第九十話 針は小さいが、噂を縫い込む
山裾仮線の見分は、これまでの二本とは最初から違っていた。
北尾根は、乾いた。
喉が先に文句を言った。
鳥が飛べば、こちらの足が見える。
低い松も割れ石も、敵に読まれていた。
川道は、湿った。
水が多いのに飲める水は少なく、飯荷は濡れ、渡し場の客の腹を踏まないようにしなければならなかった。
では山裾は何か。
清洲蔵の板には、伊三郎の字でこう書かれていた。
山裾仮線――村境。火と水は村のもの。噂が家の中へ入る恐れ。
家の中。
その言葉が、妙に重かった。
鳥場は山の上にあった。
渡し場は川辺にあった。
だが、山裾の噂は、家の中へ入る。
針売り。
安い針を売りながら、女たちの手元へ話を落とす。
織田の飯荷が来る。
村の水が取られる。
火を使われる。
井戸が濁る。
薪が足りなくなる。
男たちは銭をもらうが、女たちの手間は増える。
まだ、そう決まったわけではない。
ただの針売りかもしれない。
安い針を売っているだけかもしれない。
けれど、敵が薬売りの顔で弥吉の母の薬代へ入り込んだ後だ。
今度は針売りの顔で、村の台所や針仕事へ入ってもおかしくない。
「清吉」
かやが、山裾用の小荷を見ながら言った。
「今日は、男だけで行くと見えないよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんじゃ困る」
かやの顔は真剣だった。
山裾仮線は、村の火と水を見る。
それは、男衆の寄り合いだけ見ても足りない。
水を汲む者。
火を起こす者。
針仕事をする者。
飯を作る者。
子どもに食べさせる者。
そこへ噂が入るなら、女たちの腹を見なければならない。
だが、俺のような若い男がいきなり村の女たちの中へ入って話を聞けば、それだけで怪しまれる。
だから今日は、かやも行く。
さらに、清洲蔵で味噌片作りを手伝っているきぬにも同行してもらうことになった。
きぬは針仕事もできる。
村の女たちと話す入口になる。
「私が行くのかい」
きぬは最初、目を丸くした。
「無理にとは言いません」
俺が言うと、きぬは少し笑った。
「無理じゃないよ。ただ、清洲蔵もついに針仕事まで見るのかと思ってね」
「飯線なのに、針です」
「飯の支度をするのも、針で袖を直すのも、家の中じゃ同じ手だよ」
その言葉で、俺は少し黙った。
飯と針は別だと思っていた。
だが、村の暮らしの中では同じ手が担うこともある。
水を汲み、火を見て、針を持ち、飯を出す。
敵が針から入るなら、それは飯の手元へ入るのと同じだ。
伊三郎は見分札を作った。
山裾仮線、第一見分。
一、村の水場。
二、火を使う場所。
三、薪の量。
四、女たちの文句。
五、針売りの噂。
六、飯荷を置けるかではなく、置かれると困ること。
七、男衆だけで決めないこと。
最後の一文を見て、権六が言った。
「男衆だけで決めないこと、か」
「大事です」
伊三郎が答える。
「男たちが『いいぞ』と言っても、実際に水や火を扱う人たちが困るなら、飯線は通りません」
権六は腕を組み、珍しく黙った。
それから、ぽつりと言った。
「文句役として、耳が痛いな」
「なぜ?」
「俺も男衆の文句ばかり聞いてた気がする」
かやが少し笑った。
「今日は権六、留守番ね」
「え?」
「声が大きいから」
「またか!」
結局、権六は清洲蔵に残ることになった。
山裾の女たちの話を聞くのに、権六の大声は向かない。
本人は最後まで不満そうだったが、きぬに「針仕事の場で大声の男がいたら針が曲がるよ」と言われ、黙った。
山裾へ向かう一行は、少なかった。
俺、かや、きぬ、作兵衛、太助、小平、護衛二人。
佐助は、村の水や針売りが扱ったものの匂いを見るため、小さな布袋を持って同行する。
伊三郎は残る。
高畑線と川道仮線の通常運用があるからだ。
出発前、弥助殿が短く言った。
「針売りを追うな」
「はい」
「村の女を問い詰めるな」
「はい」
「男衆に先に話を通せ。ただし、男衆だけで終わるな」
「承知しました」
難しい。
踏む順番を間違えれば、山裾仮線は始まる前に閉じる。
村の男衆を無視すれば、村が荒れる。
男衆だけと話せば、女たちの腹が見えない。
女たちへ直接入りすぎれば、別の噂になる。
山裾は、川道よりさらに人の距離が近い。
茶屋を経由して、山裾の小村へ向かった。
茶屋の女将は、俺たちを見てすぐに言った。
「今日は針かい」
「はい」
「針は刺さるよ。言葉より後まで痛む」
「気をつけます」
女将はきぬを見た。
「この人がいるなら少しはましだね」
きぬは軽く頭を下げた。
「針仕事の話なら、男の人よりは聞けるかと」
「聞きすぎないことだよ。女たちの場は、口を開くまで時間がかかる」
覚えておく。
女将は続けた。
「針売りは、昨日も山裾へ行ったらしい。安い針だけじゃなく、糸も少し配ったってさ」
「配った?」
「買った者に、おまけだって」
おまけ。
これも嫌な言葉だ。
ただで渡されるものには、別の値がつくことがある。
清洲蔵で何度も見た。
茶屋を出て、山裾へ進む。
北尾根ほど乾いていない。
川道ほど湿ってもいない。
草は低く、道は緩やか。
村へ向かう人の足跡が多い。
畑が見え、煙が上がっている家もある。
穏やかに見える。
だからこそ、怖い。
人が暮らしている場所は、静かなまま荒れることがある。
山裾の小村に着くと、まず男衆の寄り合いへ話を通した。
村の名主代わりらしい男は、五十を過ぎたくらいの痩せた男だった。
名を惣右衛門という。
俺たちを見るなり、少し警戒した目をした。
「清洲の飯荷か」
「まだ飯荷を入れる話ではありません」
俺は頭を下げた。
「山裾の道を、飯線候補として見られるかどうか、まず村の水と火の事情を聞きに来ました」
「候補?」
「はい。使うと決めたわけではありません。むしろ、使うと困るなら、それを先に知りたいです」
惣右衛門は、少し意外そうにした。
「困ることを聞くのか」
「はい」
「変な清洲だな」
また言われた。
だが、悪い反応ではない。
作兵衛が言った。
「水場、火を使う場所、薪の余り。そこを勝手に使う気はない。使えないなら使えないと見る」
惣右衛門は腕を組む。
「水はある。だが、村のものだ。外の者に好きに汲まれると困る」
「誰が汲んでいますか」
「女たちだ。朝と夕方」
「では、女たちにも話を聞きたいです」
惣右衛門の目が少し鋭くなった。
「女たちに?」
「はい。水を実際に使う人たちの文句を聞かないと、飯線にはできません」
惣右衛門はしばらく俺を見た。
それから、きぬとかやを見た。
「男だけで行くな」
「そのために、きぬさんとかやがいます」
「なら、うちの婆様に話を通す。女衆へは婆様から言わせる」
婆様。
村の女たちをまとめる者だろう。
すぐに会わせてもらうことになった。
婆様は、名をとめと言った。
背は低いが、目が強い。
俺を見るなり言った。
「水の話なら、男に聞いても半分しか分からんよ」
「その半分を聞きに来ました」
「ふん」
とめ婆様は鼻を鳴らした。
少しだけ、茶屋の女将に似ている。
きぬが前へ出て、針仕事の布を取り出した。
「実は、針売りの方が来たと聞きまして。安い針を売っていたとか」
とめ婆様の目が細くなる。
「来たよ」
「針はどうでしたか」
「安い。けど、細すぎる。若い娘は喜んで買ったが、私は嫌いだね。すぐ曲がりそうだ」
きぬが頷いた。
「見せてもらえますか」
とめ婆様は、近くにいた若い女へ声をかけた。
「おきよ、昨日買った針を持っておいで」
おきよと呼ばれた若い女が、少し不安そうに奥へ引っ込んだ。
戻ってきた手には、小さな針包み。
確かに細い。
そして、包み紙が妙に綺麗だった。
安売りの針にしては、紙が良すぎる。
きぬが針を一本取り、指先で少し曲げる。
すぐに眉を寄せた。
「柔らかいですね」
「だろう」
とめ婆様が言った。
「安い針はありがたい。でも、折れた針は怖い」
かやが包み紙を見た。
「この紙、何か書いてありますね」
小さな字。
表には針の数と値段。
裏には、ほとんど飾りのように短い文が刷られていた。
外から来る荷が増える時、水と火は家から減る。
俺の背中に冷たいものが走った。
これだ。
噂紙ほど露骨ではない。
針包みの裏に、小さく縫い込むように書かれた言葉。
水と火は家から減る。
女たちの腹へ入れるには、十分すぎる。
おきよが不安そうに言った。
「それ、何か悪いことなんですか」
俺はすぐ答えなかった。
ここで「敵の紙だ」と言えば、針を買った女たちが責められたように感じるかもしれない。
きぬが先に穏やかに言った。
「悪いのは買った人じゃないよ。ただ、こういう言葉を針の包みに入れる人は、何かを怖がらせたいのかもしれない」
おきよは針包みを見つめた。
「でも、水と火が減るのは、本当じゃないんですか」
その一言に、周りの女たちが静かになった。
これが腹だ。
針売りが入れた言葉は、まったくの嘘ではない。
外から飯荷が来れば、水を使うかもしれない。
火を使うかもしれない。
薪を求めるかもしれない。
井戸端が混むかもしれない。
それが怖い。
だから効く。
「本当になる可能性があります」
俺は正直に言った。
かやが少しこちらを見る。
でも、嘘は言えない。
「だから、勝手に使わないために、今日は聞きに来ました。村の水と火を使えるかではなく、使われると何が困るかを」
おきよは黙った。
とめ婆様が、少しだけ目を和らげた。
「あんた、そこは嘘をつかないんだね」
「嘘をつくと、飯が通らなくなります」
「飯?」
「清洲は、飯を運ぶ道を見ています。でも、村の水や火を荒らせば、飯は通らない。だから、先に文句を聞きたいです」
とめ婆様は、近くの女たちへ言った。
「言ってみな」
最初は誰も口を開かなかった。
こういう時、沈黙が一番重い。
きぬが自分の針を出して、布を縫いながら言った。
「針売りの針、細かい縫い目には向くかもしれません。でも、厚い布には弱いですね。無理すると折れます」
おきよがぽつりと言った。
「私、二本折りました」
そこから、少しずつ声が出た。
「井戸は朝が混む。兵や人足が来たら邪魔」
「薪は余っているように見えるけど、雨の日に困る」
「火を借りに来られるのが一番嫌。火種を絶やすと怒られるのは女だから」
「水桶を勝手に触られるのも嫌」
「男衆は『少しくらい』って言うけど、その少しを運ぶのはこっち」
「飯荷の人が休むなら、子どもが怖がる」
「知らない男が水場にいるのは嫌」
かやは、黙って聞いていた。
きぬも頷くだけ。
俺は小帳面に必死で書いた。
字が追いつかない。
佐助が隣で、針包みの匂いを見ている。
「包み紙に、油と少し香の匂いがあります。針売りが同じ紙をたくさん持っているかもしれません」
「噂を包み紙にしているのか」
俺が小声で言うと、佐助は頷いた。
「はい。噂紙より自然です。捨てられにくい」
針包みは、家に持ち帰られる。
何度も開ける。
裏の言葉を見る。
女たちの手元に残る。
これは厄介だ。
噂紙のように燃やせば済むものではない。
とめ婆様が言った。
「清洲の人。あんたたちが水を使わないと言っても、後から兵が来たらどうなる」
重い問いだった。
「使うなら、先に決めます」
俺は言った。
「井戸は朝夕に近づかない。水を使うなら村の水番、またはとめ婆様たちの許しを得た分だけ。水桶は触らない。火種は借りない。薪は持ち込みを基本にする」
「基本、ね」
とめ婆様は逃さない。
「足りなくなったら?」
「足りなくならない量を持ってくる。それでも足りない時は、その日は使わない。使いたいから借りる、にはしません」
言いながら、これを守るのは難しいと思った。
だが、言わなければ始まらない。
かやが続けた。
「休み場も、水場の近くにしません。子どもが通る道も避けます。男の人足ばかりなら、村の中には入れません」
おきよが少し驚いた顔をした。
「そこまで?」
「そこまでしないと、怖いでしょ」
かやの言葉は静かだった。
おきよは小さく頷いた。
「……怖いです」
それが本音だった。
飯荷が来ることより、知らない男たちが水場や火の近くへ来ることが怖い。
その腹を見ないまま、山裾仮線は通せない。
男衆の惣右衛門も、途中から黙って聞いていた。
女たちの文句が出るたび、少し苦い顔になっていた。
最後に惣右衛門が言った。
「男衆だけで『よし』と言う話ではないな」
「はい」
俺は答えた。
とめ婆様が針包みを持ち上げた。
「この針売り、また来ると思うよ」
「いつ頃ですか」
「女たちが針を使って、曲がった、折れたと言い出す頃だ。そうしたら『もっと丈夫な針がある』と言って来る」
商いとしても筋が通る。
まず安い針を売る。
不満が出る。
次に別の針を売る。
その時に、さらに噂を入れる。
薬売りと似ている。
不安を作り、その不安を売る。
「針包みを一つ、預かれますか」
俺が聞くと、おきよは少し迷った。
きぬが言った。
「代わりに、私の針を一本置いていきます。丈夫かどうか試してください」
「いいんですか」
「もちろん。折れたら文句を言ってください」
おきよは少し笑った。
「文句を言っていいんですか」
「清洲は文句を聞きに来たんでしょう?」
きぬが俺を見る。
俺は頷いた。
「はい。聞きに来ました」
針包みを一つ預かった。
女たちの文句も、できるだけ書いた。
最後に、とめ婆様が言った。
「水と火を使わないと決まるまで、山裾に飯荷は入れるな」
「はい」
「見に来るのはいい。だが、見るだけでも知らない男を増やすな」
「分かりました」
「分かってないなら、かやさんときぬさんを連れてきな」
俺は頭を下げた。
言葉は厳しいが、拒絶ではなかった。
道は閉じられていない。
ただ、勝手に入るなと言われただけだ。
これは大きい。
帰り道、太助が言った。
「山裾、怖いな」
「何が?」
「文句が家の中から出てくる。川道の文句より近い」
作兵衛が頷く。
「水桶や火種の文句は重い。男衆が後から気づくやつだ」
かやが言った。
「気づいてよかったよ。男衆だけで決めてたら、絶対あとで荒れた」
きぬも静かに言う。
「針売りは、いいところを突いたね。腹立つくらい」
清洲蔵へ戻ると、伊三郎が報告を聞いて目を細めた。
針包みの裏の文言。
外から来る荷が増える時、水と火は家から減る。
伊三郎はその文を見て、珍しく嫌そうな顔をした。
「短く、嫌な文です」
「効きますか」
「効きます。嘘ではないところが悪い」
報告をまとめる。
山裾仮線、第一見分。
針売り、安い針と糸のおまけ。
針は柔らかく、折れやすい。
針包み裏に噂文。水と火は家から減る。
女衆の不安、井戸の混雑、薪不足、火種、水桶、知らない男、子どもの怖がり。
男衆だけで決めない。
村の水場、朝夕不可。
火種借用不可。薪は持ち込み前提。
休み場は水場・子どもの道から離す。
とめ婆様、山裾飯荷は水と火の決まりまで入れるな。
針売り再訪の可能性。
弥助殿は報告を聞き、低く言った。
「薬売りの次は針売りか」
「はい」
「敵は、飯荷そのものより周りの腹を狙う」
「山裾仮線はどうしますか」
「見分継続。ただし、飯荷はまだ入れない。まず水と火の約束を作れ」
「はい」
「針売りは追うな。次に来た時、何を言うか見る」
また泳がせる。
だが、今回は弥吉一人ではない。
村の女たち全体が関わる。
慎重にしなければならない。
夜、清洲蔵では普通の粥を食べた。
今日は針の話ばかりしていたのに、飯はいつもより重く感じた。
権六が椀を持って言った。
「今日の飯は、針が入ってるみたいな味だな」
「入ってないぞ」
「分かってる。でも、ちくっとする」
かやが静かに頷いた。
「針は小さいけど、噂を縫い込むんだね」
佐助が針包みを布の上に置いた。
「食べ物じゃなくても、匂いと紙で人の腹へ入るんですね」
作兵衛が言った。
「山裾は、飯荷を置く前に家の中の不安を見ないと駄目だ」
きぬが針を一本手に取り、灯りにかざした。
「針は、良いものなら布をつなぐ。でも悪いものなら、折れて指を刺す。噂も同じだよ」
俺は粥をすすった。
山裾仮線は、まだ入口にも立っていない。
だが、もう見えた。
ここでは、飯荷より先に水桶と火種と針仕事を見る必要がある。
外から来る荷が増える時、水と火は家から減る。
敵の言葉は、短く、嫌なほど効く。
なら、こちらは言葉ではなく、約束と形で返すしかない。
水を勝手に使わない。
火種を借りない。
薪を持ち込む。
知らない男を水場に近づけない。
女たちの文句を帳面に残す。
山裾仮線は、飯より先に家の中の不安を解く線になりそうだった。




