第八十七話 銭の穴は、見えるうちに塞ぐ
川道飯荷手間帳。
伊三郎がそう書いた板を掲げた時、清洲蔵の中にいた者たちは、半分ほど黙り、半分ほどため息をついた。
帳面がまた増えた。
誰も口にはしなかったが、皆の顔にそう書いてあった。
権六だけは、遠慮なく言った。
「帳面で蔵が埋まるぞ」
伊三郎は、まったく揺れなかった。
「帳面で埋まるほうが、噂で埋まるよりましです」
「うまいこと言った顔するな」
「事実です」
俺は、苦笑しながら板を見た。
川道飯荷手間帳。
名前は硬い。
だが、必要なものははっきりしている。
清洲の飯荷が渡し場を使う。
喜助の手間が増える。
客が少し待つ。
舟の底を拭く。
折り畳み小台を組む。
濡れた包みを分ける。
飯荷のために一往復増える日もある。
その手間を、普通の客の渡し賃へ混ぜない。
そのための帳面だ。
書く項目は、思ったより多かった。
一、飯荷の数。
二、小台使用の有無。
三、客の待ち時間。
四、渡しを遅らせた理由。
五、喜助の追加手間。
六、濡れ処理の有無。
七、清洲側の手当て対象。
八、客の文句。
八つ。
「多いな」
太助が板を覗き込んで言った。
「川は多いです」
伊三郎がまた同じことを言う。
太助はもう反論しなかった。
昨日、川道を歩いた者なら分かる。
川は、水だけではない。
水位。
泡。
草。
客。
舟底。
濡れた板。
渡し守の手。
商人の銭勘定。
全部が一緒に流れている。
「で、今日は市松さんたちに説明するんだよね」
かやが、川道用の厚味噌片を布へ包みながら言った。
「うん。喜助だけに言わせない」
「商人って、納得してくれるのかな」
「分からない」
俺は正直に答えた。
市松は鋭い。
渡し賃が上がる不安を、誰より早く口にした。
あの手の男は、こちらがごまかせばすぐ分かる。
逆に、全部を出せば、案外話が早いかもしれない。
ただし、全部と言っても軍の都合を全部話すわけにはいかない。
川道仮線が美濃攻略へどうつながるかまでは言えない。
だが、渡し場で普通の客の銭を巻き込まないことは言える。
言わなければならない。
佐助は、説明用に厚味噌片を二種類持つと言った。
「なぜ?」
俺が聞くと、佐助は真面目に答えた。
「普通の包みと、濡れた包みを見せるためです」
「商人に?」
「はい。清洲の飯荷が濡れると、清洲側にも損が出ると分かってもらえます。つまり、川道で無理をすると、客だけでなくこちらも困ると」
なるほど。
説明は言葉だけでは足りない。
物を見せる。
川で濡れた竹皮。
湿気を吸った笹。
外側だけ柔らかくなった厚味噌片。
それを見せれば、飯荷が偉そうに渡りたいわけではなく、むしろ慎重に渡らなければならないものだと分かるかもしれない。
「うまい飯は態度がでかい、も説明するか?」
権六が聞いた。
「しない」
俺は即答した。
「なぜだ。大事だろ」
「商人さんたちに最初に言う言葉じゃない」
「そうか?」
「そうだ」
かやが横で笑っていた。
説明の場は、川辺の渡し場で行うことになった。
清洲蔵に呼びつけるのは違う。
商人たちの腹は渡し場にある。
なら、渡し場で話す。
喜助もそこにいる。
実際に舟もある。
客がどう待つかも見える。
そのほうが早い。
昼前、俺たちは川へ向かった。
荷は少ない。
説明用の厚味噌片。
濡れた竹皮。
川道飯荷手間帳の板。
小台。
そして、茶代ならぬ渡し場への礼として、清洲の味噌を少し。
渡し場へ着くと、すでに市松がいた。
市松だけではない。
布を扱う商人が二人。
魚籠を持った男。
向こう岸の村へ行く老婆。
そして、喜助。
思ったより人数が多い。
俺は少し固まった。
市松がにやりとした。
「どうせ説明するなら、聞きたい奴は多いほうがいいだろ」
「集めたんですか」
「勝手に来たんだ」
喜助が横から言った。
「市松が言いふらしたんだよ。『清洲が渡し賃の話をする』ってな」
「言いふらすなよ」
「噂になるよりましだろ」
市松は悪びれなかった。
確かに、陰で噂になるよりは、目の前に来てくれたほうがいい。
だが、人数が増えると、言葉を間違えた時の傷も大きくなる。
俺は一度息を吸った。
「今日は、清洲の飯荷が渡し場を使う時の手間について、説明しに来ました」
市松が腕を組む。
「渡し賃が上がるかどうか、だろ」
「はい。そこです」
ごまかさない。
最初にそこを言う。
「清洲の飯荷で増えた手間は、普通のお客さんの渡し賃に混ぜない形にします」
ざわり、と小さな声が動いた。
魚籠の男が聞いた。
「本当にか? 舟が傷んだら、結局みんなの賃に乗るんじゃないのか」
「舟が傷むほど清洲の荷を乗せるなら、それは清洲の荷の問題として記録します」
俺は板を示した。
「飯荷の数、小台を使ったか、客をどれだけ待たせたか、喜助殿に増えた手間、濡れ処理。全部、普通の渡しとは分けて書きます」
市松が板へ近づく。
「字が細かいな」
「読めますか」
「読める。読みにくいが」
伊三郎がいたら少し傷ついただろう。
いや、たぶん次はもっと読みやすく書く。
市松は板を指で叩いた。
「客の文句、って何だ」
「そのままです。待たされた、荷が濡れそうだった、軍荷が邪魔だった。そういう文句も書きます」
「俺の文句もか」
「はい」
「名も?」
「名を書いてよければ。嫌なら『布商人』で」
市松は一瞬黙り、鼻で笑った。
「市松でいい。どうせ俺の文句は声がでかい」
喜助がぼそっと言った。
「自覚があるなら少し抑えろ」
「抑えたら届かないだろ」
「届きすぎるんだよ」
二人のやり取りで、少し笑いが起きた。
その隙に、かやが小台を出した。
「これが飯荷用の小台です。舟の底へ直に置かないためのものですが、使う時だけ組んで、終わったらすぐ外します。舟に据え付けません。普通のお客さんの荷を置く場所を取らないようにします」
魚籠の男が小台を見た。
「魚籠台と同じようなものか」
「はい。喜助殿に見てもらって、大きすぎないようにしました」
喜助が言った。
「大きすぎたら俺が捨てる」
「捨てないでください」
かやが真顔で返し、また少し笑いが出た。
佐助が濡れた竹皮を広げた。
「これは、昨日の試験で外側が湿った包みです」
商人たちの目が、少し変わった。
物を見る目になった。
佐助は続けた。
「中身は無事でした。でも、外側の竹皮は飯包みとして再利用できません。清洲の荷も、無理に渡すと損が出ます。だから、こちらも川見役の判断を聞きます」
市松が竹皮を指でつまむ。
「こんなに湿るのか」
「はい。舟底に一瞬触れただけでも危ないです」
魚籠の男が頷いた。
「魚と同じだな。濡れを甘く見ると全部臭くなる」
佐助が少しだけ安心した顔をした。
魚を扱う者には、湿りの怖さが伝わるらしい。
老婆が小さく聞いた。
「それで、私らが待つ時はあるのかい」
俺は老婆へ向き直った。
「あります」
かやが少し目を上げた。
でも、ここは嘘をつけない。
「清洲の飯荷を渡す時、少し待っていただくことはあると思います。ただ、普通のお客さんを押しのけて先に渡すことはしません。昨日も一昨日も、客の方を先に渡しました」
市松が頷く。
「それは本当だ」
老婆は喜助を見た。
「喜助が決めるのかい」
喜助は短く答えた。
「俺が川を見る。客を渡すか、飯荷を待たせるかも俺が言う」
「なら、いいよ。喜助が言うなら」
その一言は大きかった。
老婆にとって、清洲の言葉より喜助の言葉のほうが重い。
それでいい。
渡し場では、喜助の信用が道だ。
そこへ清洲が乗る。
市松が、少し考え込んでから聞いた。
「清洲の荷で喜助の手間が増える。その手当ては清洲が出す。なら、喜助だけ得をするんじゃないのか?」
鋭い。
そう来ると思っていた。
喜助が露骨に嫌な顔をした。
「市松、おまえ」
「大事な話だろ。喜助が清洲の荷を増やしたくなったら困る」
確かに。
喜助にだけ手当てを出せば、今度は逆の疑いが生まれる。
喜助が清洲の荷を優先するのではないか。
喜助が織田に買われたのではないか。
それは避けなければならない。
「手当ては、喜助殿個人だけに出す形にはしません」
俺は答えた。
喜助も少し驚いた顔をした。
「渡し場の手間として記録します。喜助殿の追加手間、舟の拭き取り、客の待ち、荷台の扱い。必要なら、渡し場で使う布や板、縄などの補充に回します。喜助殿への手当ても必要ですが、それだけにしません」
市松が目を細める。
「渡し場全体の手当てか」
「はい。清洲荷で増えた手間は、渡し場全体に返す形にしたいです」
喜助は少し黙り、それからぼそっと言った。
「それなら、俺が織田の犬と言われにくい」
「それも考えています」
「言うなよ、そういうこと」
喜助は顔をしかめたが、嫌そうではなかった。
市松も、ひとまず黙った。
商人の一人が聞いた。
「客が長く待たされた時は?」
「記録します」
「補いはあるのか?」
難しい。
客全員へ銭を返すような形は、すぐには作れない。
それを約束すれば、逆に待ち得が生まれる。
わざと文句を言う者も出るかもしれない。
俺は少し考え、正直に言った。
「すぐに銭で補うとは言えません。ただ、待たせた理由と時間は記録します。飯荷が原因で繰り返し待たせるなら、渡す時刻や量を変えます。文句が出ていることを隠しません」
商人は不満そうだったが、市松が先に言った。
「まあ、今のところはそれでいい。変に銭を配ると言われるほうが怪しい」
助かった。
市松は文句が多いが、道理も見る。
「ただし」
市松は俺を指差した。
「一度でも軍荷だから先に渡せってやったら、この帳面を持って騒ぐぞ」
「その時は騒いでください」
「本当に言ったな」
「はい」
市松はしばらく俺を見て、それから笑った。
「清洲の飯炊きは変な奴だな」
「よく言われます」
「だろうな」
説明は、完全な納得では終わらなかった。
でも、完全な納得など最初から無理だ。
大事なのは、不安が口に出たこと。
渡し賃の噂が、隠れて広がる前に、川辺で話せたこと。
喜助だけに背負わせなかったこと。
それで十分だった。
説明の後、実際に一度だけ飯荷を渡すことになった。
今日は商人たちにも手順を見せるためだ。
ただし、客が優先。
喜助が川見札を上げる。
青札。
「今なら渡せる。客なし。飯荷二包みだけ」
「二包み?」
かやが聞く。
「説明で時間を使った。今日は二で終わりだ」
喜助の判断だ。
従う。
小台を組む。
飯荷を置く。
舟へ乗る。
市松たちは岸で見ている。
いつもなら、見られる側は嫌なものだ。
だが、今日は見せることが目的でもある。
飯荷は静かに舟に乗る。
客がいれば待つ。
喜助が駄目と言えば止まる。
小台は外す。
濡れ戻りは分ける。
それを見てもらう。
向こう岸へ渡り、上段へ荷を置き、すぐ戻る。
湯は作らない。
今日は飯場試験ではなく、渡し信用の試験だ。
戻ると、市松が言った。
「意外とすぐ終わるんだな」
「量を絞っています」
「増えたら?」
「増やす前に、また話します」
「必ずだぞ」
「はい」
市松は布包みを肩に直し、少しだけ頭を下げた。
「まあ、今日は分かった。渡し賃が明日から上がるわけじゃないことはな」
それだけでいい。
噂の芽は、少しだけ湿りを抜けた。
清洲蔵へ戻ると、伊三郎が報告を待っていた。
板を見せ、市松の文句も、老婆の言葉も、魚籠の男の反応もすべて話した。
伊三郎は次々に書く。
川道飯荷手間帳、説明実施。
市松ほか商人、渡し賃上昇懸念。
普通客の賃へ清洲荷手間を混ぜない方針。
手当ては喜助個人だけでなく、渡し場全体の手間・道具補充も含め検討。
客待ちの銭補償は即答せず。理由と時間を記録し、繰り返す場合は運用変更。
帳面を見える形にする。
飯荷は客の後ろを渡る。
渡し場の信用を守ることが川道仮線の第一条件。
最後の一文を、伊三郎は少し強く書いた。
川道仮線の第一条件。
飯ではない。
味噌片でもない。
渡し場の信用。
そこが崩れれば、川道は使えない。
弥助殿へ報告すると、彼は静かに頷いた。
「よい。銭の穴を見えるうちに塞いだな」
「まだ塞ぎきれてはいません」
「塞ぎきれなくていい。見えるようにしておけ。敵が銭を入れにくくなる」
「はい」
「市松という商人は使える」
弥助殿がぽつりと言った。
「使う、ですか」
「敵としてではなく、文句の目としてだ」
文句の目。
権六の仲間が増えたような気がした。
本人には言わないほうがいいかもしれない。
夜、清洲蔵では厚味噌片湯を作った。
今日は、少し薄めだ。
渡し場で長居しない味。
権六がすすって言った。
「今日の飯は、銭の穴を塞ぐ味だな」
「うまいか?」
「うまい。でも、今日は味より帳面が効いてる」
かやが笑った。
「帳面が効く飯って何?」
「飯を食う前に、揉め事を減らす味だ」
佐助が真面目に頷く。
「揉めていると、味も悪くなりますから」
作兵衛が言った。
「川道は、客の腹を荒らさないことだな。人足より先に商人が文句を言う道だ」
伊三郎がそれを書こうとして、太助が止めた。
「それ、また残るんだろ」
「残します」
「止めても無駄だった」
皆が笑った。
俺も笑った。
川道仮線は、まだ正式線ではない。
だが、今日、少しだけ分かった。
川道では、飯荷そのものより先に、渡し場の信用を運ばなければならない。
渡し賃の噂は、水より早く広がる。
だから、噂になる前に、銭の穴を見えるところへ出す。
市松の文句も、喜助の不安も、客の待ち時間も、全部隠さず書く。
そうしなければ、川道は渡る前に沈む。
厚味噌片の湯は、今日も少し笹の香りがした。
水の多い道の味だ。
濡れないように、噂を湿らせないように、少しずつ形を作っていく。
川道仮線は、飯より先に信用を渡す線になり始めていた。




