第九十一話 水桶と火種の約束
山裾の村へ、飯荷はまだ入れない。
それが、清洲蔵で最初に決まったことだった。
飯を運びたいなら、先に飯を運ばない日を作る。
それは、少し妙な話に聞こえる。
だが、高畑で学んだ。
川道で学んだ。
北尾根でも、嫌というほど学んだ。
早く置いた飯ほど、後で重くなることがある。
山裾の村で今いちばん重いのは、米俵ではない。
水桶。
火種。
薪。
針包みの裏に書かれた短い言葉。
そして、女たちの腹に沈んだ不安だった。
外から来る荷が増える時、水と火は家から減る。
嫌な文だ。
嘘ではない。
だから余計に嫌だった。
「清吉、今日は米を持たないんだね」
かやが、蔵の入口で荷を確認しながら言った。
「持たない」
「味噌片も?」
「説明用に少しだけ。食べるためじゃない」
「針包みは?」
「持つ」
昨日預かった針包みは、伊三郎が布に包んで保管していた。
噂文の入った針包み。
あれは、紙一枚の噂より厄介だ。
家に残る。
針箱に残る。
縫い物のたびに開かれる。
そして、そのたびに「水と火は家から減る」という言葉が目に入る。
権六が針包みを見て、顔をしかめた。
「小さいな」
「針だからな」
「こんな小さいもので村が揺れるのか」
きぬが横から言った。
「針は小さいけど、指に刺されば痛いよ」
権六は黙った。
きぬの言葉には、不思議と逆らいにくいものがある。
伊三郎は今日のために、新しい板を用意していた。
山裾仮線、水火約束案。
一、水場に知らない男を近づけない。
二、井戸の朝夕の時間は村優先。
三、清洲側は水桶に触らない。
四、火種は借りない。
五、薪は持ち込みを基本とする。
六、休み場は水場と子どもの道から離す。
七、女衆の文句は、とめ婆様経由で聞く。
八、男衆だけで飯荷を入れる決定をしない。
八つ。
また八つだ。
太助が板を覗いて言った。
「山裾も多いな」
「川も多かった」
伊三郎が答える。
「北尾根も多かった」
「つまり、どこも多い」
「そうです」
太助は天井を見た。
「楽な道ってないのか」
作兵衛が背当てを整えながら言った。
「楽に見える道ほど、後で文句が出る」
「それ、名言みたいに言うなよ」
「名言じゃねえ。経験だ」
山裾へ向かう一行は、昨日とほぼ同じだった。
俺、かや、きぬ、佐助、作兵衛、太助、小平、護衛二人。
権六はまた留守番だ。
「今日も俺は駄目なのか」
権六は露骨に不満そうだった。
「女衆の話を聞く場だからな」
「俺だって小声で聞ける」
きぬが微笑んだ。
「小声のつもりでも、権六さんは針箱の蓋が跳ねるくらい響くよ」
「俺の声、そんなにか」
「そんなに」
権六はしょんぼりした。
少しだけ可哀想だったが、今日は本当に連れていけない。
清洲を出る前、弥助殿が言った。
「今日は約束を作る日だ。針売りが来ても追うな」
「はい」
「針売りが来たら?」
「何を言うか聞きます。村の女衆を責めず、針売りを捕まえず、まず言葉を拾います」
「よし」
弥助殿は短く頷いた。
「水と火は、村の腹だ。そこを踏むな」
山裾へ向かう道は、昨日より少し身近に見えた。
畑がある。
小さな畦道がある。
干された布が風に揺れている。
家の裏から煙が上がっている。
暮らしの匂いがする。
高畑砦の緊張でもなく、北尾根の乾いた孤独でもなく、川道の湿った気配でもない。
ここには、人の暮らしが前面にある。
だから、怖い。
踏めばすぐ誰かの腹に当たる。
村に着くと、惣右衛門が待っていた。
昨日よりも顔つきは柔らかい。
だが、警戒は残っている。
「今日は飯荷はないんだな」
「ありません」
「それだけで、村の者は少し安心する」
「そのために持ってきませんでした」
惣右衛門は少しだけ頷いた。
「とめ婆が待っている。女衆も何人か来る」
「ありがとうございます」
「礼は婆様に言え。俺が集めたんじゃない」
惣右衛門は苦笑した。
男衆だけで決めない。
その言葉は、村の中でも効き始めているらしい。
とめ婆様は、昨日と同じ家の土間に座っていた。
周りには女たちが六人ほどいる。
おきよもいた。
昨日より少し緊張は薄いが、こちらを見る目は慎重だ。
針仕事の途中だったのか、布や糸が置かれている。
きぬが丁寧に頭を下げた。
「昨日は針を見せていただき、ありがとうございました」
おきよは小さく首を振った。
「きぬさんの針、折れませんでした」
「それはよかった」
「でも、私の縫い方が悪いって、とめ婆様に言われました」
とめ婆様がすかさず言った。
「悪いものは悪い」
場に小さな笑いが起きた。
笑いが出るだけで、昨日より少し空気が軽い。
俺は水火約束案の板を出した。
「今日は、山裾仮線を使うかどうか決めるためではなく、まず水と火の約束を作りに来ました」
とめ婆様が目を細める。
「飯荷を入れる前の約束だね」
「はい」
「男衆だけで決めるな、と昨日言ったからかい」
「言われたからでもありますし、言われなければ見落としていました」
正直に言うと、とめ婆様は鼻を鳴らした。
「そこまで言えば、少しは聞いてやるよ」
惣右衛門が土間の端に座った。
男衆は彼一人だけだ。
それも、とめ婆様が決めたらしい。
男衆が多いと女たちが話しにくいからだ。
かやが板を読み上げる。
「一、水場に知らない男を近づけない。二、井戸の朝夕の時間は村優先。三、清洲側は水桶に触らない」
そこで、おきよが手を上げた。
「水を使う時は、誰が汲むんですか」
「清洲側が持ち込む水を基本にします」
俺が答えると、おきよは首を傾げた。
「でも、足りなくなったら?」
「足りなくなる量は持ち込まない。その日は使わない」
とめ婆様が鋭く聞いた。
「本当に? 兵や人足が喉が渇いたと言ったら?」
北尾根の喉を思い出した。
喉が文句を言う道もある。
だが、ここで村の水を勝手に使えば山裾は終わる。
「緊急なら、惣右衛門殿ととめ婆様の両方に話を通します。片方だけでは使いません」
惣右衛門が驚いた顔をした。
「俺だけでは駄目か」
「はい」
少し勇気が要った。
だが、ここは譲れない。
「実際に水場を使うのは女衆です。惣右衛門殿だけの許しでは、あとで腹が荒れます」
惣右衛門は苦い顔をした。
けれど、怒らなかった。
代わりに、とめ婆様がふっと笑った。
「惣右衛門、言われてるよ」
「分かっている」
惣右衛門はむすっとしたが、やがて頷いた。
「水は、俺と婆様の両方だ。それでいい」
第一の約束ができた。
かやが続ける。
「四、火種は借りない。五、薪は持ち込みを基本とする」
今度は別の女が言った。
「火を使わないなら、飯はどうするんですか」
「火なし飯を使います。握り飯、味噌片、乾燥菜。湯を使わなくても食べられる形です」
佐助が、説明用の味噌片を布の上に出した。
「これは、山裾用ではありません。高畑や北尾根で使ったものの例です」
とめ婆様が味噌片を見た。
「小さいね」
「火や水を使えない場所では、小さくして持ちます」
「腹いっぱいにはならないだろう」
「なりません」
佐助は正直に答えた。
「でも、足を止めないため、村の火や水を使わないための飯です」
おきよがぽつりと言った。
「飯荷って、大きな釜を持って来るのかと思ってました」
「釜を持ってくる時もあります。でも、山裾では最初は持ちません」
「最初は?」
鋭い。
「必要になった場合も、村の火を借りない形を先に考えます。釜を置くなら、村の中ではなく外です。煙の向きも見ます」
とめ婆様が頷いた。
「煙は困る。洗濯物に匂いがつく」
そこか。
戦の目ではなく、洗濯物。
しかし、それも暮らしの腹だ。
かやがすぐに書き足した。
「煙、洗濯物に注意」
とめ婆様は少し感心したように見た。
「そんなことまで書くのかい」
「書かないと、男たちは忘れます」
かやの言葉に、女たちが笑った。
惣右衛門だけが、苦笑いをした。
次に、休み場の話になった。
「六、休み場は水場と子どもの道から離す」
作兵衛が地面に簡単な線を描いた。
村の入口。
井戸。
子どもたちが通る細道。
畑の縁。
村外れの古い桑の木。
「休むなら、ここか」
作兵衛が桑の木の近くを指した。
とめ婆様がすぐ首を振る。
「そこは夕方、子どもが虫を取りに行く」
「では駄目ですね」
作兵衛はすぐ消した。
惣右衛門が別の場所を指す。
「なら、この畑の端はどうだ」
おきよが言った。
「そこは洗い物を干す時に通ります」
惣右衛門の指が止まる。
男衆には見えていない道が、女たちには見えている。
結局、村から少し離れた荒れた竹藪の手前が候補になった。
ただし、そこは足元が悪い。
虫も多い。
でも、水場から遠く、子どもの道からも離れている。
「休み場としては弱い」
作兵衛が言った。
「でも、村に迷惑は少ない」
とめ婆様が頷く。
「迷惑が少ないほうがいい。楽な場所を選ばれると、こっちが困る」
これも飯線の考え方だ。
休む者に楽な場所が、暮らす者には迷惑な場所かもしれない。
太助が小声で言った。
「山裾は、楽な場所ほど誰かの道だな」
俺は聞き逃さなかった。
書く。
山裾、楽な場所ほど誰かの道。
太助は俺の手元を見て、顔をしかめた。
「また残った」
「良い言葉だ」
とめ婆様が言うと、太助は少し赤くなった。
話し合いの途中で、針売りの話になった。
きぬが預かった針包みを出す。
「この裏の言葉についてです」
おきよが不安そうに見た。
とめ婆様は表情を変えない。
かやが言った。
「この言葉は、まったくの嘘ではありません。外から荷が入れば、水と火に負担がかかることはあります」
女たちは静かに聞いている。
「だから、嘘だと燃やすのではなく、どこが本当に困るのかを今日聞きました。そのうえで、水と火を勝手に使わない約束を作ります」
きぬが続けた。
「針売りがまた来たら、針そのものの文句も聞いてください。折れる、曲がる、糸が弱い。その文句は大事です。針が悪いのに、買った人が悪いと言われるのは違います」
おきよが小さく頷いた。
「また来たら、どうすればいいですか」
俺は答えた。
「買うなとは言いません」
とめ婆様が少し眉を上げた。
「買っていいのかい」
「買うなと言えば、逆に隠れて買う人が出るかもしれません。買うなら、誰が、何を、どんな話をしたか、とめ婆様へ伝えてください」
きぬが補う。
「針を買った人を責めない。包み紙も捨てない。言われた言葉を覚えておく」
おきよが言った。
「言われたら、とめ婆様に言う。それでいいんですか」
「はい」
とめ婆様が頷いた。
「針売りの話は、私へ持ってきな。買ったからって怒りはしない。ただ、隠したら怒る」
女たちが小さく笑った。
これで、針売りを追う目ができた。
清洲の目ではない。
村の暮らしを守る目だ。
それが大事だった。
最後に、水火約束を板へまとめた。
山裾水火約束。
一、清洲飯荷は、当面村内に入れない。
二、水は持ち込みを基本とする。村の水を使う場合は惣右衛門・とめ婆様双方の許しが必要。
三、井戸の朝夕は村優先。清洲側は近づかない。
四、水桶に触らない。
五、火種は借りない。薪は持ち込み。
六、火を使う時は村外。煙と洗濯物に注意。
七、休み場は水場・子どもの道・洗い物の道を避ける。
八、針売りの言葉と品は、とめ婆様経由で記録する。買った者を責めない。
九、男衆だけで飯荷を入れる決定をしない。
九つになった。
太助がぼそっと言った。
「増えたな」
とめ婆様が聞きつけた。
「暮らしは多いんだよ」
誰も反論できなかった。
惣右衛門は板を見て、深く息を吐いた。
「男衆の寄り合いより細かい」
「細かくしないと、水と火は荒れます」
かやが言った。
惣右衛門は頷いた。
「分かった。山裾に飯荷を入れるのは、この約束を村で回してからだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。村の女たちが嫌だと言えば、まだ入れない」
「はい」
それでいい。
山裾仮線は、まだ入口のさらに手前だ。
だが、今日は大きく進んだ。
飯荷を入れない約束ができたからだ。
帰り際、おきよがきぬへ小さな布を差し出した。
「これ、縫ってみました。きぬさんの針で」
縫い目は少し曲がっていた。
でも、丁寧だった。
きぬは受け取り、優しく見た。
「いい縫い目です」
「とめ婆様には、まだまだって言われました」
「まだまだだから、続けられます」
おきよは少し笑った。
その笑顔を見て、俺は思った。
山裾仮線を通すなら、この笑顔を壊してはいけない。
清洲へ戻る途中、太助が言った。
「今日は疲れた」
「荷は軽かっただろ」
「荷じゃない。話が重かった」
作兵衛が頷く。
「山裾は、背中じゃなくて耳が疲れるな」
かやが言った。
「でも、聞けてよかった」
きぬも静かに続ける。
「針売りは、また来るね」
「来ると思います」
俺は答えた。
「その時、村の人たちが隠さず言ってくれるかどうか」
「今日の約束次第だね」
清洲蔵へ戻ると、伊三郎が板を読み、目を細めた。
「九項目ですか」
「暮らしは多いそうです」
「名言ですね」
「とめ婆様の言葉です」
「残します」
伊三郎は嬉しそうに書いた。
山裾、暮らしは多い。
弥助殿へ報告すると、彼は静かに頷いた。
「よい。飯荷を入れないことで、飯線が進んだな」
「はい」
「針売りは来る。次は言葉を拾え。だが、村の女たちを清洲の手先にするな」
「はい」
「村の暮らしを守る目として扱え」
「承知しました」
夜、清洲蔵では、火を使わない山裾用の試し飯を食べた。
小さな握り飯。
薄い味噌片。
乾燥菜。
村の火を借りないための飯。
権六が食べて言った。
「今日の飯は、火種を借りない味だな」
「うまいか?」
「うまいというより、遠慮してる」
かやが頷く。
「山裾では、そのくらいでいいのかもね」
佐助は少し考え込んでいた。
「味を控えめにして、匂いも控えめにします。村の台所の匂いと喧嘩しないほうがいい」
きぬが笑った。
「飯にも遠慮が要るんだね」
作兵衛が言った。
「遠慮しない飯は、道を閉じる」
俺は味噌片を噛んだ。
薄い。
でも、今日の山裾には合っている気がした。
水桶と火種の約束。
それができるまで、飯荷は入れない。
飯を運ばないことで、飯線が一歩進む。
清洲式は、また面倒な形になった。
だが、その面倒の先にしか、美濃へ向かう飯の道はない。




