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尾張の飯炊き足軽、信長に拾われる 〜桶狭間の裏で名もなき兵糧係は腹から天下を支えた〜  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第八十六話 渡し賃の噂は、水より早く広がる

 川道仮線の少量渡しは、ひとまず成功した。


 飯荷は濡れなかった。

 厚味噌片は舟の揺れに耐えた。

 折り畳み小台は、舟の底でも向こう岸の上段でも使えた。

 濡れ戻り棚も、清洲蔵でちゃんと役に立った。


 何より、普通の客をどかさずに済んだ。


 老婆を先に渡し、商人を先に渡し、若い母親と子どもも待たせすぎなかった。


 喜助は、最後まで清洲の飯荷を特別扱いしなかった。


 それがよかった。


 川道仮線は、少しだけ前へ進んだ。


 だからこそ、次の日には別の文句が出た。


「渡し賃が上がるんじゃないのか」


 その言葉を持ち込んだのは、昨日の商人だった。


 名前は市松というらしい。


 布包みを扱う小商いの男で、川向こうの村と清洲の間を行き来している。


 朝、喜助の渡し場に顔を出した俺たちは、市松にいきなりそう言われた。


「織田の飯荷が増える。舟が混む。喜助の手間が増える。そうなれば渡し賃が上がる。違うか?」


 市松は、最初から喧嘩を売るような口調ではなかった。


 ただ、警戒していた。


 商人の腹だ。


 毎日少しずつ銭を数える者の腹。


 一文でも上がれば困る。


 時間が遅れれば困る。


 荷が濡れれば困る。


 喜助は舟の縄を直しながら、面倒くさそうに言った。


「まだ上げるなんて言ってねえ」


「まだ、だろ」


 市松はすぐ返した。


「織田の荷が増えたら、そうなる。軍の荷を渡すために客を待たせる。舟が傷む。小台だ何だと置く。そうなったら、こっちに回ってくる」


 言い方はきつい。


 だが、間違ってはいない。


 昨日、俺たちは客をどかさなかった。


 それでも、市松は先を見ている。


 今日だけではない。


 明日、明後日、川道仮線が正式になった後のことを考えている。


「清吉」


 かやが小声で言った。


「これは早いほうがいい」


「うん」


 銭の話は、遅れると腐る。


 高畑でも学んだ。


 待機銭。

 人足の手間。

 味噌片の手間。

 茶屋への礼。

 井戸番の役。


 見ないふりをした銭の穴には、敵の銭が入る。


 川道でも同じだ。


 渡し賃の不安を放っておけば、「織田のせいで渡しが高くなる」という噂になる。


 噂は、水より早く広がる。


「市松さん」


 俺は頭を下げた。


「今日、その話を決めに来たわけではありません。でも、決めなければならない話です」


 市松は少し眉を上げた。


「認めるのか」


「不安があることは認めます。織田の飯荷が増えれば、喜助殿の手間は増えます。舟を使う時刻も変わります。普通のお客さんの不満も出ます」


「なら渡し賃が上がる」


「上げる前に、別に見るべきです」


「別?」


 俺は喜助を見た。


「清洲の飯荷で増えた手間は、清洲が別に記録して、別に手当てを出すべきです。普通の客の渡し賃へ混ぜない」


 喜助の手が止まった。


 市松も黙った。


 かやが頷く。


「飯荷用の小台を使うなら、その出し入れの手間。客を待たせた時間。濡れた舟底を拭いた時間。そういうものは、清洲荷の手間として記録する。普通の渡し賃とは分ける」


「また分けるのか」


 喜助が呟いた。


「分けないと揉めます」


 俺は答えた。


 喜助は少し黙り、それから鼻で笑った。


「清洲は、何でも分けるな」


「分けないと、どこに文句があるか分からなくなります」


 市松が腕を組んだ。


「本当に客の渡し賃に混ぜないのか」


「その形にしたいです。今日、清洲へ戻ったら上げます」


「上げます、で済むのか?」


「済みません。だから帳面にします。市松さんの文句も書きます」


「俺の名もか」


「名を書いてよければ。嫌なら『布商人』と」


 市松は少し考えた。


「名でいい。どうせ喜助が知ってる」


 喜助がぼそっと言った。


「口のうるさい市松って書いとけ」


「余計なこと書くな」


 市松が睨む。


 渡し場に、小さく笑いが起きた。


 空気が少しだけ緩んだ。


 だが、問題は消えていない。


 今日は、川向こうの上段荷置き場を一時飯場として使えるかを見に来た。


 少量の厚味噌片を渡し、上段で湯を作り、荷を置く時間を測る。


 しかし、市松の文句が出たことで、目的が一つ増えた。


 川道仮線は、飯だけでなく渡し賃の腹も見る必要がある。


 喜助は川見札を出した。


 黄札。


「待て。客一人、先」


 市松だった。


「俺か?」


「おまえだ。渡るんだろ」


「清洲の見分は?」


「後だ。さっき自分で言っただろうが。客をどかすなって」


 市松は少しだけ気まずそうな顔をした。


「……なら、先に渡る」


 俺たちは岸で待った。


 市松の荷は、昨日より大きかった。


 布包みを二つ。


 喜助はいつもの手順で舟へ載せる。


 濡れた板を避け、荷を安定させる。


 俺たちは、その手順を見た。


 飯荷だけではない。


 商人の荷にも、同じ川の面倒がかかっている。


 濡らせば損。

 遅れれば損。

 渡し賃が上がれば損。


 市松の腹は、清洲の飯線とは別に生きている。


 それを踏んではいけない。


 市松を渡し終え、喜助が戻ってきた。


 今度は青札。


「今なら渡せる。だが、昼前までだ。午後は水が少し上がるかもしれん」


「草ですか」


「今日は泡だ」


 喜助は川面を指した。


 昨日よりも細かい泡が多い。


 俺には、やはりよく分からない。


 でも、喜助には分かる。


 川見役が必要な理由が、また一つ増えた。


 かやが折り畳み小台を半組みにしている。


 昨日より手つきが早い。


 舟へ乗せ、最後の縄を締める。


 厚味噌片の包みは三つ。


 それと、試し用の小さな竹筒。


 今日は上段で一時飯場として使えるかを見るため、湯を作る道具も少しある。


 ただし、火は小さい。


 煙を出しすぎない。


 川向こうで火を使えば、目立つ。


 水があるからといって、自由に湯を沸かせるわけではない。


 舟が揺れる。


 小台は昨日より安定していた。


 太助が小声で言う。


「小台、慣れると便利だな」


 喜助がすぐ言った。


「慣れて雑に扱うなよ。雑に置くと舟の底を傷める」


「はい」


 太助は素直に返事をした。


 向こう岸へ着く。


 人が先に下り、足場を見る。


 荷は手渡し。


 上段へ縄を張る。


 昨日と同じ手順だ。


 だが今日は、そこからもう一段進む。


 上段荷置き場。


 乾いて見える下段ではなく、増水を避けた上の段。


 そこに小台を置き、厚味噌片を並べる。


 かやが周囲を見る。


「一時飯場にするには、狭い」


「何人まで?」


 作兵衛が聞く。


「人が立つだけなら五人。でも荷を置いて湯を作るなら、三人まで。人足が休む場所としては弱い」


 佐助が火の位置を見る。


「湯は作れます。ただ、風向きで煙が川側へ流れます。向こう岸から見えるかもしれません」


「火なしのほうがいいか?」


 俺が聞くと、佐助は首を傾けた。


「厚味噌片は湯があって力を発揮します。でも、ここで毎回湯を作るのは危険です。今日は試しだけ。普段は持ち込み湯か、湯なしで使える補助飯が必要かもしれません」


 川道は水がある。


 だが、湯は簡単ではない。


 水があることと、湯を作れることは違う。


 高畑でも学んだはずなのに、川を前にするとつい忘れそうになる。


 俺は小帳面に書く。


 上段、一時飯場として狭い。

 三人程度。休み場弱。

 湯は作れるが煙注意。

 普段は持ち込み湯または湯なし補助飯。

 川水あり=湯可ではない。


 太助が上段の端に腰を下ろそうとした。


 作兵衛がすぐ止める。


「座るな」


「え、何で」


「そこ、土が崩れる」


 見ると、端の土が少し削れている。


 水で下がえぐられた跡だろう。


 上段は増水に強いが、端は崩れやすい。


 人が座れば崩れるかもしれない。


 かやが顔をしかめる。


「荷置きは中央だけ。端は不可。人を座らせない」


「休み場としてはさらに弱いな」


「うん」


 上段荷置き場は、飯場ではなく荷置き場だ。


 名前の通り。


 人が腹を落ち着ける場所ではない。


 荷を濡らさず置き、次へ渡すための場所。


 高畑の背戻し窪地とも違う。


 川道では、休ませる場所と置く場所を分けなければならない。


 厚味噌片を湯に溶いた。


 味は良い。


 だが、湯を作る手間が大きい。


 佐助は椀を見て言った。


「試しとしては成功です。でも、ここで毎回これをやると、渡し場を占有しすぎます」


「飯がうまいほど、場所を取るな」


 俺が言うと、太助が笑った。


「うまい飯は態度がでかい」


 伊三郎がいたら書くだろう。


 俺は代わりに書いた。


 うまい飯は態度がでかい。

 川道では注意。


 我ながら何を書いているのかと思う。


 しかし、意味はある。


 温かくうまい飯は、人を止める。


 止まれば場所を使う。


 場所を使えば渡し場の動きが遅れる。


 川道仮線では、うまさも荷になる。


 喜助が川面を見て言った。


「戻るぞ」


「もうですか」


「泡が増えた。あと、向こう岸に客が来た」


 見ると、対岸に二人の人影がある。


 こちらを見ている。


 普通の客だろう。


 なら、戻る。


 飯荷の試しで舟を塞がない。


 湯を片付ける。


 火を消す。


 灰を残さない。


 荷を小台へ戻す。


 上段の端に足跡が残りすぎないよう、かやが草を戻す。


 ただし、隠しすぎると逆に不自然になる。


 こういう細かいところが、かやはうまい。


 戻りの舟では、使用済みの包みを濡れ札付きで持ち帰る。


 喜助は、岸へ着く前から次の客へ声をかけていた。


「待たせたな。すぐ渡す」


 客の一人がこちらを見て言った。


「織田の荷か」


 まただ。


 今日はこの言葉がよく出る。


「試し荷です。お待たせしました」


 俺は頭を下げた。


 客は少し驚いたような顔をした。


「いや、そんなに待ってないが」


 喜助が横から言った。


「待ったことには変わらん。清洲、記録しろ」


「はい」


 喜助が言うと、俺たちは本当に記録する。


 客二人、少し待機。

 飯荷試験により舟一往復分遅れ。

 文句なし。ただし記録。


 待たせた時間が短くても、残す。


 短いから隠す、ではない。


 短いから書く。


 それが積もる前に見る。


 客を渡した後、喜助は俺たちを岸へ呼んだ。


「今日の分、手間は増えた」


「はい」


「だが、客は大きく荒れてない」


「はい」


「それは、おまえらが待ったからだ。先に渡ろうとしたら、市松が騒いで、今の客も騒いだ」


「市松さんの文句は役に立ちました」


 喜助は少し笑った。


「あいつに言うと調子に乗るぞ」


「言いません」


「いや、少しは言ってやれ。文句が役に立つこともある」


 権六が聞いたら胸を張るだろう。


 喜助は続けた。


「渡し賃の話は、早く決めろ。清洲の手間を客の賃に混ぜない。それをはっきり言え」


「はい」


「俺から言ってもいいが、清洲も言え。俺だけが言うと、俺が清洲に寄ってるように見える」


「分かりました」


 川見役を潰すな。


 その意味が、ここでも出る。


 喜助一人に説明させてはいけない。


 清洲が関わる不安は、清洲も説明する。


 清洲蔵へ戻ると、まず濡れ戻り棚へ荷を置いた。


 佐助は包みの湿りを確認する。


「二度目の渡しでも中身は無事です。ただ、外竹皮はもう使えません。笹は水気を吸っています」


「再利用不可?」


「川道用の外包みは、基本一度使いがよさそうです。乾かして別用途ならともかく、飯包みには戻したくありません」


 また手間と銭が増える。


 川道仮線は、包みの消耗が大きい。


 伊三郎が報告を清書する。


 川道上段荷置き試験。

 普通客、市松優先。黄札、客多し。

 渡し賃上昇の不安あり。

 清洲飯荷手間は普通客の賃へ混ぜない方針要検討。

 上段は荷置き可。一時飯場として狭い。三人程度。休み場弱。

 端は崩れ危険。中央のみ使用。

 湯作り可。ただし煙と場所占有。普段使用は慎重。

 厚味噌片、二度渡しでも中身無事。外竹皮再利用不可寄り。

 客二人、一往復待機。文句なし、記録。

 うまい飯は態度がでかい。川道では注意。


 最後の一文を見て、伊三郎は少しだけ筆を止めた。


「これは誰の言葉ですか」


「俺です」


「残します」


「残るのか……」


 権六が後ろから覗き込んだ。


「いいじゃねえか。うまい飯は態度がでかい。分かるぞ」


「分かるのか」


「うまい飯を出すと、人が座る。座ると場所を取る。場所を取ると文句が出る」


 ちゃんと分かっていた。


 権六は、やはり文句役だ。


 弥助殿への報告では、渡し賃の話が中心になった。


 弥助殿は静かに聞き、最後に言った。


「銭の話は早いほうがいい」


「はい」


「喜助にだけ説明させるな。清洲からも言え」


「はい」


「飯荷の手間賃を普通の客へ混ぜない。これは上へ上げる。だが、形が要る」


「形?」


「川道飯荷手間帳だ」


 伊三郎の目が光った。


 また帳面だ。


「渡し一回ごとに、飯荷の数、客の待ち、喜助の手間、小台使用、濡れ処理。全部書け」


「はい」


「それをもとに手当てを出す。客の渡し賃には混ぜない。そう言える形を作る」


 銭の穴を先に塞ぐ。


 川道仮線でも、やはりそれが必要だった。


 夜、清洲蔵では厚味噌片湯を薄めに作った。


 今日は、うまくしすぎない。


 あえて少し軽くした。


 川道上段で人を長く座らせない味。


 権六がすすって言った。


「昨日よりおとなしいな」


「態度を小さくした」


 俺が言うと、権六は笑った。


「今日の飯は、渡し場で腰を低くしてる味だな」


 かやが椀を持って頷く。


「客の後ろを渡って、場所を取りすぎない味」


 佐助は少し複雑そうだった。


「味をよくしすぎない調整は、難しいです」


「料理人としては嫌か?」


「少し。でも、川道では必要です」


 作兵衛が言った。


「腹いっぱいにしない飯。座らせすぎない飯。戻らせる飯。いろいろ増えたな」


 伊三郎が帳面を閉じながら言う。


「川道仮線は、飯・水・渡し・銭・噂を同時に見る線になりそうです」


「噂も?」


 太助が聞く。


「渡し賃が上がるという噂です。早めに形を作らないと広がります」


 市松の文句は、たぶん最初の泡だった。


 川の泡と同じだ。


 見逃せば水位が変わる。


 文句の泡も、見逃せば噂になる。


 俺は椀を置いた。


 川道仮線は、少しずつ進んでいる。


 だが、進むほど川以外のものが見えてくる。


 渡し守。

 普通の客。

 商人。

 渡し賃。

 待ち時間。

 包みの再利用。

 飯のうまさが場所を取ること。


 水が多い道ほど、飯は濡れる。


 そして、銭の噂も湿った草のように広がる。


 次は、川道飯荷手間帳を作る。


 市松にも、喜助にも、普通の客にも見える形で。


 飯荷が客の後ろを渡るなら、その後ろで銭の穴も塞がなければならない。

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