第八十五話 飯荷は、客の後ろを渡る
川道仮線の試しの日、清洲蔵には妙な静けさがあった。
高畑砦へ飯を送る朝とは違う。
北尾根へ歩き飯を持っていく朝とも違う。
川道は、飯を急がせない。
いや、急がせてはいけない。
喜助が昨日言った言葉が、蔵の中に残っていた。
――渡し場は、軍の橋ではない。
その一言のせいで、今日の荷はいつも以上に慎重に作られていた。
厚味噌片。
川道用の二重竹皮包み。
笹を薄く挟んだ湿気逃がし。
水結び。
濡れ確認札。
川見札。
そして、かやが夜のうちに作った折り畳み小台。
小台は、思ったより小さかった。
板が二枚。
横木が二本。
縄で簡単に止める。
使う時だけ組み、終わればばらす。
舟の底に直接荷を置かないためのものだ。
ただし、喜助に言われた通り、大きすぎてはいけない。
舟は清洲のものではない。
渡し場のものだ。
普通の客の荷も、人も、魚籠も乗る。
飯荷だけが威張るわけにはいかない。
「これ、本当に大丈夫かな」
かやが小台を持ち上げながら言った。
「自信ないのか?」
「ある。でも川は帳面を読まないし、舟も私の都合を聞かない」
「かやでも弱気になるんだな」
「弱気じゃない。川相手に強気になるほうが危ない」
その通りだった。
佐助は厚味噌片を包んでいる。
昨日よりさらに平たい。
小味噌玉は、今回は外した。
舟で転がる。
転がる味噌は、川道に向かない。
どれほど味がよくても、道で壊れる飯は使えない。
「厚味噌片は三包みです」
佐助が言う。
「少ないな」
「試験なので。増やすと、濡れた時の被害が大きくなります」
「味は?」
「昨日より少し笹の香りを抑えました。濡れにくさと食べやすさの間です」
権六が横から一枚を見ていた。
「味見は?」
「試験用の数です」
「俺は文句役だぞ」
「今日は川へ行かない文句役です」
「そんな役あるのか」
かやが即答した。
「ある。蔵で食べる人の文句も必要」
権六は不満そうだったが、少し嬉しそうでもあった。
伊三郎は川見札を確認している。
青札――渡し可。
黄札――待て。水位または客多し。
赤札――渡し不可。
黒印――濡れ危険。荷包み直し。
白印――飲み水不可。本流使うな。
丸印――細湧き使用可。ただし少量。
色も印も多い。
だが、川は多い。
伊三郎の言葉がそのまま腹に残っている。
「今日は、飯荷が渡れるかではなく、飯荷が邪魔をしないで渡れるかを見ます」
伊三郎が言った。
「邪魔をしないで渡る」
太助が聞き返す。
「荷運びなのに、主役じゃないんだな」
「今日の主役は渡し場です」
伊三郎は真面目に返した。
太助は首をひねった。
「渡し場が主役って、どういうことだよ」
作兵衛が背当てを直しながら言う。
「飯荷が主役面すると、渡し場が荒れるってことだ。今日は客の後ろを渡る」
「客の後ろ?」
「そうだ。飯荷は客の後ろ。清洲式の新しい文句だ」
「文句じゃねえだろ」
太助はそう言ったが、俺は小帳面に書きかけた。
飯荷は、客の後ろ。
今日の要点としては、悪くない。
清洲を出たのは、いつもより少し遅い時刻だった。
渡し場の朝一番は、地元の者や商人が動く。
そこへ飯荷をぶつけないためだ。
喜助が昨日、「朝の渡しは商いの腹だ」と言っていた。
朝を塞げば、一日分の文句が出る。
だから、少し待つ。
待てる荷にする。
これも川道用の考え方だった。
川へ近づくと、湿った匂いが強くなった。
北尾根とはまるで違う。
水の気配がありすぎて、逆に落ち着かない。
太助が言った。
「川道は、近づくだけで荷が湿る気がする」
「実際、湿るかもしれない」
佐助が答えた。
「包みの外をあとで見ます」
「俺の背中も見てくれ。汗で湿る」
作兵衛が笑う。
「それは自分で拭け」
渡し場に着くと、喜助は舟を岸へ寄せていた。
だが、こちらを見ると、すぐに手を上げた。
青札ではなかった。
黄札。
待て。
「まだ駄目だ」
喜助が言った。
「水位ですか?」
俺が聞くと、喜助は首を振った。
「客だ」
渡し場の脇には、二人の客がいた。
一人は籠を背負った老婆。
もう一人は、荷を持った商人。
老婆は向こう岸の村へ行きたいらしい。
商人は布包みを大事そうに抱えている。
軍荷ではない。
普通の客だ。
普通の人の用事だ。
喜助は言った。
「先にこの二人を渡す」
「はい」
俺は即答した。
商人がこちらを見る。
「清洲の荷じゃないのか」
「試し荷です。お先にどうぞ」
商人は少し疑うような顔をした。
「本当に?」
「はい」
老婆が小さく頭を下げる。
「すまないねえ」
「いえ」
そのやり取りだけで、渡し場の空気が少し変わった。
清洲の飯荷が来ても、客はどかされない。
それを見せることが、今日の最初の試験だったのかもしれない。
喜助は、老婆を先に舟へ乗せた。
足元を支える。
商人の荷は濡れない場所へ置く。
舟が出る。
俺たちは岸で待つ。
待つ間、かやが小台を見直していた。
「舟の中で組む時間、どれくらいかな」
「短いほうがいい」
作兵衛が言う。
「客を待たせて組むのは駄目だ。こちらが待ってる間に組める形にしろ」
「舟の外で組んで、乗せる?」
「大きすぎると邪魔だ」
「なら半組みにしておく」
かやはその場で小台を半分だけ組んだ。
板二枚を軽く合わせ、縄を仮に通す。
舟に乗せたら、最後の一締めだけで済むようにする。
「これなら早い」
かやは言った。
川道用の道具は、舟の上で時間を取らないことも大事だ。
喜助が戻ってきた時、こちらの小台を見て目を細めた。
「考えたな」
「まだ試しです」
「試しで済む大きさだ。乗せてみろ」
青札。
渡し可。
俺たちはすぐ動いた。
ただし、急ぎすぎない。
飯荷は三包みだけ。
太助が一つ、仁吉が一つ、俺が一つ持つ。
かやが小台を持つ。
佐助は濡れ確認札と竹皮を持つ。
舟へ乗る前に、喜助が言った。
「先に小台。次に荷。最後に人だ」
「人が最後?」
太助が聞く。
「荷を置く場所を作ってから人が乗れ。人が先に乗ると、荷を置く場所がなくなる」
なるほど。
渡しの順まで違う。
小台を舟底に置く。
かやが最後の縄を締める。
荷を平置き。重ねない。
人が乗る。
足で荷を蹴らない位置に立つ。
それだけで、昨日より安定した。
ただし、舟の中は狭くなった。
喜助がすぐ言う。
「この数ならいい。五包み以上は邪魔だ」
「一度に三包みまで?」
「水位が低けりゃ四。客がいれば二。今日は三」
川見役の判断だ。
伊三郎がいればすぐ書く。
俺は小帳面へ書いた。
小台使用時、飯荷三包み目安。
客あり二。水低く客なし四。
川見役判断。
舟が出た。
揺れる。
小台は動かなかった。
厚味噌片の包みも転がらない。
昨日の小味噌玉とは違う。
かやが小さく息を吐く。
「よし」
喜助が水面を見ながら言った。
「喜ぶのは向こう岸で開けてからだ」
「そうですね」
佐助が真顔で答えた。
向こう岸へ着く。
今度は手順を変える。
人が先に降りる。
荷はまだ舟の上。
岸の足場を確認。
上段へ行く者が縄を張る。
荷を手渡し。
ぬかるみへ置かない。
昨日の失敗を踏まえた手順だ。
太助が縄を張る。
足元はやはり滑る。
「ここ、昨日よりぬるい」
「雨はないのに?」
「水が上がった跡かも」
喜助が言う。
「朝に少し上がって、今は下がった。泥だけ残ってる」
川は水が引いた後も面倒を残す。
上段へ荷を運び、ようやく置く。
かやが小台をもう一度組み直し、上段でも荷置き台にする。
「舟でも使って、陸でも使える」
彼女は少し満足そうだった。
佐助が包みを開く。
外側の竹皮は少し湿っている。
二重の内側は無事。
笹は、ほんの少し水気を吸っていた。
厚味噌片は無事。
ただし、端が少し柔らかい。
「一度の渡しなら大丈夫です」
佐助が言った。
「二度、三度と往復すると危ないかもしれません」
「なぜ?」
太助が聞く。
「同じ包みを開け閉めしたり、湿った空気に長く置くと柔らかくなります。今日のように少量ですぐ使うなら問題は少ないです」
川道用の厚味噌片は、少量輸送向き。
常備には向かない。
高畑の砦十人包みとは逆だ。
水が多い場所なのに、長く置けない。
上段で、持ち込み水を使って厚味噌片湯を作った。
喜助がそれを見て鼻を鳴らす。
「川まで来て、持ち込み水か」
「最初は安全に」
「正しい。川の水を見た目で信じる奴は、だいたい腹を壊す」
佐助が頷く。
「細湧きも後で確認します。今日は使いません」
「今日はそれでいい」
喜助の許しが出た。
厚味噌片湯は、うまかった。
川辺の湿った空気の中だと、香りが少し立つ。
北尾根の歩き飯とはまるで違う。
太助が飲んで言った。
「これは、渡った後なら嬉しい」
「渡る前は?」
「渡る前に飲むと、舟で揺れて腹が変になりそう」
作兵衛が笑った。
「それも書く」
「またか」
渡る前に飲む飯ではなく、渡った後に腹を戻す飯。
川道用の厚味噌片湯は、渡し後飯かもしれない。
また名前が出そうで、俺は一瞬黙った。
だが、伊三郎がいないのに頭の中で書かれてしまった。
渡し後飯。
嫌なほど分かりやすい。
少量試験は、ここまでだった。
川道先候補のさらに奥へは入らない。
今日は渡しと荷置きだけを見る日だ。
喜助が言った。
「戻りは早めにする」
「まだ昼前ですが」
「水面に泡が増えた。上で水が動いてる」
見ても、俺にはよく分からない。
小さな泡が流れている。
喜助には、それが見える。
川見役は必要だ。
改めてそう思った。
戻りの舟では、空の包みと濡れ確認用の竹皮を持った。
これが「濡れ戻り」だ。
清洲へ戻ってから、濡れ戻り棚へ置く。
喜助が言った。
「空でも濡れたものは別にしろ。魚籠と一緒だ」
「魚籠も?」
「濡れた籠を乾いた炭の横へ置く馬鹿はいない」
なるほど。
川の者は、湿りの扱いを知っている。
清洲蔵は、それを学ぶ必要がある。
渡し場へ戻ると、別の客が待っていた。
若い母親と子ども。
子どもは眠そうに母親の袖をつかんでいた。
俺たちは舟から荷を下ろし、小台をすぐに畳んだ。
舟の中に残さない。
母親がこちらを少し不安そうに見ていた。
喜助が言った。
「すぐ渡す。待たせたな」
「いえ」
母親は小さく答えた。
俺たちは岸から離れた。
飯荷は終わった。
次は客だ。
その順を守る。
渡し場は、軍の橋ではない。
その姿を、今日も見せる。
母親と子どもを乗せた舟が出るのを見ながら、太助がぽつりと言った。
「飯荷って、偉そうにしないほうが通るんだな」
作兵衛が頷く。
「偉そうにすると、道が閉じる」
「道って、人が閉じるんだな」
「そうだ」
いい言葉だった。
道は、木や石だけで塞がるわけではない。
人の腹が閉じれば、道は閉じる。
清洲へ戻ると、まず濡れ戻り棚へ荷を置いた。
かやが厳しく見ている。
「川道から戻ったものは、ここ。高畑にも北尾根にも戻さない」
「この竹皮、まだ使えそうだけど」
太助が言うと、かやは即答した。
「乾かして確認してから。勝手に戻さない」
「はい」
怒られた太助は、素直に引いた。
佐助は厚味噌片を割り、湿りの入り方を確認した。
「外側は柔らかくなりましたが、中は保っています。笹は有効です。ただ、笹の量が多いと香りが移りすぎます」
伊三郎は報告を清書した。
川道仮線、少量渡し試験。
普通客優先、飯荷待機。
黄札、客多しで使用。
折り畳み小台、舟上・上段荷置きで有効。
飯荷三包み目安。客あり二、水低く客なし四。
荷は先に置き、人は後。向こう岸では人が先、荷は手渡し。
上段使用。下段不可。
厚味噌片、少量渡し可。小味噌玉は継続不可。
濡れ戻り棚、必須。
渡し後飯として厚味噌片湯有効。
渡し場は軍の橋ではない。
道は人の腹で閉じる。
最後の一文を見て、太助が顔をしかめた。
「それ、俺のか?」
「はい」
「文句じゃないのに残った」
「良い言葉です」
伊三郎は真面目だった。
弥助殿へも報告した。
彼は聞き終えると、短く言った。
「喜助を潰すな」
「はい」
「渡し場の客をどかさなかったのはよい。噂を防ぐには、実際にそうするのが一番早い」
「今後も守ります」
「守れなかった時は、記録しろ。隠すな」
そこまで言うのが弥助殿らしい。
約束は守る。
だが、守れない時があるかもしれない。
その時、隠せば腐る。
川の湿気と同じだ。
隠した湿りは、後で飯を悪くする。
夜、清洲蔵では川道用の厚味噌片湯を皆で飲んだ。
今日は、実際に渡った包みとは別の試作品だ。
笹の香りが少しある。
権六がすすって言った。
「うまい」
「文句は?」
「ある。うまいから余計に腹立つ。川道は、飯はうまいのに渡るまでが面倒だ」
かやが笑う。
「今日の飯は、客の後ろを渡った味だね」
「それ、いいですね」
佐助が少し嬉しそうに言った。
「飯が偉そうにしていない味です」
作兵衛が椀を持ったまま言う。
「飯が偉そうにすると、人が道を閉じる。今日のは覚えておいたほうがいい」
俺は頷いた。
川道先候補は、北尾根とは違う難しさを持っている。
北尾根は、鳥と喉と敵の目。
川道は、湿りと渡しと人の順番。
どちらも簡単ではない。
だが、川道は少し進んだ。
喜助が仮の川見役になった。
折り畳み小台が使えた。
厚味噌片は渡せた。
濡れ戻り棚も機能した。
そして、普通の客をどかさずに済んだ。
飯荷は、客の後ろを渡る。
その一歩が、川道仮線の最初の本当の一歩だった。




