第八十九話 鳥が来なくなった尾根
渡し場不買板は、思ったより効いた。
大きく貼り出したわけではない。
喜助の小屋の脇に置き、客に聞かれた時だけ見せる。
それだけだ。
だが、それで十分だった。
市松は相変わらず文句を言った。
「字がまだ少し硬い」
清洲蔵へ戻ってきた連絡足がその言葉を持ち帰った時、伊三郎は一瞬だけ眉を動かした。
「硬い、ですか」
「そう言ってたぞ。『商人に見せるなら、もっと腹に入る言葉にしろ』って」
太助が市松の口真似をすると、権六が腹を抱えて笑った。
「市松、文句役として見込みがあるな」
「取られるぞ、権六」
「俺の文句は清洲公認だ」
「いつ公認されたんだ」
「上様に褒められた」
それを言われると、少し強い。
実際、権六の文句は何度も役に立っている。
伊三郎は、しばらく考えてから渡し場不買板の写しを直した。
清洲は渡し場を買い取らない。
飯荷のために普通客の渡し賃を上げない。
喜助は清洲の者ではなく、川を見る者。
川が駄目なら、清洲の荷も止まる。
飯荷は客の後ろを渡る。
待ちや文句は帳面に残す。
少し短くなった。
「これなら市松さんも読めるかな」
かやが言うと、伊三郎は真面目に答えた。
「読めるはずです」
「市松さん、読めないわけじゃないよ。読みにくいって言ってるだけ」
「では、読みにくくないようにしました」
伊三郎も、だんだん文句を受けるのに慣れてきた。
川道仮線は、少しずつ安定し始めた。
喜助は川見札を出す。
青なら渡し可。
黄なら待て。
赤なら不可。
黒印なら濡れ危険。
白印なら本流使うな。
丸印なら細湧き少量可。
飯荷は客の後ろを渡る。
折り畳み小台は、舟に据え付けず、使うたびに外す。
濡れ戻り棚には、川道から戻った竹皮や笹がきちんと置かれるようになった。
普通の客が待った時は、短くても記録する。
市松は、最初の頃ほど鋭く噛みついてこなくなった。
ただし、油断はできない。
油断すると、すぐ噛む。
「市松さん、今日は何て?」
俺が聞くと、太助は札筒から文句札を出した。
「『飯荷はおとなしくなったが、小台の縄が舟の端に当たる音が耳につく』だって」
かやがすぐ小台を見た。
「音か」
「音まで文句にするのか」
権六が感心したように言った。
「いい文句だ」
「権六、嬉しそうだね」
「文句が細かいのは、道が見えてる証拠だ」
作兵衛も頷く。
「音は大事だ。舟で変な音がすると、客が不安になる」
市松の文句は、また役に立った。
小台の縄に布を一枚噛ませ、舟の端に当たっても音が出にくいようにした。
川道仮線は、飯荷そのものより、渡し場の信用を少しずつ積む段階に入っていた。
そんな時だった。
北尾根から、鳥が消えた。
最初に気づいたのは、茶屋の女将だった。
青布でも赤紐でも白布でもない。
茶屋の軒に、何も出ていないのに、連絡足の太助が戻ってきて言った。
「おかみさんが妙なこと言ってた。『北の鳥が静かすぎる』って」
清洲蔵の空気が少し変わった。
鳥が騒ぐなら分かる。
餌を撒かれた鳥場で鳥が集まり、飛ぶ。
それが合図になっていた。
だが、静かすぎる。
それはそれでおかしい。
「鳥がいないということですか」
伊三郎が聞くと、太助は頷いた。
「おかみさんはそう言ってた。『餌をやめた鳥は、しばらくうるさくするものだけど、今日は妙に静かだ』って」
茶屋の女将は、鳥の腹まで見ている。
俺たちは顔を見合わせた。
北尾根は保留中だ。
薬売りは泳がせていた。
弥吉は茶屋と清洲の間で守っている。
母親の薬は清洲の医者が見ている。
鳥場の餌は止めた。
その後、薬売りは古い榎へ現れなくなった。
三日後の再接触を待っていたが、薬売りは来なかった。
さらに二日待っても来ない。
そして、鳥場が静かになった。
「逃げたのか」
権六が言った。
「薬売りが?」
「そうだ。こっちに見られたと気づいて逃げた」
それなら分かりやすい。
だが、分かりやすい答えほど、少し怖い。
弥助殿へ報告すると、彼は短く言った。
「逃げたなら、どこへ行ったかを見る」
「北尾根を諦めたのでしょうか」
俺が聞くと、弥助殿は首を横に振った。
「分からん。諦めたふりかもしれん。別の線へ移ったのかもしれん。鳥場を捨てたのなら、次はもっと人の腹に入りやすい場所を狙う」
「川道ですか」
「川道は今、目が多い。喜助、市松、客、清洲。噂紙は出したが、すぐ返された」
弥助殿は地図を見た。
高畑線。
北尾根仮線。
川道仮線。
そして、まだ手をつけていない山裾仮線。
指が止まったのは、山裾手前候補だった。
「次は、ここかもしれん」
山裾。
村境。
草地。
火は条件付き。
水場はあるかもしれないが、村のものかもしれない。
噂が入りやすい。
以前、机上見分でそう見ていた場所だ。
まだ実地には入っていない。
だから、敵にとってもこちらにとっても、腹が見えにくい。
「敵がこちらの候補を全部知っているとは限りません」
伊三郎が言った。
弥助殿は頷く。
「そうだ。だが、北尾根の低い松と割れ石を知っていた。川道の渡し場の噂も早かった。誰かがこちらの動きを見ている」
「清洲蔵の中ですか」
権六の声が低くなる。
蔵が静かになった。
疑いは嫌だ。
だが、考えないわけにもいかない。
弥助殿はすぐに言った。
「決めつけるな。中だけではない。茶屋、川道、渡し場、前進飯場、連絡足の道。見える場所はいくらでもある」
少し息ができた。
だが、安心ではない。
飯線が増えるほど、見られる場所も増える。
北尾根の鳥場が消えたことは、終わりではない。
敵の目が別の場所へ移ったかもしれない合図だった。
「今日は、北尾根の鳥場を遠目で見ます」
俺は言った。
弥助殿がこちらを見る。
「踏むな」
「踏みません。鳥がいないこと、餌が残っているか、物見座り場が使われているかを、遠くから見るだけです」
「弥吉は?」
「連れていきません」
弥吉を連れていけば、薬売りや山の者にまた見られるかもしれない。
それに、弥吉は今、母の看病をしている。
使いすぎてはいけない。
「茶屋には寄ります。女将の話を聞きます」
「茶屋を潰すな」
「はい」
その言葉も、もう何度目か分からない。
でも、何度でも必要だ。
北尾根へ向かう一行は少なかった。
俺、かや、作兵衛、太助、小平、護衛二人。
佐助は清洲に残り、薬売りの残した薬と餌を医者へ渡す手配を続ける。
伊三郎も残り、川道飯荷手間帳と渡し場不買板の整理をする。
権六は行きたがったが、弥助殿に止められた。
「清洲で文句を聞け。川道からまた来るかもしれん」
そう言われると、権六も黙るしかない。
茶屋に着くと、女将は軒下で茶碗を拭いていた。
北の山を一度見てから、俺たちへ言う。
「やっぱり静かだね」
「鳥が?」
「鳥も、人も」
「人も、ですか」
「炭焼きの弥吉は来ていない。薬売りも見てない。北へ急ぐ足音が消えた」
足音が消えた。
それは静かすぎる鳥と同じくらい不気味だった。
「薬売りは逃げたのでしょうか」
「逃げたか、場所を変えたかだね」
女将は茶を注ぎながら言った。
「鳥に餌をやってた者が来なくなれば、鳥は一度騒ぐ。餌を探してね。でも、今日は騒がない。ということは、餌場そのものに何かしたか、鳥が寄れないようにしたか」
「鳥が寄れないように?」
「人が入ったとか、匂いを変えたとか。山のことは山の者に聞かないと分からないけど」
また山の者だ。
炭焼き場へ直接踏み込まないまま、どう見るか。
それはまだ解けていない。
「今日は鳥場を踏まずに見ます」
俺が言うと、女将は頷いた。
「踏まないほうがいい。静かな場所ほど、足音が大きく聞こえる」
茶屋を出て、北へ折れる。
草の高い入口は、前より少し踏まれた跡があった。
俺たちの足跡だけではないかもしれない。
かやがしゃがむ。
「最近、誰か入ってる」
「炭焼きか?」
太助が聞く。
「分からない。でも、急いだ足跡じゃない。ゆっくり入って、ゆっくり出てる感じ」
作兵衛が足跡を見た。
「荷は軽いな。深く沈んでない」
薬売りか。
山の者か。
別の誰かか。
決めない。
記録する。
木立を抜け、尾根入口へ。
今日も見晴らしがいい。
だが、鳥の声が少ない。
前は遠くで鳴いていた黒い鳥の声が、ほとんどしない。
俺たちは尾根上へ出ず、尾根下道へ回る。
低い松と割れ石は使いすぎない。
今日は割れ石より手前で曲がり、草の低い場所を拾った。
物見座り場が見える低い藪へ入る。
待つ。
鳥はいない。
鳥場の方向に、黒い影がない。
草が動く気配もない。
物見座り場も、今日は使われていないように見えた。
だが、使われていない場所にも、昨日まで使われていた跡は残る。
小平が指差した。
草倒れの近くに、小さな棒が一本立てられている。
前はなかった。
枝を折って地面へ差しただけのようなもの。
目印か。
それとも、鳥場を捨てた印か。
かやが目を細める。
「踏んじゃ駄目な印に見える」
「誰に向けて?」
「餌を置く人か、物見か。『ここはもう使うな』って」
あり得る。
薬売りがいなくなったのは、逃げただけではない。
北尾根の仕掛けを引いたのかもしれない。
つまり、撤収だ。
敵が北尾根から目を引いた。
だとしたら、次の場所がある。
作兵衛が低く言った。
「鳥場が放置じゃない。片付けられてる」
「そう見えるか」
「ああ。放っておいた静けさじゃない。人が触って静かにした感じだ」
人が触って静かにした。
嫌な言葉だった。
自然に静かなのではない。
誰かが静かにした。
こちらに「もう何もない」と思わせるためか。
それとも、本当に別へ移るためか。
太助が小声で言った。
「ここ、もう見ても何も出ない気がする」
「なぜ?」
「文句がない。前は喉とか足とか、鳥が嫌だとか、いろいろ腹がざわついた。今日は、何か空っぽで嫌だ」
文句がないのが嫌。
それは、案外大事な感覚だった。
飯線の見分で、文句が出ない場所は本当に良い場所か、何かが隠れている場所だ。
北尾根の場合、後者に感じる。
俺は小帳面に書いた。
鳥場、鳥なし。
声少ない。
物見座り場使用気配なし。
小枝印あり。撤収印疑い。
放置ではなく片付けの静けさ。
文句がないのが嫌。
最後の言葉は太助の文句だ。
本人はまた嫌がるだろうが、書く。
今日はここまで。
鳥場へは近づかない。
小枝印にも触らない。
戻る。
帰り道、茶屋へ寄ると、女将が俺たちの顔だけで何か察したようだった。
「空っぽだったかい」
「はい。空っぽすぎました」
「じゃあ、北じゃないかもしれないね」
「どこだと思いますか」
女将はすぐには答えなかった。
茶碗を一つ拭き、棚へ戻してから言った。
「人が消える時は、道も消える。でも、商いは消えない。薬売りが消えたなら、次は薬じゃないものを売る顔で来るかもしれない」
「薬じゃないもの」
「種、塩、針、布、紙。村へ入る口はいくらでもある」
山裾。
村境。
噂が入りやすい場所。
俺は地図を思い出した。
山裾仮線。
まだ手をつけていない三つ目の候補。
「山裾の村に、最近、知らない商いが入っていませんか」
俺が聞くと、女将は少し目を細めた。
「山裾手前の小村かい?」
「はい」
「昨日、針売りが来たって聞いたよ。女たち相手に、やけに安い針を売ってたとか」
針売り。
薬売りの次は、針売り。
偶然かもしれない。
だが、弥助殿の言葉が浮かぶ。
次はもっと人の腹に入りやすい場所を狙う。
山裾の村で、女たちへ安い針。
村の暮らしの腹へ入るには、十分だ。
「ありがとうございます」
「まだ敵と決めるんじゃないよ」
女将が先に言った。
「分かっています」
「分かってる顔じゃないね」
「……気をつけます」
清洲へ戻ると、すぐ弥助殿へ報告した。
北尾根の鳥場が空になったこと。
小枝印。
片付けられたような静けさ。
茶屋の女将が山裾手前の小村に針売りが来たと聞いていること。
弥助殿は地図を見た。
北尾根から、指が山裾へ動く。
「やはり移ったかもしれん」
「山裾仮線を見ますか」
「見る。だが、兵で踏み込むな。針売りを追うな。まず村の腹を見る」
また同じだ。
鳥を追わずに鳥へ餌をやる者を見た。
薬売りを捕まえずに弥吉の腹を見た。
今度は針売りを追わず、村の腹を見る。
飯線の見分は、いつも遠回りだ。
でも、その遠回りでしか見えないものがある。
伊三郎が新しい板を出した。
山裾仮線。
まだ何も書かれていない。
そこへ最初の一行が入る。
針売りの噂あり。敵移動疑い。村の腹を見ること。
権六がそれを見て言った。
「また新しい文句が出そうだな」
「出るだろうな」
「村の文句は重いぞ」
作兵衛が頷いた。
「山裾は、兵より先に村の女たちの文句が出るかもしれん」
針売りなら、そうだろう。
かやも静かに言った。
「安い針は怖いね」
「なぜ?」
太助が聞くと、かやは針仕事の布をつまんだ。
「安い針は助かる。でも、折れやすい針なら怪我する。針に噂を巻いて売られたら、家の中に入る。男たちが見る前に、女たちの手元へ入る」
鋭い。
山裾仮線は、北尾根や川道とはまた違う。
鳥でも水でもない。
家の中へ入る小さな商い。
そこから噂が入るかもしれない。
夜、清洲蔵では厚味噌片湯ではなく、普通の粥を食べた。
川道の話から、北尾根の空白、そして山裾の針売りへ。
腹が追いつかない。
権六が椀を持って言った。
「今日の飯は、鳥がいない味だな」
「寂しい味か?」
「いや、怖い味だ。いると思ってた鳥がいないと、逆に腹がざわつく」
かやが頷いた。
「静かすぎる場所は、怖いね」
佐助が言った。
「薬売りの次が針売りなら、今度は食べ物ではないですね」
「でも、飯線には関係ある」
俺は答えた。
「村の腹が荒れたら、飯は通らない」
作兵衛が静かに言う。
「道は人の腹で閉じる、だったな」
太助が少し嫌そうにした。
「また俺の言葉」
「良い言葉だ」
伊三郎が真面目に言った。
皆が笑った。
でも、笑いの奥に次の不安があった。
北尾根の鳥場は静かになった。
川道は少し安定した。
そして、山裾に針売りが来た。
敵が線を移したのか。
ただの商いか。
まだ分からない。
だが、見なければならない。
山裾仮線。
次は、村の腹を見る。
鳥が消えた尾根の静けさは、そのまま次の道への合図になっていた。




