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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第八十八話 買い取らない道

噂紙は、朝の川辺に落ちていた。


 最初に見つけたのは、市松だった。


 布包みを背負って渡し場へ来た彼が、舟着きの近くに落ちていた紙を拾い、そこに書かれていた文字を読んで、そのまま喜助の胸ぐらを掴みかけたらしい。


 らしい、というのは、俺たちがその場にいなかったからだ。


 知らせは、川見役の喜助からではなく、市松本人から清洲蔵へ届いた。


 しかも怒鳴り込みに近かった。


「清吉はいるか!」


 朝の蔵に、市松の声が響いた。


 権六が味噌湯の椀を持ったまま振り返る。


「お、文句の気配がする」


「喜ぶな」


 俺は慌てて入口へ向かった。


 市松は息を切らしていた。


 普段から口は悪いが、今日は顔が本気で赤い。


 手には、折れた紙が握られている。


「これは何だ」


 市松は紙を突き出した。


 俺が受け取る前に、伊三郎が横から布を出した。


「直接触らず、こちらへ」


「相変わらず面倒だな」


 市松は苛立ちながらも、紙を布の上へ置いた。


 伊三郎が広げる。


 そこには、雑な字でこう書かれていた。


 織田、川道の渡し場を買い取る。

 喜助はすでに清洲の者。

 渡し賃は軍荷優先のため倍となる。

 逆らう客は後回し。


 蔵の中が、しんとした。


 権六だけが小さく呟いた。


「腹立つ紙だな」


 その通りだった。


 腹立つ。


 だが、それ以上に、よくできている。


 真っ赤な嘘ではない。


 清洲の飯荷が渡し場を使う。

 喜助が川見役を仮に引き受けた。

 清洲荷の手間は別に記録し、手当てを出す話をしている。


 その事実をねじ曲げれば、「織田が渡し場を買い取る」「喜助は清洲の者」「渡し賃が倍になる」という噂になる。


 敵は、やはり銭の穴を見ている。


 しかも、昨日の説明でせっかく見えるところへ出した穴に、今度は泥を投げ込んできた。


 市松が詰め寄る。


「昨日の説明は何だったんだ。普通の客の渡し賃に混ぜないと言ったな。清洲は渡し場を買わないとも言えるのか」


「言えます」


 俺は即答した。


 市松の目が少し細くなる。


「本当にか」


「はい。清洲は渡し場を買い取りません。少なくとも、俺たち川道仮線の飯荷としては、そんな話はありません」


「おまえたちの知らないところで決まるかもしれないだろ」


 鋭い。


 そして痛い。


 俺は信長様ではない。


 織田家のすべての決定を俺が保証できるわけではない。


 ここで軽く「絶対ありません」と言えば、後で違う話が出た時、清洲蔵の言葉は終わる。


 だから、正直に言うしかない。


「俺が織田家全部の先の話まで保証することはできません」


 市松の顔が険しくなった。


「ほら見ろ」


「でも、川道仮線のために渡し場を買い取る話はありません。喜助殿を清洲の者にする話もありません。渡し賃を倍にする話もありません。今ある話は、清洲飯荷で増えた手間を普通のお客さんの銭へ混ぜないため、別に記録する、ということです」


 市松は黙った。


 怒りは消えていない。


 だが、聞いてはいる。


 伊三郎が紙を見ながら言った。


「この紙は、昨日の説明を聞いた者、または近くで聞いていた者が内容をねじ曲げた可能性があります」


「つまり、あの場にいた誰かが敵か?」


 市松の声が低くなる。


「そうとは限りません」


 俺は急いで言った。


「聞いた話が外へ漏れ、それを誰かが紙にした可能性もあります。ここで渡し場の客同士を疑わせるのが狙いかもしれません」


 市松は舌打ちした。


「面倒だな」


「はい。面倒です」


 かやが紙を覗き込み、眉を寄せる。


「この紙、渡し場に何枚ありましたか」


「俺が見たのは一枚だ。だが、喜助が上流側でもう一枚見つけた」


「喜助殿は?」


「渡し場にいる。客が来るから離れられない」


 それも大事だった。


 喜助は、噂紙が出ても渡し場を離れられない。


 客を渡さなければならない。


 噂対応まで喜助一人に背負わせれば、それこそ「喜助は清洲の者」と言われる。


「すぐ行きます」


 俺は言った。


「ただし、飯荷は持ちません。今日はまず噂紙の対応です」


 権六が椀を置いた。


「俺も行く」


「声が大きい」


「今日は大きくていいだろ。文句が集まる日だ」


 かやが少し考えてから頷いた。


「今日は権六がいたほうがいいかも。渡し場の人たちの文句を散らさず聞ける」


 権六は得意げになりかけたが、作兵衛に肩を叩かれて顔を引き締めた。


「調子に乗るな。火に油を注いだら川に放り込むぞ」


「分かってる」


 分かっている顔ではなかったが、連れていくことになった。


 渡し場へ向かう道中、市松はずっと早足だった。


「市松さん」


 俺が声をかけると、彼は振り返らないまま言った。


「何だ」


「紙を見つけて、清洲へ持ってきてくれて助かりました」


「怒鳴り込んだだけだ」


「それでも、噂になる前に持ってきてくれました」


 市松は少しだけ歩みを緩めた。


「……喜助に言ったら、清洲へ持っていけと言われた」


「喜助殿が?」


「俺が騒げば客が不安になる。怒るなら清洲で怒れ、と」


 喜助らしい。


 渡し場を荒らさないために、怒りの行き先を清洲へ向けた。


 川見役として、すでに働いている。


 渡し場に着くと、空気は重かった。


 喜助は舟の縄を持っている。


 顔はいつもより険しい。


 客が三人。


 魚籠の男。

 昨日もいた布商人の一人。

 そして、向こう岸へ行く農夫らしい男。


 皆、こちらを見た。


 誰も大声では言わない。


 でも、腹の中で同じことを考えているのが分かった。


 織田が渡し場を買うのか。


 渡し賃は上がるのか。


 喜助は清洲に買われたのか。


 喜助が短く言った。


「清吉、紙は見たな」


「はい」


「買われてねえぞ、俺は」


「分かっています」


「俺が言っても、信じない奴はいる」


「だから来ました」


 俺は渡し場の皆へ向き直った。


 頭を下げる。


「噂紙について、清洲から説明します」


 農夫がぼそっと言った。


「説明ってのは、だいたい後から変わる」


 厳しい。


 だが、分かる。


「変わらないように、紙にします。今日ここで話したことも、帳面に残します」


 権六が一歩前に出た。


「文句がある奴は、今言ってくれ。後で紙にされるより、ここで言われたほうがましだ」


 魚籠の男が笑った。


「おまえは何者だ」


「文句役だ」


「そんな役があるのか」


「最近できた」


 少しだけ笑いが起きた。


 張り詰めた空気が、ほんの少し緩む。


 権六は、意外と役に立った。


 俺は噂紙を布の上に置き、皆へ見せた。


「この紙には、織田が渡し場を買い取る、渡し賃が倍になる、喜助殿が清洲の者になる、と書いてあります」


 言葉にすると、またざわついた。


 逃げずに続ける。


「川道仮線の飯荷について、渡し場を買い取る話はありません。喜助殿は清洲の者ではなく、渡し場の川見役です。川を見て、渡せるか渡せないかを清洲へ伝える役です」


 喜助が横から言った。


「俺が駄目と言ったら、清洲の荷でも止める」


 市松がすぐ言う。


「昨日もそう言ってたな」


「今日も言う」


 喜助の声は低く、強かった。


 俺は続けた。


「渡し賃について。普通のお客さんの渡し賃を、清洲飯荷のために上げる話はありません。清洲飯荷で増えた手間は、川道飯荷手間帳に別に記録します」


 伊三郎が作った写しの板を出す。


 かやがそれを持って皆に見えるようにした。


「飯荷の数。小台使用。客の待ち。喜助殿の追加手間。濡れ処理。客の文句。これらは別に記録します。普通の渡し賃へ混ぜないためです」


 農夫が聞いた。


「それを誰が見る」


「清洲蔵、喜助殿、必要なら市松さんたちにも見せます」


 市松がこちらを見た。


「俺たちにも?」


「はい。全部は軍のこともあるので見せられない部分もあります。でも、渡し場手間に関わる部分は見える形にしたいです」


 魚籠の男が言った。


「見えるなら、噂は減るな」


「減らしたいです」


「ただ、清洲が見せたいところだけ見せるんじゃないのか」


 これも痛い。


「その不安も記録します」


 俺が言うと、権六が横から言った。


「不安そのものも帳面に入る。清洲式はそういう面倒なやつだ」


 市松が鼻で笑った。


「面倒だが、嘘よりはましか」


 少しだけ、場の空気が変わった。


 完全ではない。


 だが、紙の毒が少し薄まった気がした。


 その時、喜助が川を見て黄札を出した。


「客一人、先。話は続けていいが、渡しは止めない」


 客は農夫だった。


 農夫は少し驚いた顔をする。


「この話の途中で?」


「途中でも渡しは渡しだ。用があるんだろ」


「ああ」


「じゃあ乗れ」


 喜助は、普通に客を乗せた。


 俺たちは話を止めた。


 農夫を先に渡す。


 噂紙の説明より、目の前の客を渡す。


 それが一番の説明だった。


 舟が出ている間、市松がぽつりと言った。


「これを続けられるかだな」


「はい」


「今日だけなら誰でもできる」


「だから帳面にします」


「そればっかりだな」


「それしかないので」


 市松は少し笑った。


 農夫を渡して喜助が戻ると、説明を再開した。


 今度は、かやが小台を見せた。


「清洲用の小台は、舟に据え付けません。使ったら外します。普通の荷の場所を取らないよう、飯荷の量も喜助殿が決めます」


 喜助が言う。


「客が多けりゃ飯荷は待ち。水が悪けりゃ飯荷は止める。俺が決める」


 布商人が聞いた。


「清洲はそれで困らないのか」


「困ります」


 俺は答えた。


「でも、無理に渡して荷を濡らすほうが困ります。渡し場の信用を失うほうが、もっと困ります」


 市松が頷いた。


「そこは昨日も言っていたな」


「はい」


「なら、今日の紙の返事も紙にしろ」


 市松の言葉に、俺は少し驚いた。


「紙に?」


「そうだ。噂紙に紙で返すんじゃない。渡し場に貼るんだ。清洲は渡し場を買わない。客の渡し賃に飯荷の手間を混ぜない。喜助が駄目と言えば止める。そう書け」


 喜助が顔をしかめた。


「貼ると目立つ」


「貼らなきゃ、また紙を撒かれるぞ」


 市松と喜助が睨み合う。


 どちらも正しい。


 貼れば目立つ。

 貼らなければ噂紙だけが広がる。


 伊三郎がいれば、すぐに折衷案を出しそうだ。


 俺は考えた。


「渡し場に大きく貼るのではなく、喜助殿のところに置く板にしましょう。客が聞いたら見せられる板。常に貼り出すのではなく、尋ねられたら出す」


 喜助が頷いた。


「それならいい」


 市松は少し不満そうだったが、やがて言った。


「まあ、最初はそれでいい。ただ、紙が増えたら貼れ」


「はい」


 また一つ決まった。


 渡し場不買板。


 いや、名前がひどい。


 でも伊三郎なら書くだろう。


 清洲は渡し場を買い取らない。

 喜助は清洲の者ではなく川見役。

 客の渡し賃に清洲飯荷の手間を混ぜない。

 飯荷は客の後ろを渡る。

 川見役が不可と言えば清洲荷も止める。

 文句は川道飯荷手間帳へ記す。


 その場で簡単な案を書いた。


 字は下手だ。


 市松が見て言った。


「読みにくい」


「清洲へ戻ったら伊三郎に清書してもらいます」


「そうしろ」


 説明を終えた後、喜助は噂紙を二枚、布に包んで渡してきた。


「これも持っていけ」


「はい」


「俺が捨てると、隠したと言われる」


「分かりました」


 噂紙も証拠として残す。


 隠さない。


 渡し場から戻る途中、権六が言った。


「市松、文句役に向いてるな」


「本人に言うなよ」


「言わねえよ。俺の仕事が取られる」


 かやが笑った。


「権六、職を守る気になってる」


「文句役も楽じゃねえんだ」


 確かに楽ではない。


 だが、市松の文句は今日、渡し場を守った。


 噂紙を清洲へ持ち込んだ。


 紙で返す案も出した。


 文句は、腐る前に出れば道具になる。


 清洲蔵へ戻ると、伊三郎が噂紙を見て顔を険しくした。


「嫌な紙ですね」


「はい」


「ですが、返し方は良いです。渡し場不買板を作ります」


「やっぱりその名前ですか」


「分かりやすいです」


 もう諦めた。


 伊三郎は清書した。


 渡し場不買板。


 一、清洲は川道飯荷のために渡し場を買い取らない。

 二、喜助は清洲の者ではなく、川を見て可否を告げる川見役である。

 三、普通客の渡し賃に、清洲飯荷の手間を混ぜない。

 四、飯荷は客の後ろを渡る。

 五、川見役が不可と言えば、清洲飯荷も止める。

 六、文句と待ち時間は川道飯荷手間帳へ記す。


 弥助殿へ報告すると、彼は板を読み、少しだけ目を細めた。


「よい。貼りすぎるな。だが、聞かれたら出せ」


「はい」


「噂紙は、敵が川道を気にしている証でもある」


「北尾根に続いて、川道もですか」


「飯線候補は、敵にとって嫌なところから狙われる」


 その言葉は重かった。


 北尾根は鳥場と薬売りで狙われた。

 川道は渡し賃と買い取りの噂で狙われた。


 飯そのものではない。


 人の不安を狙っている。


 夜、清洲蔵では厚味噌片湯を飲んだ。


 今日は少し苦かった。


 笹の香りではない。


 噂紙の苦さだ。


 権六がすすって言った。


「今日の飯は、買い取らない味だな」


「どういう味だ」


「人の道を金で潰さない味」


 かやが静かに頷いた。


「それ、大事だね」


 佐助も椀を見て言った。


「買った道は早いかもしれません。でも、恨まれたら飯が通らなくなります」


 作兵衛が腕を組む。


「道は買うより、通らせてもらうほうが強い時がある」


 俺はその言葉を腹に入れた。


 川道仮線は、渡し場を買い取らない。


 喜助を買わない。


 客の銭を踏まない。


 飯荷は、客の後ろを渡る。


 それは遠回りに見える。


 だが、信頼は遠回りでしか運べないのかもしれない。


 渡し賃の噂は、水より早く広がった。


 なら、返事も早く、でも乱暴ではなく。


 川道仮線は今日、飯を渡すより先に、買い取らない道を作った。

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