づきすぎるなと言われた」


「とめ婆様に?」


「そうだ」


 少し悔しそうだが、従っている。


 それだけで、昨日の話し合いは無駄ではなかったと思った。


 俺たちは村の奥へ向かった。


 とめ婆様の家の前には、女たちが数人集まっていた。


 その輪の中心に、針売りがいた。


 薬売りとは違う男だった。


 年は四十前後。

 背は低く、よく笑う。

 肩から小さな箱を下げている。

 箱には針、糸、小さな鋏、布の切れ端。


 見るからに、女たちの仕事場へ入りやすい姿だった。


「奥様方、これは前のものとは違いますよ」


 針売りは軽い調子で言った。


「こちらは少し値が張りますが、折れにくい。安物で指を怪我するより、良い針を持ったほうが結局は得です」


 商いとしては自然だ。


 最初に安い針を売る。

 折れやすい。

 次に少し高い針を売る。


 不安を作り、その不安を売る。


 薬売りと同じ匂いがした。


 とめ婆様は、針売りの前で一本の針を持ち上げていた。


「たしかに前よりは太いね」


「でしょう。こちらは特別です」


「特別なわりに、包み紙がまた立派だ」


 とめ婆様の声は何気ない。


 だが、目は笑っていない。


 針売りはにこにこしたまま言った。


「品は包みも大事ですから」


「そうかい。包みには、また何か書いてあるのかね」


 一瞬。


 ほんの一瞬だけ、針売りの笑顔が固まった。


 俺は見逃さなかった。


 かやも見ていた。


 きぬも針箱を持つ手を少し止めた。


「いえいえ、ただの商い文句ですよ」


 針売りはすぐ笑顔へ戻った。


「針は女の手を助けるもの。良い針は家を守る、とか、そういう」


 とめ婆様は針包みを開いた。


 中には、針が五本。


 前よりは確かにしっかりしている。


 だが、包み紙の裏には、また短い文があった。


 清洲の荷は、村の井戸を数えている。

 火のある家から、順に使われる。


 場が静まり返った。


 昨日の文より、さらに踏み込んでいる。


 水と火は家から減る、ではない。


 井戸を数えている。

 火のある家から、順に使われる。


 具体的だ。


 そして、怖い。


 おきよが小さく息を呑んだ。


 隣の女が、思わず自分の家の方を見た。


 針売りは、まだ笑っていた。


「ただの言葉ですよ。最近はどこも物騒ですからね。外から荷が来ると、村の水や火が使われることもあると聞きますし」


 とめ婆様が、低く聞いた。


「誰から聞いた」


「旅をしていれば、いろいろ耳に入ります」


「清洲がこの村の井戸を数えていると?」


「いえいえ、そういう意味では」


「では、なぜこの包みに書いてある」


 針売りの額に、薄く汗が浮いた。


 女衆は騒がない。


 とめ婆様が昨日、言っておいたのだろう。


 買った者を責めない。

 針売りを囲まない。

 言葉を拾う。


 その通りに、場が保たれている。


 俺は前に出たいのを堪えた。


 ここで清洲の男が口を出せば、針売りは「ほら、清洲が女たちの話に割り込む」と逃げられる。


 だから、きぬが前へ出た。


「針を見せていただいても?」


 針売りは、きぬを見た。


 清洲の者だと気づいたかどうか。


 分からない。


 きぬは、普通の針仕事の女に見える。


「もちろんです」


 針売りは針を渡した。


 きぬは一本を指先で曲げ、戻し、布へ刺してみる。


「前の針よりはいいですね」


「でしょう」


「でも、値のわりにはまだ柔らかい」


 針売りの笑顔が少し引きつった。


「お詳しい」


「針は、毎日使いますから」


 きぬは針を返さず、包み紙を見た。


「この文、針と関係ありませんね」


「商い文句ですよ」


「針を売るのに、なぜ井戸と火の話を?」


 きぬの声は穏やかだ。


 穏やかなぶん、逃げ場がない。


 針売りは、笑いながら肩をすくめた。


「女の皆さんは、家を守っている。水も火も大事でしょう? だから、気をつけたほうがいいと」


 おきよが口を開いた。


「清洲の人たちは、昨日、井戸には近づかないって約束しました」


 針売りは、おきよを見た。


「約束?」


「水を使うなら、惣右衛門さんととめ婆様の両方の許しがいるって。火種も借りないって。薪も持ってくるって」


 おきよの声は震えていた。


 だが、最後まで言った。


 針売りの目が細くなる。


「それは、口では何とでも言えますよ」


 そこで、とめ婆様が笑った。


 笑ったが、怖い笑いだった。


「口だけなら、あんたの包み紙も同じだね」


 女たちの間に、小さな笑いが起きた。


 針売りの立場が少し揺れた。


 かやが前へ出た。


「昨日の約束は板にしました。必要なら、ここで読めます」


 針売りは初めて、こちらをはっきり見た。


「清洲の方ですか」


「はい。清洲蔵の手伝いです」


「女の方まで使って、ずいぶん丁寧なことですね」


 嫌な言い方だった。


 だが、かやは平然としていた。


「女の人たちの水と火の話ですから。男だけで決めると見落とします」


 おきよが頷いた。


 他の女たちも、少しだけ表情を強くした。


 針売りは、空気が変わったことに気づいたのだろう。


 急に商いの口調へ戻った。


「まあ、針が不要なら、今日はこれで」


「待ちな」


 とめ婆様が止めた。


 針売りの肩がわずかに動く。


「何でしょう」


「買うなとは言われていない。一本買うよ」


 俺は驚いた。


 とめ婆様は、針を一本買った。


 銭を払う。


 針売りは、少し戸惑いながらも受け取った。


「ありがとうございます」


「ただし、この包み紙も置いていきな。針と一緒にね」


「もちろんです」


「あと、次に来る時は、包み紙に余計なことを書かずに来な。針だけで勝負しな」


 針売りは笑った。


 だが、その笑いは薄かった。


「覚えておきます」


「忘れたら、次は買わない」


 とめ婆様の一言で、針売りは箱を閉じた。


 彼は逃げるようには去らなかった。


 普通の商人のように頭を下げ、村の外へ歩いていく。


 小平と護衛が追おうと視線で尋ねた。


 俺は首を横に振った。


 追わない。


 今日は言葉を拾う日だ。


 針売りが完全に見えなくなってから、場の空気が一気にほどけた。


 おきよが座り込む。


「怖かった……」


 かやがすぐ隣にしゃがんだ。


「よく言えたね」


「声、震えました」


「震えても言えたなら十分」


 きぬは、買った針をとめ婆様から借りて見ていた。


「前よりは良い。でも、値段ほどではありません」


 とめ婆様が鼻を鳴らす。


「やっぱりね」


「包み紙も預かっていいですか」


「そのために買ったんだよ」


 さすがだ。


 とめ婆様は、針を買うことで包み紙を自然に残した。


 針売りから奪ったのではない。


 村の客として買った。


 だから、針売りも拒みにくい。


 村の女衆のほうが、よほど上手だった。


 惣右衛門が少し離れたところから近づいてきた。


「よく囲まなかったな」


 とめ婆様が睨む。


「囲んだら逃げるだろう。男衆じゃあるまいし」


 惣右衛門は黙った。


 俺は小帳面を開いた。


「針売りの言葉を確認したいです」


 おきよが言った。


「包み紙に、清洲の荷が村の井戸を数えているって書いてありました」


 別の女が続ける。


「火のある家から順に使われる、とも」


 きぬが言う。


「針売り本人は、旅で聞いた、気をつけたほうがいい、商い文句だと言いました」


 かやも言った。


「こちらの水火約束を、おきよさんが説明したら、『口では何とでも言える』と返しました」


 とめ婆様が最後に言った。


「あいつは、村の水桶の数を知りたがってたよ」


「え?」


 俺は顔を上げた。


「どういうことですか」


「最初に来た時、何気ない顔で聞いてきたんだ。『この村は水桶が多くて、暮らしがしっかりしている』ってね。水桶の数なんて、針売りが褒めるものじゃない」


 ぞっとした。


 井戸だけではない。


 水桶。


 火のある家。


 家の数。


 針売りは、村の暮らしの配置を見ていた。


 飯荷が来たら何が不安になるかを、ちゃんと数えている。


「針売りは、水桶と火の家を見ている」


 俺は書いた。


 手が少し震えた。


 これはただの噂ではない。


 山裾仮線の弱点を調べている。


 とめ婆様は続けた。


「だから、次に来たら、こっちも聞く。針のことだけをね。どこの針か。誰が作ったか。なぜ包み紙に水と火のことを書くのか」


「お願いします。ただ、無理はしないでください」


「無理はしない。村の暮らしを守るだけだ」


 その言葉に、俺は深く頭を下げた。


 清洲の味方になってもらうのではない。


 村の暮らしを守る目になってもらう。


 弥助殿の言葉通りだった。


 帰り際、おきよが小さな声で言った。


「清洲の飯荷が来たら、本当に井戸に近づきませんか」


「近づきません」


 俺は答えた。


「水が必要な時は、先に話します。勝手に水桶に触りません」


「火も?」


「火種は借りません」


 おきよは少しだけ笑った。


「じゃあ、次に針売りが来ても言えます。清洲は火種を借りないって」


 その一言は、針売りの包み紙よりずっと強いと思った。


 村の中から出る言葉だ。


 清洲が言うより、きっと効く。


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎は報告を聞きながら筆を走らせた。


 針売り再訪。

 前より太い針を販売。値段ほどの質ではない。

 針包み裏文、清洲の荷は村の井戸を数えている。火のある家から順に使われる。

 針売り、旅で聞いた、気をつけたほうがいい、商い文句だと弁明。

 おきよ、水火約束を説明。

 とめ婆様、針を一本購入し包み紙確保。

 針売り、水桶の数や火のある家に関心。

 村女衆、清洲の手先ではなく村の暮らしを守る目として機能。

 飯荷はまだ入れない。水火約束の周知継続。


 弥助殿は、それを聞いて低く言った。


「山裾は当たりだな」


「当たり、ですか」


「敵が水桶まで見ている。つまり、そこを使わせたくないか、そこを荒らしたい」


「飯線としては?」


「まだ入れるな。ただし、候補として残す。村の中の目ができたのは大きい」


 俺は頷いた。


 山裾仮線は、今日も飯荷を入れなかった。


 それなのに、確実に進んだ。


 夜、清洲蔵では山裾用の火なし飯を食べた。


 薄い味噌片。

 小さな握り飯。

 乾燥菜。


 権六が噛みながら言った。


「今日の飯は、針売りに買わせなかった味だな」


「とめ婆様は買ったぞ」


「針は買った。でも、噂は買わなかった」


 かやが頷いた。


「いい言い方」


 きぬも笑った。


「とめ婆様に言ったら、鼻で笑いそうだけどね」


 佐助が針包みを見ながら言った。


「水桶の数まで見るなら、次は水桶を動かすかもしれません」


「動かす?」


「水桶が急に減った、壊れた、汚れた。そういうことがあると、すぐ清洲のせいにできます」


 嫌な可能性だ。


 作兵衛が腕を組む。


「なら、飯荷より先に水桶の見張りか」


 また見るものが増えた。


 水桶、火種、針包み。


 山裾は、暮らしの細部が飯線になる。


 俺は薄い味噌片を噛んだ。


 遠慮した味。


 だが、今日の山裾には合っている。


 針売りは、水桶の数を知っていた。


 なら、こちらは水桶を使わない約束を、もっと見える形にしなければならない。


 村の女衆が、隠さず知らせてくれた。


 その信頼を壊せば、山裾仮線は終わる。


 飯荷を入れないまま、飯線は少しずつ形になっている。


 不思議な話だ。


 でも、それが山裾の腹だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ